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 木々の間から差し込む朝日の柱の中、向こう岸の岩場に、一匹の獣が座っている。
 純白の、輝くような毛並みの美しい狼だ。
 あまりにも白いので光って見えるらしい。まるで光の塊だった。人間よりもひと回り大きな体躯は、何かの生き物と血が交じり合っているのだろう。
(……あれ? 私、こんなところで何をしてるんだっけ……?)
 まあいいか、と力を抜いた。目の前に広がる神聖な景色を、いまは心穏やかに眺めていたい。
 獣の目がこちらを捉えた。
 睨みあうのではない、相手を見定めようとする眼差しを受けて、アマーリエはじっとそれを見つめ返した。音が聞こえなくなり、何故か、獣が微笑むようにして息を吐いたのがわかった。
『あの一族の長の花嫁というから、どんな性悪がやってきたのかと思えば。こんなに可愛らしいのだとは思わなかったよ』
(え?)
 今、喋らなかっただろうか。
 獣はこちら側に近付くようにして岩場を下り、アマーリエに告げる。
『あんたに祝福と、そして感謝を。天と地と間の者の末裔の娘さん。娘を助けてくれてどうもありがとう』
「娘……?」
 すぐには思い当たらなかったが、ふっと、岸に向かって放り投げた小さな獣のことが浮かんだ。すると頭の中を覗いたかのように、白い獣は笑みを深めた。
『我ら地を行く一族は、次の長となる娘を、命を賭けて救ってくれたあんたに敬意を払う。たとえすべてが敵に回ったとしても、一生この恩は忘れない』
「あ、あの、……あまり気にしないでください」
 慌てて手を振ると、途端、獣は口を開けて『あっはっはっは!』と大笑いした。そうして初めて、この獣が口を動かしていないのに人の言葉を発音していたことに気付き、異様なものを感じて背筋が寒くなった。私は今、何者と話しているのだろう?
 けれど響く笑い声は、心底楽しげで開けっぴろげだった。やがてくつくつ笑いに変わってしまったが、細められた目はアマーリエに対して親しみを浮かべている。前足を折ってその場にうつ伏せになり、上目遣いにこちらを見る。
『可愛い娘さん。自分の命を粗末にしちゃあいけない。自分が勇敢な、しかし無謀な行動を取ったことをちゃんと覚えておくんだ。それがあんたにとって大事な存在を悲しませないことに繋がるんだよ』
「は、あ……」
『自分にそんな相手はいないって?』
 息を詰めたアマーリエの戸惑いを見透かして獣は微笑んだ。
『でも好きな相手はいるんだろう?』
 アマーリエは黙って指先で袖を弄る。
『ちゃんと言わないと伝わらないよ。恋だの愛だのぬかす前に、正直な気持ちがあるはずだ。それから目を背けないで』
(正直な、気持ち?)
 柱状の光がどんどん眩さを増して、世界が白く染まっていく。何も見えなくなっていくにつれ、アマーリエの意識もぼんやり霞んでいった。
 その中で優しく微笑んだ獣の声が最後に響いた。
『好きだっていう気持ちさ』

 目を開くと、網の目のようになって天を覆う葉と枝を背景に、覗き込むようにしてキヨツグの顔が見えた。
 心を柔らかな羽根で撫でられたように、ふわり、と幸せな温かさが溢れる。水音と鳥の声は聞き慣れないものだったけれど、とても幸福な朝だと思った。
 そうして、飛び起きた。
「ごっごめんなさい! 寝坊しました!?」
「……いいや」
 だがすっかり周囲は明るいし、キヨツグも身支度を終えてしまっている。どうやら採集に行ったらしい。果物と水を渡されて、アマーリエはもぎたての果実をありがたくいただいた。
 食べられる果物を取ってきたり飲み水を作ったり。リリス族の長というのは、サバイバル技術も持っているものなのか。
(覚えた方がいいよね……)
「……何か気になるか」
 食事の手が鈍ったことを気付かれてしまい、アマーリエは急いで首を振り、けれどやはり気になって尋ねた。
「キヨツグ様は、こういうことが得意なんですか? 野宿というのか、外で活動することというか……」
 彼は少し首を傾け、何かを考えている。
