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 覚醒したとき、アマーリエは心地よい温もりに包まれていた。このまま目を閉じていれば二度目の眠りに落ちることができそうなほど、柔らかであたたかで気持ちがいい。
(ああ、でも起きなくちゃ……)
 そう思って目を開けると、いつもと違った。
 無意識に視線を上げて、息を飲む。
「………………っ!!」
 途端に、麗しい寝顔を直視した心臓が暴れだす。
 一気に体温が二三度上昇したはずだ。ぱくぱくと口を開け閉めして呼吸を求めながら、そこにいる人を凝視した。
 男性的なのに美麗すぎる顔。リリス族に特徴的な目は閉じられているが、それにしても睫毛が長い。枕には艶やかな髪が流れていて、おとぎ話のお姫様もかくやという美しさだ。
 しかししっかりとアマーリエを抱きかかえている腕は、案外逞しくて、揺るぎない。そう、昨夜は同じベッドで眠り、この腕に……。
(考えちゃだめ考えちゃだめ考えちゃ……!)
 頭に浮かぶものを必死に振り切る。だが激しく身動きしてしまうと彼が目覚めてしまいそうだったのでじたばたしたいのを必死に堪えた。
 すると、気配を感じた。顔を上げて、今度こそ頭の中が真っ白になった。
「……目が覚めたか」
 漆黒の虹彩がアマーリエを映していた。
 こういうとき、どんな顔をすればいいのだろう。考えても思いつかず、さらにどうすることもできなくて、顔を手のひらに埋めた。
「おっ、はようご、ざい、ますっ……」
 緊張のあまり奇妙な抑揚がついてしまい、ますます顔を上げられない。「おはよう」と言った後、彼が漏らした吐息すら艶めかしく響いて、アマーリエは自分の暴れる心臓が口から飛び出て壁にぶつかってどこかに飛んでいくんじゃないかと思った。指の隙間から覗いて見てしまった、彼の首筋の美しさに羞恥が二倍になる。いや二倍では足りない。いますぐここから逃げ出して埋まりたいような気さえする。
 キヨツグは頭を上げて時計を見たようだ。五時半、と喉に引っかかったような囁き声がした。すると次の瞬間、彼との間にあった距離がゼロになった。
「き、キヨツグ様!? お、起きなくていいんですか? いつもいつ頃お目覚めなんです?」
「……このくらいの時刻だが」
 ということは、五時半には起床してそこから夜の十時、あるいはそれよりも深い時刻まで働いているのだ。労働基準法に抵触しているのではないか。
 そんなことを考えていると髪に顔を埋められた。
 彼はもしかしてアマーリエを犬猫と勘違いしていないだろうか。ずっと緩やかに頭を撫で回され、それでは足りないと胸に引き寄せられる。放っておくといつまでもそうしているような気がして、アマーリエは声を上げた。
「そろそろ、起きた方がいいですよね……?」
「……起きたくない」
 少し腕を突っ張って抵抗してみせたら、それを上回る力強さで元の位置に戻された。
「……今日はこのままここにいたい」
「そ、そんな」
 裸の胸が夜着一枚越しにあることを意識すると舌が回らない。あわわと意味のない言葉を転がしながら、このまま彼を独り占めすることはできないと考える。彼はリリス族の長、アマーリエの夫である前にリリスという国を支える人だ。こうして一緒にごろごろしていていいわけがない。
 だというのにキヨツグは半ば夢の中にいるような口調で呟いた。
「……昨夜も思ったが、お前はいい香りがする。柔らかくて甘い……」
「っ!?」
 この発言に危機感を覚えたアマーリエは跳ね起きた。
「そ、そうだ馬場に! 落花と瞬水に会いに行きましょう! せっかく早い時間なんですから」
 そうだそれがいいです、と力一杯言うとベッドを出て脇目も振らず部屋を飛び出した。
 いささか強引すぎたかもしれないと何度か足が止まりかけたが、自室に入るなり、大勢の花咲くような笑顔の女官たちに迎えられ、首を傾げた。
「おはようございます、真様!」
「おめでとうございます」
 祝福を受けたその瞬間、彼女たちに昨夜の出来事が知られていることを悟り、悪いが寝殿に残してきたキヨツグを気遣う余裕は吹き飛んでしまったのだった。

 昨夜の出来事を知りたがってうずうずしている女官たちに囲まれながら支度をした。誰かがアマーリエに呼びかけるとかすかな緊張が走る、そわそわした空気の中、アマーリエが馬場に行きたい旨を告げると、彼女たちはすぐにユメに取り次いでくれた。
 ユメと挨拶を交わし、ともに厩舎に行く。いつもより早い時間だったため、武官たちが馬の手入れをしていた。ひときわ大きな声で挨拶してくれたヨウ将軍たちに応える。
 キヨツグは先んじて瞬水と落花を連れて待っていた。アマーリエは心臓がまた暴走しないように呼吸を整えて、彼の元に近付いていった。
「おはよう、落花、瞬水」
