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 正殿の謁見の間に脚を踏み入れるのは初めてのことだった。顔色が悪くなっていることを自覚しながらも、アマーリエは努めて冷静に下座につき、深く叩頭する。
 最奥に座するのは族長であるキヨツグ。その左右には順に長老と呼ばれる重臣たちが居並び、アマーリエを見つめていた。こちらに厳しい視線を向けている者もいるが、彼らの怒りはもっともだった。アマーリエは別の男と逃亡しようとした裏切り者なのだ。
 正面にいるキヨツグは鋭く重い気迫を漲らせていて、アマーリエはわずかに息を飲み下した。彼のまとう覇気は、ただの小娘には強すぎて、普段を知っていても怯えてしまう。だから彼と交わした言葉のことを考える。
 ――定められた結論に落とし込む作業だ、とキヨツグは言った。
「査問会を行うときには、討論や相談は事前に済ませ、一堂に会した際に最終的な結論を下す。長老たちにあらかじめ私の意向を伝えておけば、結論は大きく外れることはない。必要なのは誰が何を発言し、どのような筋道でその結論に至ったのか、記録を残すことだ」
(この査問会は舞台のようなもの。キヨツグ様が下す結論のために、全員が演技するための場。空々しくても、記録を残して多くの人に周知されるためにはやらなくちゃいけない)
「面を上げよ」
 だからいまはただ、揺るぎなく前を見据える。
 アマーリエの罪を糾弾する査問会という名の舞台が始まる。
「真。そなたの脱走について様々な憶測が飛び交っている」
「……どのようなものでしょう?」
 声が震えるが、かすかな微笑みを浮かべるようにして平静さを装う。
「そなたがマサキを誘惑して逃亡を図った、あるいはマサキがそなたを拐かしたのだというものだ」
 実際に聞くと眉根が寄る。こういった噂が囁かれている空気は感じたけれど、実際にアマーリエの耳に入れる者はいなかった。改めて優秀な守り手であったアイたちに感謝の念を覚える。
 息を吐いた。打ち合わせたことを頭の中でなぞる。
(形は違えどきっとこの先もこういうことをしなくちゃならないときが何度もくる。これは最初。だからやり遂げてみせる)
 顔を上げ、にっこりと笑った瞬間にスイッチが入った。
「それは単なる噂話に過ぎません。わたくしは、ただ天様に困っていただきたかっただけなのです」
 笑顔の参考にしたのはアイだ。彼女の楽しげで明るい笑みを意識すると心が少し強くなった気がする。
 む、と唸り始めた長老たちに見えるよう、頬を押さえて大げさにため息をついた。
「天様はご政務で多忙の身。わたくしを少しも構ってくださいません。仕方のないこととわかっていても寂しゅうございました。ヒト族のわたくしにとって夫である天様は私のたった一つの縁だというのに、そばにいてくださらない……それを悲しんでいるところを、リィ家のマサキ殿が哀れんでくださり、計画したのです。天様のお気持ちを確かめるため、王宮から逃亡してみよう、と」
 長老たちに困惑と納得と呆れが浮かぶ。小娘の愚かなわがままだということ。そんなことのためにこの騒ぎか、ということ。そしてこれまで没交渉気味だったこの族長夫婦は、彼らの長に責任の一端があるらしいこと。
「なんと……ただの痴話喧嘩でござったか」
 その呟きに、どっと笑声が上がり、場が緩んだ。
「なるほど、天様も必死になられることよ。本当に逃げられては面目が立ちますまい」
「それでマサキ殿は当て馬か。災難だな」
「然り然り。夫婦喧嘩は犬も食わぬと申すもの。巻き込まれた側はたまったものではない」
「そういえば、昔から天様はおなごの扱いが不得手でありました」
 アマーリエはさっとキヨツグを見た。
