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 何が起こっているのかよくわからなかった。突然この人が現れたかと思ったら、とりとめのない話をすることになっていて、けれど返答に困る話題を投げかけた自覚があった。申し訳ないと思うと同時に、迷惑そうな素振りを見せないこの人に年長者としての尊敬を覚えて、そして。
(……どうして、あんなことになったんだろう?)
 引き寄せられて、その大きな胸に隠されるようになっていた。
 彼の手は触れているだけでまったく力が込められておらず、簡単に振りほどくことも、ここから逃げ出すこともできる。
 けれど不思議と、ここにいたいと思えてしまうのだった。
 誰からも隠れて美しい夕空を見ながら、どうして自分は一人なんだろうと泣きそうになっていたことをこの人は知らないはずだった。寂しいと思ったことは説明したけれど、それは共有する相手がいないことを指したつもりだ。
 だってアマーリエは一人だ。ここでは唯一のヒト族として暮らしているのだから、その孤独を感じて当然なのだ。それに耐えるのが義務であり責任で、どう和らげていくかが課題だった。
 そう思えば確かに、この人が側にいてくれることはアマーリエの孤独を和らげてくれていた。けれどどうしてか思ってもみなかった事態で、頭が混乱した。
 その後もアマーリエを混乱と羞恥に叩き落とすやりとりが続いて、極め付けは抱き上げられて連れて行かれたことだった。日が暮れて足元が見辛くなったせいでアマーリエが転んだのが悪いのだが、彼は片手に洋燈を持ったまま、軽々とアマーリエを、いわゆるお姫様抱っこにして、建物まで連れて行ってしまった。
 いままで会話も接触も皆無と言ってよかったのに、怒涛のように押し寄せたそれらは、翌日になってもアマーリエを赤面させ、悶えさせていた。
(笑ってほしいって……わ、笑ってほしいって……!)
 けれどそう言った本人こそ表情がほとんど表に出ないのだ。その台詞を言ったときもまるで裁判の判決を下すかのような、どこまでも静かな調子だったので、なんとも思っていないことは明白なのに恥ずかしくてたまらない。彼はただ自分を怖がるなということをアマーリエに言いたかっただけだ。
(そんなにいつも強張った顔をしてる……?)
 しているのだろう。自分の言動が彼に責任を感じさせたのだと思い知らずにはいられなかった。
「……アイは……」
「はい」
 他の女官たちと手分けしながら着装を進めるアイは、ようやくアマーリエが絞り出した言葉に耳を傾けてくれる。
「泣かれるより、笑ってくれる方がいいと思うよね……」
「それはもう。気を許してくれるからこそ笑ってくださるのでしょう。泣くことも場合によっては心を預けてくださる表現かもしれませんが、泣かれるよりは笑っていただいた方が嬉しいですわね」
 にこりと笑顔を向けられ、アマーリエも気持ちが緩んだ。
「……うん、私もそう思う」
 そういう意味なのだろうか。気を許してほしい、だから笑ってほしいと。
 アマーリエは心の中で首を振った。笑ってほしいと望まれたことは赤面するくらい恥ずかしくて、少し嬉しかった。心が嬌声をあげるみたいに騒いだ。でも心を許して――その後は。
 揺れる簪の飾りがしゃらしゃら、何かを囁きかけるけれど、アマーリエはその声が聞き取れない。
 まだはっきりと目覚めていないのか、低血圧のためか頭が鈍く痛む。授業が始まる前にきちんと目を覚ましていなければ、授業の最中にあくびをするなんて失礼なことを仕出かしてしまいそうだった。
 せめて早めに部屋で待機していようとそこに向かったアマーリエは、入った瞬間、足を止め、次に慌てた。
 何故ならそこにはすで人がいて、アマーリエの気配を察知して深々と叩頭していたからだ。
「申し訳ありません。遅れました」
 座ると、見事な白髪をシンプルながらも美しい形に結い上げた老女は言った。
