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 寝返りを打っていたアマーリエは、ふと起き上がると、その布張りの箱から懐中時計を取り出し、彫刻の施された蓋をゆっくりと手のひらで撫でた。
 規則正しい針の音を聞きつつ、そっと耳元に当てると、歯車と小さな風の音がする気がする。蓋に細工された花を揺らす風はきっとこんな風にささやかだろう。
 贈り物だと言っていた。多分彼は直接渡すつもりなくここにやってきたのだろう。アマーリエの様子を見に、何度か深夜この部屋にやってきていたのだ。
(表情は変わらなかったけど、多分、びっくりしてた)
 うたた寝から飛び起きた後のアマーリエの態度を、呆気にとられたように見ていたように思う。くすくすっと笑って、時計を手に再び寝台に滑り込む。
(キヨツグ様)
 ようやく名前を素直に、心の中で呼べるようになっていた。
 ここに来てそれなりに日が経ったし、当然といえば当然かもしれないけれど、いままでなんだか怖い気がしてなかなか名前を呼ぶことができなかったのだ。
 キヨツグは、無理はしないでいいと言っていた。役目を果たせないアマーリエに、それでも優しくしてくれるのは義務だからだろうか。
 仲が良ければ周囲は安心するだろう。疑問を抱くこともなければ、問題も起こらない。人の調和を保つのが彼の務めならば、きっと、この厚意は族長という責任の元にあるのだ。
 ずきっと胸が痛んで、アマーリエは息を詰めた。
(……なに……? なんだろう……)
 急に目が熱くなり、熱を出したときのように心細い気持ちになってくる。
 だからぎゅっと目をつむって、毛布を巻き込んで丸まった。早く眠りが訪れますようにと祈りながら。



       *


 その日の衣装は、引きずらない短い裾の上衣と、男性が履くようなすっきりとした袴で、アマーリエは朝から面食らってしまった。髪も飾りを施さず、シンプルな髪留めでポニーテールに結わえられる。
「天様のご指示なのです」とアイが言った。
「朝餉の前に、外でお会いしたいとのことです。いつものお召し物では動きづらいので、こちらをご用意させていただきました」
 着替えを終えると、外に案内される。
 大地は昨夜の夜露できらめき、空は冷たく澄んでいた。遥かな山並みには雪化粧が施され、いまが冬だと実感する。雪は都市ではめずらしいので、白い山を見たことのない人も多いはずだった。アマーリエも映像でしか覚えがないけれど、深呼吸すれば、澄んだ景色を形作る大気が心地よく全身に巡っていく。
 王宮の西側、大きく開かれた牧場のようなところにやってくると、ひとかたまりになって何かを話していた人たちがアマーリエに気付いた。
 目が合っても、以前のようにびくっとはしない。――少しだけ、どきどきするけれど。
「おはよう、真」
「おっはよ、真サマ」
「…………」
「おはようございます、真様」
 キヨツグとマサキに続いて、見慣れぬ男女からも挨拶を受ける。
 どちらも剣を佩いていて、鎧や籠手を身に付けている。それが自然と馴染んで見える様から、二人とも武官だと思われた。
 アマーリエは小走りになって彼らに近付き、頭を下げた。
「おはようございます。すみません、遅くなりました」
「定刻通りだ、問題ない。まずは、紹介しておこう」
 キヨツグはマサキの方に目をやった。
「マサキのことは知っているな。マサキ・リィ。リィ家当主。我が従弟だ」
「はい。…………え、い、従弟!?」
 アマーリエの驚きに対して、マサキは不思議そうに首を傾げた。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてない! ああ、道理でサコ先生が怒ったはずだ……」
 キヨツグの従弟だというなら立場のある人間なのだろう。キヨツグに対してだけでなく、マサキにも礼を失した態度を取ったから、あんな風に叱られたのだ。
 マサキは唇を尖らせる。
「でも従弟つってもよくわかんないだろ? ヒト族は一族の観念が薄いって聞いたぜ」
「血の繋がりが大事なことくらいはわかります。それに心構えがあるでしょう。……じゃああなたは王族なのね?」