 馬たちをそれぞれに撫でる。落花は心地好さそうにしていたが瞬水は不満そうだった。身体が大きくて勇敢な雄馬だからか、少々気難しいところがあるらしい。それはそれで可愛いものだ。
 その後は二頭を解放し、自由に走らせてやる。
 冬の朝日を浴びて立つ馬たちは自由で生き生きとして、美しかった。風になびく鬣や尾が淡く光り輝き、まるで世界の祝福を一身に浴びているような気がした。
「……いい朝だ」
「はい」
 キヨツグの言葉にアマーリエは頷く。草原の冬の朝は清々しくて気持ちがいい。この冷たい空気がまた身を引き締めるようだ。
 すると彼は身を屈め、アマーリエの耳元に囁いた。
「……もう少し、一緒にいたい。遠駆けに付き合ってくれぬか」
「は、はい……!」
 どきりとしながら首を縦に振る。そのとき、いつもならあまり感情の浮かばない彼の顔に微笑みがあることに気付いた。本当にかすかな変化だったけれど、それを読み取れたこと、嬉しいと感じてくれているのだとわかったことで、頬が熱くなる。
 遠駆けといっても落花は留守番だった。これまでの騒ぎを考えるとアマーリエに足を与えることはできないのだ。不満そうな落花はユメに預けられ、アマーリエはキヨツグとともに瞬水に乗って王宮を出た。
 瞬水は軽々と飛ぶように駆けた。草原を行き、岩場を越えて進んだ先は、都市の見える丘の上だ。
 足元で揺れる小さな花たちは少し見ない間に広がって、優しい色の絨毯を作っている。草の緑は春めいて、土もまた柔らかだった。
 その場所から望む都市のビル群はいつもより霞んでいる。
 多分、それでいいのだろう。褪せて見えても、故郷はそこにある。
「……髪が伸びたな」
「わあ!?」
 飛び上がって耳を抑えると、ぴんと髪が一筋張って頭に痛みが走った。
 キヨツグは触れていたアマーリエの髪を離した。こんなに驚かれるのは予想外だった、と彼の顔に書いてあったし、過剰反応してしまったアマーリエ自身も窮した。
「よ、よくわかりましたね」
 挙げ句の果てにそんなことを言った。髪は伸びるものなのにわかるも何もないのだが、的外れな返答でもキヨツグは気にならなかったらしく「……驚かせてすまなかった」と詫びた。
「……髪結いの者がよくやっているのだな。その髪型はよく出来ている」
 意外だった。見慣れていそうなのに、と思ったのだ。
 アマーリエの知る限り、リリス族は髪を長く伸ばしている人が男女問わず多い。ユメのように短くしている人は珍しいくらいだ。だが武官であるヨウ将軍などは髪を刈り込んでいるのできっと職種にもよるのだろう。
「……触れてもいいか?」
 断る理由がなくて、頷いた。
 長い指が髪や、簪や髪留めに触れているところを想像すると背中の辺りがむずむずした。また彼が褒めたこの髪型は、浮かれた女官たちが腕によりをかけたものだったことを思うと、気恥ずかしくてたまらない。
「……結い髪もいいが、下ろしているのも愛らしくて好ましい。外してもいいか?」
「えっ、あっ、はい! か、帰ったらまた衣装も髪も変えますから!」
 愛らしい。好ましい。そんな台詞がぽろぽろと落ちてきて混乱する。
(こ、こういう人だったっけ……?)
 もう少し冷たいような印象があったのだけれど、と思っていると遠慮なく解かれた髪が背中を打った。そうしてみると確かに髪が伸びていた。色素の薄さは相変わらずで、髪も瞳も漆黒のキヨツグと並ぶとかなり色が抜けているのがわかる。
 記録にも残らない時代には、ヒト族も彼のように漆黒の髪や目を持つ者が多かったという。それがこの小大陸で文明を営むうちに色素を失っていった。それは未だ解明されない謎だと言われている。
 一方リリスは閉じられた国だったせいか、ほとんどの人が黒やそれに近い髪や瞳の色をしているようだ。中でもキヨツグの持つ色彩はアマーリエにも特別に感じられた。族長家という血筋のせいだろうか、彼が持つ色は誰と比べても強い、磨いた宝石のような黒なのだ。
「……髪は、このまま伸ばすのか?」
「そのつもりです」
 都市ではそれなりの長さに伸ばしていたつもりだったが、リリスに来ると少し足りない。真夫人としての装いのためには長くした方が都合がよさそうだと思って、そう言った。キヨツグもそれがいいと頷いた。
「……お前の夜の水面のような髪色は、長くすればさらに映えることだろう」
「夜の水面? そんなに黒くはないと思うんですが……」
「……光を映すと、夜の水面はお前の髪色のようになる。美しい色だ」
 キヨツグは髪を一房取って口付けた。
 アマーリエの思考回路が音を立てて切れていく。何も言えなくなっていると、彼は様子を伺う憎らしいほどの上目遣いになって。
「……その瞳は、花の色だな」
 狼狽えて目を伏せたとき、その瞼に唇を押し当てられた。ひゃっと声が出る。
(もう旦那様、なんだけどこれは……!)