「お初にお目もじ仕ります。本日より真様のご指導を仰せつかりました、ミチカ・サコにございます」
「アマーリエ・エリカと申します。よろしくお願いいたします。どうぞ、お顔を上げてください」
 彼女の第一印象は、どこかのお屋敷でガーデニングを楽しんでいる上品な老婦人、というものだった。
 年齢を感じさせる皺があるものの、肌には艶と張りがあり、口紅は下品でないけれどよく似合っている。髪型は優雅、衣装の色合いは落ち着いているが若々しい印象を与えており、センスの良さを感じさせる。ヒト族の感覚では七十代女性の外見だが、実年齢がいくつなのか想像がつかなかった。
「遅刻は心配ございません。定刻より三十分早うございます。その時間の観念、たいへん結構に存じます」
 にっこりとサコは笑い、つられてアマーリエも微笑んだ。
 だが。
「しかしご挨拶に問題がございます。もう一度」
「……え。あっ、……はい」
 もう一度名乗り挨拶をすると「違います」の声が飛んだ。
「目下の者に対して深々と礼はせずともよろしゅうございます。軽く頷くか軽くついて目礼を。もう一度」
「指の先まで意識を向けてください。もう一度」
「その言い方は堅苦しすぎます。もう少し柔らかい言葉選びを。もう一度」
 挨拶一つと思ったが、甘かった。何度も指摘を受けて必死になって繰り返す。
 猫背を注意されると伸ばした背筋が痛み、肩に力が入りすぎて肩がだるくなる。口が疲れてきた頃にようやく「よろしゅうございます」と一言が聞けた。
 だがほっと安堵して脱力するのは更なる注意が飛ぶと、直感的にわかった。
 ゆっくりと呼吸を整えて、疲労を隠して微笑むと、サコは頷いた。
「礼儀作法について基本的なものを、これから一つずつ確かめてまいりましょう。歩き方の練習をご所望と伺っておりますので、本日はそこから初めてまいります」
「お願いいたします」
 軽く目礼。鋭く目を光らせたサコが、満足したように微笑む。
 リリスの上流階級の子女を数多く指導したというサコの授業は、鋭く厳しい指摘がまるで礫のようにひっきりなしに飛んでくるものだった。
「やや内股気味に。歩幅は小さく」
「俯かない! 首を伸ばして、お尻を窄めなさいませ」
「踵は上げず摺り足です。走るのはないのですよ。その格好で走るなどもってのほかでございますが」
 教室として選んだのは広間だったが、行っては帰るを繰り返しているとくるくる回っているように感じられる。けれど必死になるあまり何往復したのか数えることもできない。
「顔……背筋……内股、摺り足……お腹に力を入れて……」
 口の中で呟きながら歩く。
 疲れてきたのか、過去のことを思い出した。祖母に預けられていたときのことだ。
 祖母は幼いアマーリエに多数の習い事を課した。礼儀作法は祖母の躾だったが、ピアノ、ヴァイオリン、フルートや、茶道や生け花、ダンスと勉強は、専門の教師を呼んでいた。父の元で暮らすようになってからはほとんど脱落して、それなりに身についたのはピアノとヴァイオリンくらいだったけれど、茶道と生け花はリリスではかなり役に立っただろうに覚えていないことが悔やまれる。
「足!」
 はっとすれば裾が乱れている。
「後ほど着付けも指導させていただきます」
 ボトムスを着て大股でつかつか歩ける都市の衣装が少しだけ懐かしい。リリスの女性が一般的に身にまとうのは着物のような民族衣装だ。袴を着る男性の方が動きやすそうで羨ましい。
「胸を逸らしすぎです。背中に棒を入れているつもりで背筋を伸ばしてください」
 どういう風に歩いていただろう――あの人は。
 背筋を伸ばし歩みを進める。堂々と迷いなく。ここにいることは正しいのだと、自分にふさわしい場所はここなのだというような、存在を確かにする足取り。
 あの人の隣に並ぶようなことがあるなら、見劣りしたくない。
 歩くくらい、ひとりで。
 だが次の瞬間昨日のことが思い浮かび、摘んでいる裾を離して顔を覆いたくなってしまった。