 この騒動を、皆が呆れるものにすればいいと言ったのは彼だ。痴話喧嘩に持っていくと告げた彼は、アマーリエにはわからない誰かに協力を頼んだ。恐らく査問会が始まる前に、笑っている長老たちの間にキヨツグとアマーリエのすれ違いによる騒動だったらしいという話が広められていたはずだ。だからこの態度なのだ。
 少し、怖いような気がした。全員がそれを言わず演技しているのだと思うと、自分たちはなんて道化なのだろうと思う。
 キヨツグは笑い声の中にいても無表情を崩さなかった。演技とも本音とも取れる、いつもの顔だ。
 そしてもう一人、静かに目をすがめている男性がいる。少し陰鬱な空気を纏う彼は、アマーリエに声をかけてきたこともあるカリヤだった。彼はこの場を茶番と感じているらしい表情を隠しもせず、最後には興味がなさそうに別のところに視線を投げている。
「しかし真様の子どもっぽい振る舞いはいかがなものか」
「うむ、如何な事情があろうとも、間男と逃亡したと思われても仕方のない行動であった」
 キヨツグは頷いた。
「そなたらの意見はもっともだ。真の行動は王宮の秩序を乱した。然るべき罰が必要だろう」
「では天様も罰を受けられるということですか?」
 族長の一声で静まりかけた場に、次の瞬間爆笑が轟いた。どうやらキヨツグの平然とした顔とアマーリエの小気味いい返答が拍車をかけたらしく、つぼに入った数名がひいひい言いながら笑っている。
 白髭を蓄えた長老の一人は形を失くし始めた査問会を苦笑して眺めやり、手を振った。
「いやいや、天様が罰を受けては困りまする。これはもう喧嘩両成敗ということに致しませぬか。真様もすでに何日か謹慎処分でございましたゆえ」
 キヨツグは瞑目し、首を振った。
「それでは示しがつかぬ」
「騒動の真相が広まればそうも言っていられますまい。きつい言い方を致しますが、このように間の抜けた理由は多くの者を落胆させることになるでしょう。我らが族長はヒト族の娘一人御すこともできぬのか。真夫人は族長の妻たる自覚なく我を通すのかと」
 冷や水を浴びせられた気がして、アマーリエはぞくりとした。
 瞳に一瞬鋭い光を宿した長老は、次の瞬間には好々爺の顔になって顎を撫でている。
「まあ受け取り方は千差万別。我々はお二方の言動を存分に楽しませていただきました」
 そろりとキヨツグを見るが、彼はこちらに目を向けなかった。ただ小さく嘆息した。
「追って沙汰する。下がれ」
 彼に命じられて退出の礼をし、謁見の間を後にする。
 待機していたアイに次に行き先を告げると、彼女は少し物言いたげにしたので付いてきてほしいと頼んだ。そうしてアマーリエは彼の部屋に向かう。
 部屋を守っている武士に取次ぎを頼むとすぐに通された。
 主の心情を反映してか締め切られた室内は薄暗く、光は白々しく感じられた。そこに何をするでもなくぼんやりと座っていた彼は、少し疲れた顔で「よお」と手を挙げた。
「マサキ……」
「もうウワサ、聞いたぜ。っていうか聞かされた。夫婦喧嘩ってことにしたんだ?」
 親切なヤツがいるもんだなと片頬を歪めるマサキを前に、アマーリエはまずアイに外で待っていてほしいと告げた。彼女は黙って従い、部屋に背を向ける形で待機することにしたようだ。それを確認した後、アマーリエはもう一度マサキと向き合った。
 彼の笑顔は痛々しく、傷の深さを思い知らされる。
 マサキの前に膝をつくと、指を揃えて深く頭を下げた。
「あなたを振り回して、本当に、ごめんなさい」
「謝んなよ。……惨めになる」
 返ってきた拒否に唇を噛み締めるが、彼の心情を思うと当然のことだ。だから頭を下げ続ける。どうすれば彼に償えるのか考えてしまうのは、やはり心の底から申し訳ない気持ちがあるからだ。
