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ぱちん、と火が弾ける音がした。
周囲の仄暗さに、また深夜に目が覚めたのだろうかとぼんやり思う。だが足先が冷たくて上半身が暖かいという奇妙な感覚があって、態勢もどうやら座っている状態のようだ。椅子に座ったままうっかりうたた寝をしてしまったのだろうか。
視線の先で大きく揺れる炎の、色や光や匂いは、自分が生きていることを知らせてくれる。けれど、ここはどこなのだろう。
首筋に息がかかったのはそのときだった。
「……目が覚めたか」
「っ!?」
驚いて飛び上がる、が、動けなかった。
キヨツグに後ろ抱きにされて、膝の間に抱えられるようにして座っていた。暴れる心臓のせいで息が止まりそうになったのを気付いてか、彼は腕を緩めて、アマーリエが振り向きやすいように解放する。
「……濡れた衣を脱げ。このままでは風邪を引く」
アマーリエはようやく何が起こったのか理解した。
「私……川に落ちて……」
肌に張り付く服は、彼の体温を含んで少し暖かい。あの態勢はどうやらアマーリエが冷え切らないようにするためのものだったようだ。
周りを見ると、火の光が大地に突き刺さるような巨岩の腹を照らしている。周囲は大きめの石が転がる場所で、かすかに水の音がしたからきっと川の側なのだろう。空は真っ暗で自分がどこにいるかもわからない闇の中だったけれど、風が通ると梢が揺れるざわめきが聞こえてきた。目が慣れてくると、立ち並ぶ木々の形がうっすらわかるようになってきた。
自分を見下ろすと、簪も首飾りも腕輪も見当たらない。身につけていたものはほとんど失くしてしまったようだった。本当なら命すら落としても仕方がない状況だったのだと思うと、ぶわりと涙が溢れ出した。
濡れた頬に新しく流れる雫に、キヨツグが触れた。
アマーリエは息を飲み、じわりと広がった衝動のまま、彼にしがみついた。
「……エリカ」
どこか狼狽えたような声が触れ合うところから伝わる。
キヨツグは慰めるように腕を回し、アマーリエを抱いてくれた。こちらを気遣ってくれる優しさに温かみを覚え、ますます涙が込み上げる。
好きだ。この人が、好きだ。
涙の一粒一粒が尽きることなく流れて、そう叫んでいた。
周囲に溢れていた恋愛は、ドラマや小説や漫画の出来事のようで、自分には遠いものだと思っていた。きっと素敵なんだろうと思いはするけれど、どこか冷めた気持ちで、自分がそれを覚えることはないのだろうとも考えた。
でもいまは違う。苦しいくらいに胸を満たしているその思いを、告げたくなる。伝えたいと思う。どうしたら伝わるだろう。
そう考えるすべてが、愛おしい。
みっともなくしがみついて泣いた、その感情の高ぶりが落ち着くと少しずつ冷静になってきた。
関係性が微妙になっているところに、恐怖に耐えられなくなった衝動のせいとはいえ、大胆なことをしてしまった。しかしキヨツグが助けに来てくれたということに、じわじわと喜びが広がってくる。
鼻をすすりながらそっと腕を解く。お互いに顔が見られる距離になってから、アマーリエはそっと目を上げ、黒い瞳を見た瞬間、赤面しつつも照れ笑いで誤魔化した。
「あの……すみません、でした。助けてくださってありがとうございます」
するとキヨツグが手を振り遮った。
「……話は後だ。身体が冷える」
重ね着していた外側はすでに脱がされていたが、薄物の何枚かは着たままになっている。彼の言う通り、早く脱がねば体温を奪ってしまうだろう。
キヨツグが後ろを向いたので、アマーリエはそちらに背を向けて手早く帯を解く。滑るようにして現れた懐中時計と携帯端末を近くに置くと、一枚だけを残して他はすべて脱ぎ捨てた。今日くらい着付けを習っていてよかったと思ったことはないと、しっかり襟元を調えて帯を締める。
そうして膝を置き、まずは時計を確認する。
最後に手の中に持っていたはずが、いつの間にか身につけていたのは不思議だった。あれは夢だったのだろうかと首を傾げる。蓋を開いてみると、水に浸かったというのに規則正しい音を響かせて針が動いていた。
(帰ったら、きちんと点検に出してもらおう)
自分が帰ること、その場所がリリスだと当然のように思っていることに、はっと驚き、微笑みながらそっと目を閉じる。
そうして気持ちを切り替えて、携帯端末を手に取った。
携帯端末の方は電源を切ったときのまま、画面には何も表示されていないが、少し考えて、裏蓋を外してバッテリーを取り出し、本体と一緒に火の近くに置いた。不用意に電源を入れるよりかは乾かした方が復活する可能性が高いと思ったからだった。
「終わりました」
キヨツグが注意深く振り返った。炎越しに目が合い、気恥ずかしくなったアマーリエは目を伏せて、自分を抱えるようにしてその場に座り込んだ。
だめだ。これでは振り出しに戻っている。
でも重ねた視線から全部伝わってしまいそうで怖かった。
そのまま無言の時間が続いたが、キヨツグが暗くなった空を振り仰いで口を開いた。