「真様、何をお考えですか? 集中できぬようなら今日は終いにしましょう」
「すみません! 続けます!」
 しかしサコのおかげで吹っ飛んだ。
「申し訳ありません、でございましょう!」と叱責が飛び、アマーリエは何度か悲鳴や呻きを飲み込みながら、部屋の中をぐるぐると歩き回った。

 何百と往復した後、サコは叱るのと同じ調子で重々しく告げた。
「よろしゅうございます。休憩を入れましょう」
 途端にどっと倒れ込みそうになるがぐっと堪えて、きちんと裾を手に丁寧に腰を下ろす。お茶を飲んでいる間にもこちらの一挙一動を見逃すまいとサコが目を光らせていて、高価な磁器を扱う手はいつも以上に慎重になった。
「毎日稽古ができないのが残念でございます。一週間、午前から午後まで学ばれれば、今後作法で不自由することはないでしょうに」
「はい……」
 サコの指導は、月曜から日曜まで一限から五限の授業を受けて運動部系の部活をする、というくらい辛いと思う。心の中でげっそりしているとサコは苦笑した。
「覚えが早うございます、と申し上げているのですよ」
 アマーリエは目を瞬かせる。
「真様ほどのお年の方をお教えすることは滅多にございませんが、大抵の方は最初の三日ほど、意固地になって言うことを聞きません。初日でこれほど素直に指導を受けていただけるのなら、お教えする甲斐があるというもの」
 褒められているようだったけれど、うっかり口を挟むと言葉遣いを注意されそうで言葉が出ない。
「あの……、ありがとうございます」
「いいえ。さてせっかくでございますし、着付けをお教えした後は総仕上げの散策と参りましょう」
 なんだか一日が長いなと遠い目になってしまいそうなアマーリエだった。
 着付けの指導といっても本格的なものではなく、とりあえず女性の衣装の概略と、身につけるもの、その順序を教えてもらった。リリス族の民族衣装は地域や氏族によって多岐にわたっていて、着物以外にも袴や巻きスカートなどがある。
 教えられながら身につけたものを、女官たちが整えていく。これを次回から自分ですべてやるのだと思うと気が滅入った。覚えることのなんて多い。
 散策は、アマーリエの宮殿がある後宮から一周ということになった。
 先触れとして女官が行き、その後ろにアマーリエ、サコ、後ろにアイと数人の女官という構成だ。貴人の女性は必ずこうした付き添いを伴って出歩くという。
 内股で摺り足、と言い聞かせつつ、猫背になるのに気をつけ、顔を上げて胸を張り顎を引く。正しい姿勢になっているか不安だったが、サコの厳しい声を思い出すとその厳格さが姿勢を正してくれる気がして、少しだけ自信になった。
 昼近い王宮は、人の気配は少なくとも静かに動いているのが感じられた。冬の日は柔らかく、めずらしく暖かい日だ。それでも都市とは違って、吐く息はすぐに白くなって消える。
 先頭が止まった。
 どうしたのかと足を止めると視界が開け、サコとアイも同じように廊下の端に下がる。
 向こうから黒い集団がやってくる。
 列を率いているのはあの人だ。傍らにはマサキがいて、こちらに気付いて大きく目を開き、にまっと笑っていた。
 アマーリエが退いた方がいいのか迷う間に、距離を開けて彼らが立ち止まった。
「稽古か」
 昨日ぶりに会った彼はあっさりとした口調で尋ねた。
「は、はい」
「うっわ、重そうな服だなあ。なんか着られてる感あるけど大丈夫か?」
 するとマサキが口を挟み、むっとするやら赤くなるやらでアマーリエは外面を忘れた。
「こ、これでも頑張った方なんだから。最後には手伝ってもらったけど……」
「へえ、自分で着たんだ? そりゃ悪かった」
「真、マサキとずいぶん親しくなったようだな」
 静かな問いかけは、彼方に消え去りかけていた礼儀を思い出させた。
 はっとしたものの、昨日のことを思い出し、目の前に当事者がいることで赤面する。
(忘れる、いまは忘れる!)
