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王宮に帰還したのは、星が輝き始めた黄昏時だった。すぐに部屋に戻れるはずはなく、リュウ夫妻がやってきてアマーリエを診察した。
シキが案じていたと聞き、元気だから心配しないでほしいという伝言を託す。彼にも心配をかけてしまった。あとは、マサキにも会わなければいけないだろう。
アマーリエの自室にはお付きの全女官が揃っており、アマーリエが姿を見せると緊張の糸が緩む安堵が満ちた。筆頭補佐のセリを始め、代わる代わるお説教めいたお小言をもらったが、長であるアイはにこにこと聞いているだけで助けてくれない。
「大丈夫」
アマーリエは大きく、そう言った。
「何が大丈夫なんですかぁ! あんなことになって、あんな、あんな……」
涙声で女官が泣くのは、獣の子を助けてアマーリエが川に落ちたからだった。獣の子は無事だったそうで、岸に降り立つとそのまま走り去ったという。アマーリエの姿が水の中に消えた瞬間生きた心地もしなかったと言って何人かがまた声を詰まらせ、それをみんなでああだこうだと言いながら慰めた。
「もう、大丈夫。ありがとう」
アマーリエはもう一度、全員を見回して笑って言った。女官たちはそれぞれに、呆れや苦笑や泣き笑いになって、こちらを見守っている。
胸を押さえてそこにあるものを確かめた。
勇気を出そう。たとえ傷ついたとしても、この心を死なせてはいけないのだ。
そして、夜が来る。
冴え冴えと冷たい空気は春の暖かさに塗り替えられ始めていて、初めてここに着た頃とは匂いも感触もすっかり変わっていることに気付かされる。草原の色は少しずつ代わり、空もまた星の飾りの位置を変えていた。
時は流れている。
寝殿の一室で窓を開けて空を見ていたアマーリエは、小さな物音を聞いて振り向いた。
やはりいつも通りの普段着で、キヨツグが姿を現していた。
そのまましばらく見つめ合い、アマーリエは目を伏せると、床に滑り降りてその場に正座し、指をついて深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
逃げ出したこと、マサキを巻き込んだこと、キヨツグを傷付けたこと、川に飛び込ませて危険な目に遭わせたこと。たくさんの優しさを義務からだと思い込んでちゃんと受け取らなかったこと。
謝るだけでは足りない。大事なのはこれからどのように行動していくかだった。そのきっかけとしての謝罪だった。
「……顔を上げよ」
長い沈黙の末にそう言われ、ため息をつかれた。
「……そのような顔をしている者を叱責できるはずがない。もう良い」
そう言って、呆れたように許してくれる。
「……だが、罰は与える」
それを聞いたアマーリエの手が震えた。
「……いくつでも?」
キヨツグは少し笑う気配を見せた。
「……そうだ。……望む者に降嫁するのでも、構わぬ」
息を飲んで、キヨツグのかすかな微笑みの意味を知る。
彼は知っているのだ、マサキがここまで忍んできたこと。彼が大きな危険を冒してここを訪れたのなら、そしてアマーリエにそれに見合う思いがあるのなら、それを許そうというのだ。そして都市との関係は変えないようにするつもりでいる。
だとすれば、なんて。
二人の間に引かれていく線が見えるようだった。けれどそれをさせたのはアマーリエだ。
「私の、欲しいものは」
目を閉じる。何を言えば返せるだろうと心にそっと尋ねた。
そのとき見えたのは、光が差した中に高く伸びた花に囲まれ、その人を呼ぼうとしている自分だった。
「欲しいものは」
未来はわからないままだ。でもいま、降り注ぐ光を、手のひらに受けるために顔を上げる。
大好きです。
「あなたの、妻としての役目です」
キヨツグがゆっくり目を見開いていく。
胸が震えて目の奥から熱が生まれ、アマーリエは自分がいまにも泣きそうになっていることに気付き、精一杯の笑顔を浮かべた。これが真実なのだと、わかるように。ようやく彼を呼べる。この花を見てほしい。光が差しているここに来てほしいと。
彼の長い指がアマーリエに伸ばされた。頬に触れ、腕が背中に回り、引き寄せられて二人の距離が近くなる。何を求められているか感じ取り、目を閉じた。
すぐに優しい熱が唇に触れてきた。