「……得意かどうかで言えば、得意な方だろう。私は、王宮に入る前に遊牧の民の元で養育されたゆえ、この程度は日常生活の一部だった。王宮に入った後は、オウギに野戦の技術を仕込まれた」
「そうなんですね。別のところで育ったって、初めて知りました」
 ということは、キヨツグの教育係も引き受けたオウギも、ユメと同じように見た目以上の年齢なのだ。この国だと年上ばかりなのに敬語を使っていない、むしろ必要以上に敬うなと言われるので、なかなか心がついていかない。
「……どうした」
「……言葉遣いの難しさについて考えています」
 そのことを話すと、キヨツグはアマーリエの悩みをうまく受け取れずにいるようだった。彼は王様で、かつては王子様だったのだから、そうしたことはすっかり慣れてしまっているのだろう。
「なんだか不公平です。キヨツグ様は、最初から言葉遣いを直されることはなかったでしょう?」
「……本当にそう思うか?」
「え、違うんですか?」
「……私の教育係はサコ殿がついていたのだぞ。彼女にはさんざん叱られた」
 それが子どもの拗ねた口調のように聞こえて、アマーリエは思わず噴き出した。
 話しながら食事をしているとあっという間に満腹になった。果物の皮を土の上に投げて処分した後、膨らんだお腹を押さえて呟く。
「つい食べ過ぎちゃいました。また太っちゃうなあ……」
 キヨツグはアマーリエの全身を眺めた。その視線の意味に気付いて急いで背中を向ける。
「な、なんですか。最初に会ったときより丸くなったって言いたいんですか」
「……痩せすぎていると思った」
「そんな慰めいりません!」
「……本当のことなのだが」
 アマーリエの知る、しなやかな身体つきの美しい顔立ちの女性たち、その具体的な名前を次々に上げて、キヨツグのそれは勘違いだと言ってやりたかったのだが、自分が惨めになることが明らかだったので黙ることで話題を終わらせた。
 まだ湿っている衣服は持っていくことにした。万が一のときに暖がとれるようにだが、荷物になるため厳選しなければならなかった。結局一番分厚い、上着代わりの一枚を手にし、後はそこに置いておいた。
 そして岩の上に広げたままの携帯端末をセットして、少し考えて電源を入れてみた。
「あ!」
 森の中にそぐわない電子音が鳴り響き、異音と捉えた鳥たちが一斉に飛び立つ。
 驚いたのはアマーリエも同じだ。まさか電源が入るとは思わなかったのだ。キヨツグは聞き慣れない音に緊張を走らせたようだが、それが害のないものだと知ると見ないふりをして野営の後始末を続けている。
(……そうか。私、諦めなくてもいいんだ)
 携帯端末を抱きしめる。
 何を手にしてもいいのだ。何か一つを手に入れて、別のものを失わなければならないとしても、それを手放したくないと願い続けていいのだと、再び力を取り戻した携帯端末が教えてくれているような気がした。
「……準備はできたか?」
「はい」
 アマーリエは立ち上がった。ふと、そこで誰かが『じゃあね』と言った気がしたけれど、誰もいない岩場を見回して、気のせいかと思い、川上に向けて歩き出した。

 素晴らしい朝だった。鳥の声は道、緑と水の香りは瑞々しく溢れ、木々が贈る光と影はいつもよりも愛おしく温かでいて涼やかだった。
 キヨツグの後を追っていくと、彼はアマーリエに合わせて平坦な道を選んでくれているのがわかった。しかし緩めの速度であっても、こうした道に慣れていないアマーリエには厳しい。靴が合わないのだ。歩くためではない装飾的なもののせいだった。
 ふうふうと息をしていると、手を差し出された。
 その手を、見た。
 そして、微笑んで手を握った。そうするととてつもない安心感が全身を駆け巡る。
 骨ばっていて長い指。温かい手のひら。アマーリエの手を包んでしまうそれは、ずっと望んでいた触れ合いそのものだった。
 絡めた指の間を走っていく思いに泣きそうになる。溢れて止まらないそれが彼と同じだとは思えないけれど、この人の優しさには同じもので応えたいと思った。