 全力で心の中に封じる。
「ええと、あの、何日か前に。彼が私に声をかけてくれて、それで」
「見慣れない人がいるなと思ったら真様でした。話してみたら俺なんかにも気さくにしてくださる良い方で、嬉しくなってしまいました」
 満面ながら大人びた雰囲気を漂わせてにっこり笑うマサキだが、アマーリエは目を見開いたまま固まりかけていた。なんだいまのは。幻聴か。
「真様。先日はありがとうございました。また是非お話ししましょう」
 幻聴ではない、らしい。
 見事に被った胡散臭い大きな猫に思わず噴き出しそうになりながら、震える声で言った。
「こ、こちらこそ。ありがとうございました」
 そういうわけなのだとちらりと尋ねた彼を見ると、彼は「そうか」とだけ頷き、背後に控えるサコに目を向けた。
「サコ殿。真の様子はどうか」
「は。覚えが早うございます。良い生徒であらせられます」
「そうか」
 今度の頷きは微笑みと共にあった。
 温かい笑み。誰かのこと、つまりアマーリエのことを喜ぶ表情は、アマーリエの胸の奥をとんと叩いた。
「真、何か足りぬものはあるか」
 次は衝撃がきた。
 見つめられることでめまぐるしく思い出される、あのときの語らい。不思議な伝承、風を遮る温もりと、声。生き物が抱えるという心臓の音。安心感。
 心臓が騒がしい。聞こえない、見えないような大きな音を全身に響かせているそれに、黙ってほしいと願う。
「…………」
 声が出なくて首を振った。足りないものはないとそれで答える。
 彼は、頷いた。わかっている、と一つだけ。
 そうして道を空けたアマーリエをすれ違い、マサキや付き添いや、役人たちを連れて歩き去った。
「真サマ、また遊びに行くからなー!」
 最後にマサキがそう言って大きく手を振ったけれど、彼の付き添いと思しき人にものすごい顔をされていた。行儀が悪い、礼儀がなっていないと、後できっと叱られるのだろう。同じようにサコに注意されるであろう自分を照らして、アマーリエは笑ってしまった。
 そのおかげで、少しだけ心臓の音が小さくなる。
 予定通り散策を終え、部屋に戻ると。用意された椅子に腰掛けたところでくつろぐ間もなく叱責を受けた。
「高貴な方のくつろぎ方というものがございます。だらしなく見えないようご注意ください。それから」
 サコは一度息を吐いてから、かっと目を見開いた。
「なんですか、あの天様、マサキ様に対する態度は!」
 びりびりと建物が震えるような迫力に、アマーリエは身を引きかけたが、椅子の上なので逃げ場がない。怒鳴りつけているわけではないのに心臓が縮み上がる凄まじい怒りに、女官たちも青ざめている。
「族長の妻とはいえ、最低限の礼儀がございます! それを覚えていただくまでお暇いたしません」
 お覚悟を、と告げるサコの目ははいと言う以外の返答を拒んでいた。


       *


 夕刻に滑り込んできたいくつかの仕事が終わらず、執務室で夕食を摂り、深夜を過ぎてようやく一息つくことができた。書類の戻りを待つ間、アマーリエの様子を見に行こうと席を立つ。
 用があったので、本来なら夕食後か就寝前に訪ねるつもりだったのだが、こんな時間になってしまった。もう寝ているだろうが、書き置きをしておけば問題あるまい。
 寝室に入るが、寝台の上に彼女の姿はなかった。
 視線を巡らせばアマーリエは椅子に座って船を漕いでいる。
 罪悪感と同時に疑問を抱く。最近はきちんと寝台に入って先に眠っていたというのに、今日はまたなにゆえ、また振り出しに戻ったようにこんなところで眠っているのだろう。
 抱き上げて寝台に運ぶべきかと思うものの、不用意に触れるのは得策ではないと考える。気配で目が覚めないものかと覗き込むが、その目は閉じられたままだ。
 芯の強さを感じさせる目はいまは閉じられ、寝顔はあどけなく、繊細で透き通った少女の気配がにじみ出ている。
(……いつまでも見ていてしまいそうだ)
 さすがにそれは礼儀を欠いているだろうと、呼びかけた。
「真」
 だが起きない。
 今度は少し強めに、名を呼ぶ。
「真。……エリカ」
 名前を呼んだ途端、魔法のように瞼が開かれた。
 夢の名残を見る瞳は水晶のようだった。彼女は跪いているキヨツグを見て、大きく目を見張ると、さっと椅子から降りて深々と叩頭した。
「お務めご苦労様でございます、天様」
 突然の出来事にキヨツグは、ゆっくりと目を瞬かせた。
「……………………うむ」
「本日の御政務は滞りなく進まれたでしょうか?」