誰かに捧げるだけじゃない。自分が何かを与えられるなんて思わなかったし、思えなかった。けれどリリスに来て、降り注ぐ恋、許して導く愛、その源を初めて知った気がした。こういう恋と愛の形もあるのだ。
「……意味を」
わかっているのかと問う息遣いは、少し、乱れている。もう答えを知っているはずなのにそれを聞くのは、優しいのか、臆病なのか。きっとどちらもだろう。触れ合うだけで痺れるような切なさが走り抜けるのだから。
手を伸ばす。初めて自分から触れる。
「……す、き……です……」
「……聞こえぬ」
「好きです……」
「……笑っていろ」
彼の声は掠れている。吐息交じりの言葉は、甘く、何度も胸を撫でる。
「……泣いてもいい、笑ってくれ。そうであるよう、守る」
「はい」
都市にあったアマーリエ・E・コレットの未来を捨て去るわけではない。でもこれからはリリスにあるアマーリエ・エリカの未来を選ぶのだ。何故ならどこにでも時は流れるから。過去と現在と未来は繋がっているから。未来は、紡いでいける。
だというのに何故かアマーリエは震えていた。落ちていきそうで怖かった。しがみつけばつくほど、恐ろしいことが起こる予感が瞬きのように閃いていく。
キヨツグに抱き上げられて寝室に連れて行かれながら、理解する。雨粒が落ちるのと同じく天啓のように降ってきた。
これまで選ぼうとしなかったのは。
(怖かったんだ)
手を繋いで抱きしめあってキスをしたその先が、怖い。
これまできちんと向き合えずに来たのは、結婚という行為に対しての、恋愛も交際もしたことのない初心な小娘の無意識下の小さな抵抗だった。
そうしていま、彼の目はあまりにも真剣でこれから起こることがわかってしまう。ベッドに座らされて、アマーリエは息を飲み込んだ。
「……エリカ」
彼の手が溢れる涙を拭う。
「ちがう、ちがうんです。悲しいわけじゃなくて……」
溢れて止まらない。好きだと叫ぶのに似たその激しさに、アマーリエはただ泣きながら手を伸ばす。
指を絡めて、触れてもらって。こんなときにでもキヨツグは自らの感情に従うことなく、アマーリエを見守って待っていてくれる。繋いだ手が熱くて、同じ温度で涙が流れた。
信じている。これは本当の恋だと。都市を離れたからこそ生まれ、花咲き光射す想いになった。
最初で最後の、真実の恋。
だからきっと、涙のわけは。
「恋をしたから、涙が出るんです」
唇を触れ合わせて瞳を交わす。かすかに光る漆黒の目がアマーリエの中の想いを見つけ、頬を拭って囁いた。
「……愛している」
はい、と泣きながら言った。
「愛して、います。愛し……」
その続きは、合わせた唇の間に消えていった。
人の温もりが触れられるところにあり、ひとりきりで眠る必要がない、喜びと安らぎがあるということ。触れ合うことで伝わり、慰められるものがあるのだということ。互いの熱とその言葉を重ねたこの夜、アマーリエは初めて知った。
*
ライカは長く続く微睡みから目覚めた。常に夢を見ているライカの意識は夢とうつつの間を彷徨い、心は、まだ生まれる前の過去から、現在、遠い未来にまで及ぶ。
目覚めたライカは人を呼び、眠っていた間の出来事の報告を受けた。義理の甥に当たるマサキ・リィの訪問と、義妹であるシズカ・リィの来訪、真夫人アマーリエ・エリカの逃亡事件や、船遊びの際の水の事故と帰還の知らせ。それらを一挙に受けて、まるで物語を聴き終わったかのようにころころと笑った。
夢に見た通りとはいえ本当に騒がしい子たちだこと。
「二人の様子はどう?」
「ともに寝間に入られたようです」
そうと笑う。明日の朝の出来事がまた楽しみで含み笑いになってしまった。
だが笑っているだけではいけない。こちらも手を打っていてあげなくては。
「マサキ殿に連絡を取ってちょうだい。シズカ様を出し抜ける方法は、あの方の嫌悪するヒト族とヒト族のものであると、伝えて」
命じた後は一人になった。ライカはゆっくりと起き出して机に向かう。さすがにかなり足が萎えていて動くのは辛かったが、机の引き出しを開けてまっさらの紙を閉じた冊子を取り出し、筆記具を用意すると、そこで自分の見たものを書きつけ始めた。
過去と現在と未来を夢に見る巫女として、これを読むものの導きとなるように祈りを込めて。
(けれど未来はまだわからない。知っているのは、あなたたちだけ)
不器用な息子夫婦を思いながら、ライカは微笑んだ。
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