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 澄んで見えた水は、沈んでみると底なしに暗かった。ぐるぐる回る視界の中、ちらちらと見える光を目指そうとするも、この衣装では無理があった。川風に寒さを覚えないよう着込んだ衣装では、たとえ水泳ができても、枷のようになってアマーリエを深いところへ引きずり込もうとする。
 沈んでいく。消えていく。
 もし最後の瞬間だと思ったとき、思い浮かぶものがあるなら。
 誰かが言った。――あの人に言いたいのと。
 何故私だったの。どうして優しくしてくれるの。突然突き放したのは何故。どうしてそんなに悲しい顔をして悲痛な声をあげたの。
 わかってる。
 全部わかってる。それが避けられないものだったこと。自分自身が招いたことだったこと。
 あの人が、真実思ってくれていること。
 息が保たず一気に吐き出してしまう。苦しくてもがいた。光が見えなくなっていく。心の苦しみに似ている。
 最後に言うとするならば。
 ありがとう。嬉しかった。楽しかった。もっと一緒にいたかった――できれば、ずっと。
 心の声にはっと目を見開く。目の前に見える光が心に射した。ずっと彼方の都市を思ってきたアマーリエの足元に咲く、花の数々を照らし出す。
 それは金の時計の形となって浮かんでいた。
(ああ……そうか……)
 恋をしたんだ。最初の恋を。
 辛そうな顔を見れば悲しくて、大切にされると嬉しかった。寂しいと感じたのは、最初からあの人の心を手に入れられるはずがないと思い込んでいたからだ。誰かが自分のものになるなんて想像できなかったのだ。
 けれど、沈むはずの時計はアマーリエが伸ばした手のひらに収まった。
(会いたい、な……)
 ほらやっぱり、最後のときじゃないと気が付かなかった。やっと手に入れたのに、誰にも見られないなんて、恋心が哀れだった。
 水の冷たさはもう感じなかった。胸の中の暖かさを抱いて、意識を手放す。
 ――……!
 呼び声が聞こえた気がして目を開けた先に、彼がいるのは、誰かが願いを叶えてくれたのかなと思った。


 キヨツグがようやく川岸にたどり着くと、鬱蒼とした森の中だった。リリスに点在する森林の一つだと見当をつけ、かなり流されたことを知った。不安がよぎる。万が一モルグ族の移動隊が潜伏していたら、見つかったらただでは済まないだろう。
 腕の中で彼女はぐったりと目を閉じていたが、げほっと水を吐き出して呼吸を始めた。すぐに意識を失って水を飲まなかったらしい。引きずり上げて横にさせると規則正しく胸が上下しているのがわかり、どっと、全身から力が抜けた。
 木陰に冷え切った空気はずぶ濡れの身体によくない。上着を捨てて身軽になっていたが、さらに何枚か脱いで水を絞った。陰干しだとしても乾かさぬよりましだ。
 そうして、彼女がずっと両手で何かを握りしめているのに気付いた。
 不思議に思って手を解いてみる。まるで触れられるのを待っていたかのように力を失ったそこから、ことりと彼女の胸に落ちたのは、キヨツグが贈った懐中時計だった。
「エリカ」
 驚きが声になる。身につけているものはほとんど流されているが、彼女はこれだけは手放すまいとしていたのだ。あの小さな機械ではなく、この時計を。
「……エリカ」
 ずっとその名を呼びたかった。どれほど傷付き、怒り、絶望しても。これほどまでに愛おしい名前を他には知らない。
 意識を失った彼女にそっと顔を寄せる。息が、濡れた肌に触れる、そのまま口づけられる距離だ。キヨツグはそうして額と額を合わせ、きつく目を閉じて抱きしめる代わりにした。

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