 一線も二線も引いていたのが嘘のように、キヨツグは今朝だけでこれまでの倍以上アマーリエに触れてくるが、突然すぎる変化に戸惑うばかりだった。小さく悲鳴をあげたり、身体を強張らせたり、動揺することしかできていない。
 だがキヨツグは三十一歳で、外見のせいで忘れがちだがアマーリエより一回り上なのだ。慣れている、のだろう。結婚相手の候補がたくさんいたらしいことは聞いていたし、それ以外にも付き合いのあった女性がいたはずだ。
 その思考はアマーリエの胸を掻き乱し、苦い味を覚えさせた。だめだ、と眉間を揉む。オリガたちも言っていた、相手の遍歴を探るのはトラブルの元だと。もう気にしてはいけない。
(だって、もう私の旦那様なんだから……)
 ふるりと頭を振ると、風を感じて心地よかった。なんとなく朝の駅のホームを思い出す。行くところが決まっている感覚だ。
 思いを胸に、キヨツグを呼ぶ。
「キヨツグ様。お話があるんです」
「……どうした?」
 静かに見下ろす彼の眼差しに怯んだけれど、息を飲み下し、覚悟を決めた。
「私のしたことをきちんと罰してください。それからマサキのことを、どうか許してください」
 いまでなければ、二人きりでなければ言えないと思ったけれど、口にすると自分の仕出かしたことの大きさに震えがきた。血の気が引いて目眩がしたが、ここで倒れるわけにはいかなかった。
「私の弱さが、彼を振り回しました。彼の優しさにつけ込んで、巻き込んで、逃げようとした。キヨツグ様はもういいと言ってくださったけれど、マサキが誤解されたままなのは間違っています。私は彼にも償わなくてはいけないんです」
 彼はゆるりと瞬く。思考が止まることを恐れたアマーリエは一気にまくし立てた。
「マサキの立場を以前と変わらないものに戻したいんです。彼が私なんかのために何も捨てなくていいように、私を罰してください」
 どのように行動していくか。きっとそれがアマーリエが本当に真夫人となるための第一歩なのだと信じて、告げた。
 キヨツグはどうしても揺れてしまうアマーリエの瞳を見つめていた。先ほどまでとは異なる冷厳な眼差しは、アマーリエが初めて対峙する族長としてのものだった。
「……自ら咎を負うか。償うためには何でもすると?」
「……はい」
 キヨツグは小さく息を吐いた。
「……ではその覚悟があると信じて、筋書きを考えよう。多数の嘘や方便を用いることになるが、演じきることを期待する」
 それが彼の許しの言葉であることを知って、力が抜けた。
「……ありがとう、ございます……」
「……それは終わった後で言うことだ。お前の望む結果にならぬ可能性もある。だが、よく言ったな」
 キヨツグは厳しかった目元を和らげて、アマーリエを労った。それだけで、どうしたいか言えてよかった、勇気を出してよかったんだ、と思えた。
 この人を傷つけた後悔に未だ苛まれるけれど、少なくとも逃げ出してしまったときに比べて、いまは前に進むことができているはずだ。込み上げるものを堪えていると、キヨツグが宥めるように抱きしめてくれた。
「本当にごめんなさい。ありがとうございます……」
「……もういい。もしまだ私に詫びたいと思うのなら、愛の言葉に変えてくれ」
 アマーリエは目を点にした。
「愛……の……?」
「……覚えておくといい。それだけで私の機嫌が良くなる」
 そのとき嘶いた瞬水が、キヨツグとアマーリエの間に顔を割り込ませてきた。驚いて一歩離れたアマーリエだったが、瞬水は何が気に入らないのかぶるぶると何かをキヨツグに訴えている。
「……瞬水」
 彼は急かすように頭を上下に動かし、蹄を動かす。あまりに落ち着かないのでキヨツグも観念したようだった。
「……落花に会いたいらしい。そろそろ戻ろう」
 瞬水は「いい加減にしろよお前ら」と言いたいらしい。無垢な瞳が苛立っているように感じられて、アマーリエは赤くなりながらごめんねと言った。そして、キヨツグの本気か冗談かわからない発言から救われたことに、感謝を呟いた。

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