「族長一族な。でも別に、俺そーゆーの興味ナイし」
 むっとして言い返す。
「本人が興味なくとも周りはそうは思わないんだよ。そう生まれついたからにはふさわしい振る舞いをしろって言われるでしょう?」
 市長の娘として生まれたために、それに応じた立ち居振る舞いを求められ、教育されてきたアマーリエだった。特に辛いと思ったことはなかったけれど、この国にいることを思えば、つい小言めいた口調になる。
 けれどマサキはなんとも言い難い、どちらかというと悲しげな顔をしたことに気付いて、はっとした。
「……ごめんなさい。偉そうなこと言った」
「いいや? 俺ちゃんとやってるもん。一応『前族長の妹の息子』で『族長候補』だったけどいまは普通に『家長』で『当主』で、『天様の従弟』だからさー」
「っほら! そういうところ!」
 仕返しとばかりに並べ立てられた彼の役目の多さに抗議の声を上げると、マサキは噴き出した。
 その声を聞いて、アマーリエはようやく我を取り戻して赤くなり、くつくつと肩を震わせているマサキを睨みつける。
 するとその様子を見守っていた他の三人のうち、女性がくすくすと柔らかい笑い声を立てた。
 アマーリエが目を向けると、彼女は片膝をつく。
「失礼いたしました。どうやらたいへんお元気になられた様子で、何よりでございます」
 その顔や姿に覚えはなかったけれど、声には聞き覚えがあった。どこで聞いただろうと考えて、微笑みを見た瞬間、思い出す。
「もしかして、護衛をしてくださった……」
 女性の笑みが深くなり、キヨツグが言った。
「彼女はユメ・イン。ユメ御前と呼ばれている。生まれながらの武士として名高い剣の名手だ」
「過分な評価をいただき、恐縮です」
 アマーリエは彼女の名も聞かなかったことを思い出し、頭を下げた。
「あのときはありがとうございました。名前を聞かず、失礼をしてしまってすみません」
「いいえ。わたくしの方こそ、至らぬ点が多々ございましたことを、心よりお詫び申し上げます。またご挨拶が遅れましたこと、申し訳ございません。このようにお元気なお姿を拝見できて嬉しゅうございまする」
 爽やかで気持ちのいい笑顔を浮かべて、ユメは喜んでくれた。
 続いて、キヨツグは男性の方に目配せした。
 その美貌の持ち主は、ここでは珍しい銀色の髪をしていた。だが表情がなく、目を伏せているためか、印象がはっきりしない。
「オウギ・タカサ。私の護衛官で側近だ。影として仕えている」
 ユメのことがあったからか、すぐに思い出した。彼はあのときに会った不思議な銀の瞳の持ち主だ。
 彼はアマーリエに向かって軽く頭を下げると、そのまま少し離れたところで控えるようにした。どうやらかなり無口らしい。そして不思議なことに、そうやって視界から外れるとそこにいるのを忘れてしまうくらい、存在感がなかった。不思議な人物だ。
 広い場所から馬の嘶きが聞こえて、アマーリエは顔を上げた。さきほどから気になっていたのだが、風の向きが変わると動物のにおいがこちらに漂ってくるのだ。よく見れば平屋造りの小屋があり、厩舎だろうと見当をつける。つまりここは馬場なのだ。
「今日から馬術と剣術の稽古を受けてもらう」
 この時間に呼ばれたのだからそうなのだろうと思っていたが、予想外が一つあった。
「馬術と、……剣術ですか?」
 馬術はいままでの経験のおかげでなんとなかなるかもしれないが、剣術は難しいのではないかと思う。武官たちのような身体能力はアマーリエに備わっていないからだ。
 キヨツグは頷き、立たせたユメと並んだマサキを示した。
「どちらもユメが指導する。ユメをお前付きの護衛官に任命するゆえ、外出の際は彼女を伴うように。マサキは王宮に滞在する間、稽古の補佐をしたいと名乗り出た。マサキもかなりの使い手だ」
 二人を見ると、どちらも笑う。アマーリエは不安でたまらない。
「不満そうなカオ」
「不満じゃなくて不安なのっ」
 どうしていちいちそんなことを言うのだ。そのやりとりにまたユメが笑い、キヨツグは。
「……」
 目が合うけれど、逸らされた。
「では真様の馬をお目にかけましょう」
 少しショックだったが、目の前に連れてこられたものを見て吹っ飛んだ。
