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 果たして、空に近い物見台の上に、ヒト族の娘、都市の花嫁の姿があった。
 門の内側に備え付けられた小さな塔は、階段を上っていくと屋根のついた小さな見晴らし台となっている。花嫁はそこの欄干に手をかけて、遥か西の方角を見つめていた。落日を見つめる輪郭を、淡く金色に輝かせて。
「……」
 名を呼ぼうとした瞬間、彼女が振り向く。
 瞳は怯えも喜びもない静かな光を宿し、空の色を落とし込んだような色に輝いていた。天空と同じ色を身にまとう姿は、天界に属する者かのように犯しがたい雰囲気をまとっている。
 それは一瞬のことだった。だがその一瞬は、ひどくキヨツグの胸を打った。
 刹那の後、彼女の目に驚きが走る。慌てたように後退り。
「ぅ、わっ!?」
 ふわり。肩にまとっていた布が、地に落ちていく。
 咄嗟に走り寄り、欄干を乗り越えかけた身体に手を回して落下を食い止めたキヨツグは、彼女を抱いたまま深いため息をついた。
 とてつもない力で心臓が縮んだのを感じた。リリスでも怪我をしないわけではない高さから、この娘が落ちたらと思うとぞっとした。
 すると彼女もまた、息を吐いた。
「あ……ありがとうございます……ああ、落ちるかと思った……」
 だが急に声を詰まらせて腕の中で固くなる。
「ああああの……! はは、離してくださいませんか……!?」
「……ここで距離をとると、どちらかが落ちねばならぬ」
「え、あ……? そ、そう、ですか……?」
 ならどちらかが降りればいいのだが、彼女は気付きもしないようだったので、どれほど混乱しているか手に取るようにわかった。落ち着くのを見計らって腕を解くが、視線が落ち着かないので、目眩を起こして倒れる前に背中に腕を回しておく。
「……何をしていた?」
 緊張すると、耳に入った言葉を理解するのが遅れるものだ。
 彼女は一瞬何を言われたかわからない顔をしたが、はっとしたように言葉をもつれさせて答えた。
「え、えと……明日礼儀作法の先生がいらっしゃるので、ちゃんとした格好をしようということになって……服を合わせて、この格好が一番似合うという話になって、今日は、これで、って……」
 その……、と語尾が消えた。
 しばらく待ったが続きがない。夕日の色ではない赤に染まっている顔を見て、理解する。女官たちが「今日はこれで閨にはべれ」と焚きつけたのだ。
 実際、伏せた目元は艶めかしく彩られ、唇も彼女自身の色を損なわぬよう、つつましくも透明感のある印象で粧っているようだった。
 夫婦のやりとりがないことを、真っ先に女官たちには周知されるだろうとはわかっていたが、ため息を禁じ得なかった。周囲が案じても仕方がないことをしていながらも、無理強いはしないという宣言を撤回するつもりはない。破るつもりはない、自分からは。
 しばしの沈黙の後、彼女はゆっくりと続きを口にした。
「……それで、あの……一人になりたいと思って、見つからないところはどこだろうと探して、ここを見つけて……上って、夕日を見ていました」
 顔を向けた先には沈みゆく陽がある。
 すでに空には銀星が散り、あるべくしてある夜の顔を見せ始めている。風が出始め、雲に流れが生まれたのを目にすることができた。
「ここは、とても、静かですね」
「……そうか?」
 何を持って静かと言うのか、疑問を口にすると、頷きが返る。
「はい。とても静かで、大きくて、とても綺麗です。空も、景色も、何もかもが。でもそれを一人で見ているのは……」
 怯えていた娘はこちらを見つめて、かすかに微笑んだ。
「ひとりで綺麗なものを見るのは、少し寂しい、から」
 わずかに強張り、寂寥をにじませつつも、微笑むその頬に、キヨツグは手を伸ばした。
「……いまは、ひとりではなかろう」
 安心、と彼女は言った。キヨツグが姿を見せたことで、ここに一人立ったときの彼女の不安や物悲しさが和らぐのだとしたら、その言葉を反芻すればキヨツグの胸が温まるのと同じように、共にいる意味は大いにある。
 指先は触れるか触れないかの距離で彼女の頬を掠めた。俯かれてしまったから、そしてキヨツグがそれを察知して手を引いたからだ。
 淡く光る髪や輪郭を見ていて、ふと思い出したものがある。
「……落日と天明の瞬間は、神の国に繋がっているという」
 指を、西に向ける。それに導かれて彼女の視線が動く。
「……その国は、花が開く永遠の刹那と、なにものにも侵されることのない静寂に満ちている。それを統べる者はそれらすべてを司るというが、この世の誰もそれになることはできぬ。生き物は皆、想いと心臓を抱えているがゆえに」
 永遠と刹那と静寂に立てる者は、生者以外のものに他ならない。そこにあるのは世界と時だけだ。生きている者は誰もその国に入ることも、手に入れることもできはしない。
 そして生者が手に入れることができるのは人生においてひとつきりであるという。多くを望めばそれに応じた対価を支払わねばならず、それでもなお多くの望みのために犠牲を支払うか、ひとつを選びそれを守り抜くかで、英雄と愚者の区別がなされる。
 自分でも何を思ったか、そんな話をつらつらと語っていた。
「……どっちだと思いますか」
 不意に彼女が瞳に強い光を宿した。
「……何がだ」