 ああけれど離さないでほしい。一緒に歩いていてほしい。
(好き)
 この手があれば、きっともうどんなことも恐ろしくないというのに。
 しばらく歩いていると少しずつ道が開けてきた。木々がまばらになって明るさが増していき、地平線が姿を現し始める。捜索隊を見つけたのはそのときだった。
「天様!? 真様!」
「ご無事でございましたか!」
 まさにいまから捜索を始めるところだったらしい。後ろで呼び戻せという指示が飛び、医者を求める声がして、アマーリエとキヨツグの元には大勢の人々が駆け寄ってくる。あっという間に人の輪に閉じ込められたと思ったらその数はどんどん膨らんでいった。中には感涙にむせぶ者もいて、かなり心配をかけたらしいことがわかった。
「大事ない。心配をかけた。それよりも医師に真を診せよ」
「私は大丈夫ですから、お医者様はキヨツグ様に。昨夜一睡もしていないはずなんです」
 そんなことを言っていると、聞き覚えのある声がした。
「真様っ」
「アイ! ユメ御前も」
 人の間を縫ってこちらにやってきた筆頭女官は、心底安堵した様に肩の力を抜いた。彼女たちはすっかりみすぼらしい姿になっていたアマーリエを輪から引き抜くと、停まっていた馬車の周りに作った囲いの中に連れて行く。
「他のみんなは?」
「先に戻らせました。わたくしたちは捜索隊に加われませんし、留まっていても役に立つことができませんから」
 だからアマーリエの身支度はアイとユメが手伝ってくれた。アイはかなり乱れてもつれているアマーリエの髪を洗い、櫛でぐいぐい梳いてくれる。その力強さに秘められた思いを感じ、まさかと思いつつもアイの顔を窺った。
「あの、アイ……?」
「なんでございましょう?」
 晴れ晴れとした笑み。怖い。
「な、なんでもない、です……」
 思わず敬語にもなる。そのまま黙ってされるがままになったので、すぐに支度が整った。川遊びのときのような晴れ着ではないが、ある程度きちんとした格好に戻ることができた。
「わたくし、また失ってしまうのかと思いましたわ」
 華やかな笑みを潜めて、悲しげにアイが言った。
「心配をかけて本当にごめんなさい」
 彼女は首を振り、じっとアマーリエを見つめた。いつもは笑みに隠されているアイの本当の気持ちが露わになっている。何かに対して申し訳なく思っているような、静かで冷静な光が見える。
「わたくしが拝すのは一人と言ったこと、覚えておいでですか?」
 頷くと、アイはくすりと笑った。自嘲の声だった。
「わたくしは実は、真夫人候補として王宮に上がったんです」
「……ええ!?」
 アイ殿、と焦ったようなユメの声を聞いて遅れて理解した。
 ということは、彼女はキヨツグの結婚相手の候補者の一人だったのだ。アマーリエが押しのけた本当の真夫人候補だとわかり、顔色を失う。まさか騒ぎの責任を取って真夫人の座を明け渡せと言うつもりだろうか。
「真様、何かとんでもなく失礼なことを考えていらっしゃいません?」
 じっとりと睨まれて慌てて首を振る。ならいいですけど、とアイは矛先を下げ、ふっと息を吐いて先を続けた。
「けれど真夫人になる気は毛頭なかったのです。そのうちに、この人だと思える御方と出会いました。この人を唯一として尽くそうと思える方でした」
 でも、と彼女は寂しげな息を落とす。
「その方は亡くなってしまわれました。わたくしは気持ちを伝えることができないまま、こうしていまもあの方のかすかな名残を求めてここに留まっています」
 行き場のなくなってしまった恋心。
 アマーリエの心臓はかすかに軋む音を立てた。多分それはアマーリエにとっても起こりうるもの、伝えなければ彼女と同じように抱えていくのだろうと思ったのだ。
「ですから、真様。どうかその思いを伝えてください。伝える相手がいるうちに。その心が死ぬ前に、どうか」
 叫ぶのに似た強い意思を込めたアイは、アマーリエに激しい切なさを見せて訴えた。
 アマーリエは立ち尽くし、言葉を探し、最後にはただ、大きく頷いた。
「……うん。うん、ありがとう。話してくれてありがとう」