 それは純白のたてがみが美しい、真珠色の毛並みの馬だった。つやつやと輝く毛並みは本当に真珠粉をまぶしたようでもある。何より美しいのはその青い目だった。絵の具のような青、空よりも深い色、宝石よりも強い輝きを秘めた、まっすぐな瞳をしていた。
 こんなに綺麗な()は見たことがない。
「触っても、大丈夫ですか?」
「はい」
 手を伸ばす。
 大きくて、人間などあっという間に踏み潰されてしまいそうだけれど、そんな暴力の気配は微塵もなく、澄んだ目でアマーリエを見極めようとしていた。
 美しい身体と知性を備えたもの。草原の生き物はこんなに美しいものなのか。
(あなたは綺麗ね。すごく綺麗。……羨ましいな)
 そのとき馬が鼻面を寄せたかと思うと、頭を下げ、アマーリエの手に顔を擦り付けるような仕草をした。驚きはしたものの、望まれているのがわかって、温かく美しい生き物を何度も撫でさすった。
「……ありがとう、いい子ね」
 気が付くと、後ろから伸びた手が同じようにその馬を撫でていた。
「……草原の馬は人の心を読むという。何を思った?」
 リリス族だからだろう、キヨツグは慣れた様子で馬に触れている。馬の方もアマーリエに対するよりは親しげで心を許しているようだ。
 アマーリエはしばらく黙って「何も」と答えた。彼もそれ以上聞かなかった。
「仲良くなれそうで何よりでございます。名は落花。真様の馬でございます」
「私の? ……世話できるかな……」
 大笑いの声が響く。マサキだった。
「世話って、イヌネコじゃねえんだぜ! ちゃんと厩番がいるって」
 自分のものになると聞いて、餌をやり、散歩に連れて行き、トイレの世話をして、玩具で遊ぶ、というようなことを思い描いていたことに気付かされ、言葉が詰まった。
「役目の者がおりますが、真様が手伝いたいと申されるのなら、その者たちも歓迎するでしょう」
 ユメにそう言い添えられて赤面する。高貴な人は馬の世話はしないのだ、ということを急いで知識に書き記す。
 だがそこでキヨツグが言葉を挟んだ。
「責任を持つのは良いことだ。世話をしようという心がけがあるなら、落花と上手くやれるだろう。時間が空いたときには、世話をするなり、彼女に顔を見せてやるなりするといい」
 落花は軽く頷くように頭を動かした。
 かと思うと足元の草を食べ始める。マイペースな性格が垣間見えて、アマーリエは笑った。可愛い子だなと思った。
「馬を操る術は、リリスにいる限りは必ず必要になる。よく励め」
「はい!」
 やってみたいという意欲が溢れる返答を返すと、キヨツグは眼差しを和らげて、満足そうにしていた。
「ユメ、マサキ。後は頼む」
「承知いたしました」
「了解しました、天様」
 頷いたキヨツグはオウギを伴い、背を向けた。声をかけたいと思ったけれど何を言えばいいのかわからなかったので、アマーリエはただ見送るしかできなかった。
(また話す機会はあるだろうか……)
 少しだけ距離が近付いたように感じて、そんな風に思っていた。
 彼が見えなくなるまで頭を下げていたユメは、やがて立ち上がりアマーリエに向き直る。にこりと爽やかに微笑んでいた。
「新しい生活はいかがですか? 道行きでは大変な思いをされたので、落ち着くまで時間がかかるだろうと気になっていたのです」
「あ……すみません、もう大丈夫です。皆さん優しくしてくださって、少しずつ慣れてきました。あの、今日からよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
 横で見ていたマサキがひらひらと手を振った。
「まあ、テキトーにやろうぜ、テキトーに」
 アマーリエはむっと眉を寄せる。
「私は真剣にやるんです! マサキみたいに暇じゃないんだから」
「あ、ひでえ、傷ついた」
 そう言いながらも彼はけらけらと笑って、まったく気にした様子はない。
「では午後から練習を始めましょう」というユメの言葉で、アマーリエたちは解散となった。部屋までの戻り道、マサキは自分がどんな仕事をしているのか教えてくれたが、アマーリエはわざと素っ気ない返事を返し、彼が拗ねたところ笑ってやった。

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