「多数の望みのためにどんな対価でも支払うことができる人。ひとつしか選ぶことができずそれに見合う対価をかろうじて支払う人。どちらが英雄で、どちらが愚者ですか」
 突如雄弁となった彼女に小さな驚きを覚えたが、問いかけに逼迫したものを感じて、しばし沈黙した後に、答える。
「……どちらも」
 納得できないという表情を浮かべる彼女に、告げる。
「……英雄と愚者は表裏だからだ。状況と立場、自認によっても評価は変化する。ただ基準を設けるのだとすれば、それを支払うに際してどれだけの思いと覚悟を持つか、だと思う」
 彼女は一瞬言葉を飲んだ。
「覚悟……」
 痛みのような呟きを聞いて、得心がいった。
 彼女にとって『ひとつ』とされるものは結婚であり、『多数の望み』とは彼女の夢や変わらぬ生活や自由といった安寧の未来のことだ。
 彼女は選ぶ必要があり、対価を支払う義務があった。彼女自身が望まない形でそれは実行されたが、彼女は選ばされ選んだ結婚と、選ばなかった未来を天秤にかけ、どちらが正しかったのかを見極めきれずにいるのだ。
 だから口にした。それは掛け値なしの本心だった。
「……私はお前を勇敢だと思う」
 はっと顔を上げたアマーリエの瞳が濡れていたように思えたのは、気のせいではあるまい。
 日が沈む。光が途切れ、辺りは一瞬深い闇の帳が落ちたようになる。瞼を閉じるのに似た残照が消えていけば、世界は夜に包まれる。
 焦げるように感じていたものが、いつの間にか溶けていることに気付く。
 身ひとつでこの国にやってきた娘を勇敢と言わず何と呼ぼう。当たり前のように迷い、戸惑い、不安で揺れる極めて平凡な少女に、自分が課したものは重い。
 だが願わくは、それを全うしてほしいと思ってしまうのだ。
「…………、っ!?」
 アマーリエが悲鳴を上げかけたのも無理はない。
 キヨツグが腕を伸ばし、その小さな身体を引き寄せたからだ。
(……気付かれてはならない)
 この望みを。感情を。何を考えて、何を思うか。
 そう己を縛めるのに、抱えた秘密の檻から、湧き上がるものがある。
 抱くというほどではない。寄り添わせるように、支えとなるように。これは触れ合いではないと示すために、その悲しみを隠すためのものになる。
 やがて来る、夜という寂しさに。
 この胸の中に彼女という温もりがあることは、何よりも幸福に思えた。


 夜風が出てきたのを見計らって、声をかけた。
「……降りるか」
「……はい」
 ぎくしゃくとした動きながらも彼女はキヨツグから離れ、後に続いて階段を降りてきた。案外運動神経はいいのか、慣れぬであろう長い裾をさばきつつも足取りはしっかりしている。
 足を見せることについては注意を促すべきだろうが、その役目は自分のものではないと、細い足首からは目を逸らしておく。
 振り返って顔を見ると、はにかんだ微笑が返ってきた。
 それがキヨツグの胸にどんという衝撃を与える。
 そこにいるのは沈みゆく陽に照らされたあの娘ではなく、現実にそこにいて手を伸ばせば触れられる、何の変哲もない少女だったが、こうして目が合えば自然に微笑む姿に、どこか奇跡じみたものを感じてしまったのだ。
「…………、あの……」
 困ったような声に思索から抜け出す。
 いつまでも顔を見られていれば困惑するのは当たり前だ。疑問符を飛び交わせていた彼女は段々と頬を染めて俯いていく。
「……エリカ」
「はいっ?」
 緊張気味に返答があり、わずかに眉をひそめていた。
 めずらしく動いた表情で、告げていた。
「……私の前で、笑ってほしい」
 あの胸に響いた衝撃が忘れられない。もう一度それを感じたいという思いだった。
「……お前は私に対して緊張しているように思える。……私が怖いか?」
 かーっとアマーリエの顔が朱に染まる。頭が横に振られると、それに合わせて簪の玉の連なりが笑うように音を立てた。
 キヨツグはじっと彼女を観察した。頬は紅潮しているが怯えが理由ではないように思える。返事を待っていると、慌てたような震え声が言った。
「ど、どどど努力、し、ます……!」
「……そうか」
 安堵したとき、兵士たちが洋燈を手にやってきた。ずっとこちらの様子を伺っていた彼らは、キヨツグたちに明るい笑顔を向けてくる。
 女官長であるアイ、そして護衛官であるユメも離れたところで微笑を湛えているようだった。
 キヨツグは手を差し出した。
「……?」
「……もう暗い。お前の目では足元が見えぬだろう」
「あ……ああ、そ、そうですね……」
 再び頬を赤く染めた彼女はそろそろと差し出した手を、キヨツグに預けた。
 その手は熱を持っていた。キヨツグの冷たい手に、それはじわりという感覚で心地よく染みていく。
 わずかに力を込めて手を握り、歩き出したものの、手の冷たさに驚いていないか心配になった。
 振り向いた瞬間、歩き出して数歩行ったところで彼女は足をもつれさせた。
「っ!」
 声なき悲鳴をあげて倒れそうになる彼女を抱きとめ、そのまま持ち上げた。周囲で見ていた者たちはほっとした様子で、キヨツグが建物まで彼女を運ぶのを見届ける。
「……周囲が度を越すようなことがあれば、言いなさい」
 逃げる前に、と人形のように固まるアマーリエの耳に囁いて、キヨツグは彼女を下ろしてアイたちに託すと、ユメを連れて執務室へと戻ることにした。

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