 アイはにこりと笑った。いつもの彼女の笑みだった。
 しなやかな動作で立ち上がったアイはアマーリエに言う。
「ではここからは真夫人付き筆頭女官として言わせていだきます。失礼します」
 そうして振り上げられた手は、小気味いい音を立ててアマーリエの頬を叩いた。
「アイ殿!」
 彼女が乱心したと思ってユメが割り込もうとするが、アイは手を下ろし、晴れ晴れと言った。
「きっと誰もが口をつぐむでしょうから、わたくしが申し上げます。真様、あなたは何でも一人で抱え込みすぎるのです。何を考えているか言わないまま、誰にも言わずに自らを危険にさらす。お守りしているわたくしたちからすれば、そういうのって、めっちゃくちゃに腹が立ちますわ」
 涙を流したときのように頬が熱い。押さえたところから熱が溢れていきそうだ。だがこの熱は、アイの思いの温度だった。
「もう少し、わたくしたちのことを思い出していただけませんか?」
 自覚していないところで間違っていることを教えてくれるのは、こうした他の誰か、そばにいてくれる人たちだ。
「アイ。ごめんなさい……」
 心配をかけることはアマーリエがいちばん憎んでいるといっていいものだった。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「いいえ。どんなに腹がたっても、それを遠回しにお諌めしたり、許したりするのがわたくしたちです」
 アイは跪いた。
「真様に手を挙げるなど言語道断。いかなる処分もお受けいたします」
「処分なんてしない! 悪かったのは私なんだから……」
 本気で叩かれていたとしたらもっと痛かったはずだ。あれは音だけのパフォーマンスだったと、手のひらを受けたアマーリエにはわかる。
 目を細めたアイは「真様のご恩情に感謝いたします」と言い、笑みを柔らかいものに変えてアマーリエに言った。
「お尋ねしたいことがございます。真様は、この政略結婚に愛はないと仰いました。では、天様が毎日の真様の様子の報告を義務付けていることを、どう思われますか?」
「……え?」
 報告と聞いて、アマーリエは目を丸くした。
「わたくしは申し上げたんですけれどね。ご自身でご様子を確かめ、心煩わせるものがないかお尋ね申し上げてはいかがですかと。なのに天様はお答えにならず、わたくしたちにどんな些細なことでも見逃すなと命じられるんですもの。あの朴念仁が、と不満を抱くのも仕方のないことだと思いませんか」
(ぼくねんじん……)
 表情の変化も少なければ、口調も静かで、常に落ち着いている人ではあるけれど、まさか女官たちの評価がそれだったとは、なかなかの衝撃だった。
 アイは「それだけではありません」とさらに恐ろしい告白をする。
「これはわたくしたちが推測したものの中で確実のものですわ。――天様が、真様を『エリカ』と、リリスの音にも不自然ではないお名前でお呼びするのは、真様をリリスの一員にしたいがためです。真様がリリスの人間と認識されるように」
 エリカと呼ぶが良いか。
 最初の夜、彼はそう言った。花の名前のミドルネーム。アマーリエ自身も省略しがちなそれを拾い上げて。
(なら、あんなに優しさを注いでくれるのは……?)
 彼について気付いていないことがきっとたくさんあるだろう。それをすべて知りたいと思うのはわがままなことだろうか。ひとつひとつを与え返したいと、切なく祈る気持ちになるのは傲慢だろうか。
「優しさは、愛情ではありませんか? 心が温かくなることはありませんでしたか?」
 目の前が開けていく、新しい気持ちでアイを見つめた。その後ろでユメも微笑んで、アマーリエの答えを待っている。
 けれど薄い水の膜が視界を覆って、うまく見えないし言えない。言葉がたくさんありすぎる。祈りや願いのなんて多いことだろう。
「真様は、天様のことをどう思っていらっしゃいますか?」
 何度も何度も唇を震わせて、アマーリエはゆっくりと、それを口にする。

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