「…………うむ、まあ」
「それはよろしゅうございました。わたくしめも嬉しゅう存じます」
 その間にもアマーリエは手をついて顔を上げない。
 この態度の原因にすぐに思い当たって、キヨツグは瞑目した。
 今日はミチカ・サコが教師となって礼儀作法を教えることになっていたはずだ。確かに彼女は厳しい人で、どんなお転婆も淑女に変身させることのできる達人だった。キヨツグもその薫陶を受けたので厳しさは知っている。彼女も初日にしてこの立ち居振る舞いならば、仕事に同伴させても問題なかろう。
 問題はないが、この言いようのない感情はなんだ。
「……顔を上げろ」
 頭は起きるが目は伏せられたままだ。それまでは確かに、目を上げられない、緊張する、怖い、という必死さで目を逸らしがちだったが、この態度は意図的でひどく不満を覚える。
「……サコ殿はそんなに厳しいか」
「はい。いえ、とてもよく教えてくださっています」
 サコは厳しいが強制するような人物ではないはずだった。恐らくサコの指導を受けた彼女が、キヨツグに対してどのように振る舞うべきかを考えて、この言動なのだろう。
(……役目と思って、か)
 真夫人の役目を果たすにふさわしくはあったが、いまはそれを求めていない。
「……真、これを」
 懐に収めていた箱を手渡す。布張りで手のひらに収まる大きさのものだ。
「……なんでございましょう?」
「……祝いだ、誕生日の」
「えっ!?」
 弾かれたように顔が上がり、目が合った。
 浮かせた手は行き場をなくし、目があちこちをさまよって、礼儀も何もなく『動揺』を露わにしている。そのうち目を回して倒れそうな子兎のようだ。
「……ふ」
 思わず声を殺して笑うと、彼女はみるみる真っ赤になった。
 どれだけ厳しく仕込まれようと、一日で根本を変えることはできないことを、自身でも実感したようだった。
「か、からかったんですか……」
「……いや。誕生日の祝いなのは本当だ」
 箱を押しやる。開けていいかと尋ねられ、頷いた。
 布張りの箱を開くと、鎖の鳴る音がする。アマーリエは目を見開き、その贈り物を小さな手のひらに載せる。
「……何を贈ろうか迷ったが、役立ちそうなものにしておいた」
 懐中時計だった。重くなく、利便性があり、女性が装飾品として携帯できるものを、という内容で馴染みの職人に注文したものだった。金の細工で、蓋には大輪の花と無数の小花が装飾されている。宝石を使わない簡素なものだが、彫金の繊細さがきっと似合うだろうと思ったのだ。
「……きれい……」
 花のような唇から小さな呟きを落として、アマーリエは優しく時計を撫でている。そして、何か大切なものを見つけたかのような微笑みをキヨツグに向ける。
「ありがとうございます。……嬉しいです、大切にします」
「……言葉遣いも、私に対する態度も、お前の思う通りにすれば良い。体裁を保たねばならぬ時機は、お前なら見極められよう。無理をする必要はない」
 公務に出しても支障あるまいと言った口が、そんなことを言った。
 すると、喜びが射していた瞳が陰る。
「……すみません……私、何の役目も果たせていなくて……」
 違う、という言葉が出そうになるが、飲み込む。
 悲しませたいわけではない。自由であってほしいだけなのだ。悲しまず、苦しまず、心乱さずにいてほしい。
 そう願うのは――。
「……お前はお前の好きなようにすればいい。必要なときは追って指示する。いまはとにかく、私を待たずに眠るようにしなさい」
 ――そばに。
 思い浮かんだものを飲み下して、毛布を広げてやる。横たわったアマーリエは指先でまだ時計を撫でている。
 その柔らかな手つきに、胸が騒ぎそうになった。
「……時計と添い寝するつもりか?」
 アマーリエは首を振り、箱の中に時計を収めると、上目遣いにキヨツグに問うた。
「まだ、おやすみにならないんですか?」
「……仕事が残っている」
 もう眠っているだろうと思って様子を見に来たつもりが、思いがけず会話する機会を得たのは僥倖だった。
 眠っている間に顔を見るのではなく、今日のように短くとも、話がしたかった。
 だがそれを彼女が望むかどうかは別の問題だ。
「……お先に、休みます。おやすみなさい」
「……おやすみ」
 毛布に包んでやっていると目が合った。今度はしっかりと、互いに、平穏な気持ちを交わし合ったように思えた。

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