「……そろそろ日が落ちる。捜索隊と合流するのは明日になるだろう。今夜はここで夜を明かす」
アマーリエは頷いて、言った。
「ここは、どこなんでしょうか」
「……コウリュウの下流域、恐らくリリス中央部から南部にかけて存在するいずれかの森林だろう。モルグ族が潜伏しておらねばよいが」
「モルグ族……」
北部地域に住むというモルグ族だが、リリスの土地でも見かけることがある、とはぼんやり聞いた覚えがあった。キヨツグは頷き、炎に向かって新しい枯れ枝を差し入れる。
「……モルグ族にも派閥がある。好戦的な一派は境界地域で戦をし、保守派はその群れを離れて北の山岳地帯や森林などで密かに暮らしている。共通しているのはどちらも縄張り意識が強いということだ」
ということは、ここにモルグ族が集まっているのだとしたら、自分たちは侵入者として危険な目に遭う可能性があるのだった。
(でもきっと大丈夫だ。この人がいてくれる。剣術の指導を受けている私も、少しなら動けるはず)
「……ここでは常のように眠れぬだろうが、少し横になっていろ。夜が明けたら川上に向かって歩き、森を抜ける」
「はい」
言われるまま平たい岩の上に横になる。ごつごつした感触はとても寝台と同じものとは言えなかったが、脱いで絞った衣を下に敷けば少しはましになった。
キヨツグはそのままそこに座ってこちらを見ている。
「火の番とか、何かあったら遠慮なく起こしてください」
彼の漆黒の瞳に光が差し、花、と言った。
「え?」
「……あの花が何か、知っていたのか?」
戸惑いが瞬きになった。
なんの話だろう。花と言われても、いつの何の、どの花なのか。
「すみません、ちょっとわからないんですが……」
キヨツグは首を振った。
「……すまぬ。さして問う必要のないものだった」
身を起こしかけていたアマーリエは、再び横になりながら、微笑んだ。
「気にしないでください。もし気がかりがあるなら、いつでも聞いてください。おやすみなさい」
一瞬驚いたような間があって、深い頷きとともに答えが返る。
「……おやすみ」
アマーリエがそれでも目を閉じずにゆっくりと瞬きをしていると、キヨツグが近付いてきて自分の、ようやく少しずつ乾きつつある衣をかけてくれる。そうしてようやく、アマーリエは眠るために目を閉じた。
漆黒に塗りつぶされた夜の森の中で、キヨツグは自身の感覚を研ぎ澄ましていた。川水の流れる音、極めて大きくなってきた風の音に、揺らめく炎の音。虫たちの声、鳥の羽ばたきに夜行性の生き物が行き来する物音。
その中にある、優しく柔らかい寝息が何よりも響いて、大きく息を吐いた。
目を開け、そこに眠る少女を見る。
溺れそうになってから数時間と経っていないゆえ、眠っていても表情は疲れ切ってどこかやつれて見えた。それよりも前から、食事が進んでいないと報告が上がっていたのでその影響もあるのだろう。追い詰めたのは自分だと知りながら、悲壮な顔や恐怖を見せることなく、逃げられないことに、愚かしいほど安堵している。
「…………」
女性との付き合いが皆無だったわけではない。だが執着してこなかったのは真実だった。害悪になりそうなら慰謝料代わりの金と結婚相手を見つけて王宮を追い出したし、利益を考えて婚約するところまで考えた女性もいたが、用が無くなったので付き合いを解消したこともある。それよりももっと残酷な仕打ちも。
だがどの女性と破局を迎えても、心には何も残らなかった。仕事を処理するように、破棄すべきものは破棄した。それだけのことだった。
だが、今回は違う。
炎のわずかな熱に縋るような、取り残された子どもに似た寝顔に、手を伸ばしそうになって堪える。
彼女はいつも、主張せずに慎ましく、自分の置かれた状況で精一杯花開こうとする。そして周囲のものに出来うる限り優しくありたいと願い、祈る。
庇護すべき対象だった少女が、そのようにしてリリスという世界に適応して、やがて美しい花を咲かせるに違いないと確信したとき。
それを近くで見守っていたいという思いは日に日に強くなっていった。
(そうして今では――)
キヨツグが結婚した相手は、そう、婚約も何もかもを飛び越えて神前で誓いを立ててしまった娘の存在は、実利も何も関係なく、いまではキヨツグの心に深く根ざして美しい花を咲かせていた。
花に気付いてしまえば、もう嘘をつくことは不可能だった。
手折るようにしてその小さな身体を組み敷いて。唇を重ね。あちこちに口付けて。愛おしいと囁きたい。
(だが彼女がそれを望むことはない)
最初の約束を反故にして、アマーリエを傷付けることはしたくなかった。だから何もしない。出来ない。傷付けたくない。愛おしい気持ちと反比例した恐怖がある。抑えなければ取り返しがつかないことになってしまうことがわかっているから、小さな安らぎに漂うアマーリエに向ける愚かしい衝動に耐え、キヨツグは一人、額を押さえる。
帰還した後は、これまで通り、お互いを尊重し合う連れ合いに戻る。彼女にとって、それが最良の選択なのだ。
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