「……お前も、俺が逃げてたと思う?」
 ぽつりと漏れた言葉は、雨のようだった。
「リリスよりも都市がいい、都市が俺の本当の居場所だと思い込んで、ここから逃げようとしたんだって」
 頭を上げて、彼を見る。そして首を振った。
「あれは、私の気持ちだった。都市に戻りたかったのは私の気持ち。逃げようとしていたのは私で、マサキはそれに手を貸してくれようとしただけ。私が、あなたを迷わせた」
 はっきりと自覚しなくても、アマーリエは都市に憧れるマサキに気付いていた。マサキに手を取られたときに逃げようと思ったのは、彼を利用すれば都市にたどり着けるという打算が無意識に働いたからだろう。彼の言動に表れる思いを踏みにじるように利用した。
 だから、言わなければいけない。
「ごめんなさい、マサキ。――私は、あなたの気持ちに応えられない」
 どんなに好きでも、大切でも、マサキへの恋心は育たない。それは真実で、一方では残酷な現実だ。
「必ず償うから、私のことは許さないで。もう優しくしないで」
 マサキは苦笑した。苛立ちと諦め、皮肉が浮かんでいた。
「お前が俺の行動を決めるのか?」
 アマーリエはびくりとして、項垂れた。
「……マサキのことが好きだから。私の身勝手に振り回されてほしくない。距離を置きたいの。あなたは優しいから、きっと頼ってしまう。それは嫌だ」
「勝手だな」
「……わかってる」
 叱責は甘んじて受ける。けれどこうして耐えることすら悲劇ぶっている気がして、本当に、自分に嫌気がさした。
 握りしめた拳が震える音が聞こえるような、長い沈黙があった。
 マサキは何も言わない。言うことはないのだろう、と思った。いつまでいるんだと拒絶されたらおとなしく帰ろうと決めた矢先、息を大きく吸い込むのが聞こえた。
「……っあーもう! やめやめやめ!」
 驚くアマーリエの前でがしがしと髪をかきむしったマサキは「暗えんだよ!」と言いながら窓という窓を開け、「うわ眩しっ!」と声を上げて日よけを下ろし、暴れるように部屋を開け放った後は、肩で息をしながら「いいか!」とこちらに指を突きつけた。
「許すな、優しくするな、だって? それは無理! 絶対無理! 何故なら俺がお前を好きなのは本当のことだし、困ってたら助けたいと思っちまうからだ! けどきっぱり振られたから今回は潔く身を引くけど、何かあったらかっさらうからな! いいか、今回だけだぞ!」
 鼻息荒くまくしたてた後、そっぽを向いてしまう。
 呆然としていたアマーリエは、マサキは許したのだ、と気付いて息を詰まらせた。彼は、許してくれるのだ。じわりじわりと沸き起こる思いに、アマーリエは思わず呟いた。
「どうしよう……私……あなたのことを抱きしめてもいいと思う……?」
 目を丸くしたマサキは笑み崩れた。
「いいぜ」
 アマーリエは腕を伸ばし、親愛の証として彼をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、マサキ。ありがとう……」
 ごめんなさいではなく、その言葉を望まれているとわかったから、涙声で一生懸命に言った。
 彼の傷はきっと残る。それでも許してくれた。アマーリエの行動を許そうとしてくれた彼のために、彼の望まないことはしないと決めた。
 もう傷つけない。それは、大切な人への間。恋ではない、愛情の形だ。
 すると背中に回った手が不意にぎゅうっと締まった。
「ま、マサキ?」
「ああもうマジで離したくねえなくそーアマーリエ早く離婚しちまえー」
「ちょっと、ね、ねえ……」
 緩めてほしいと腕を叩いたとき、新たな訪問者の影が差した。背の高いそれにアマーリエはぎょっとする。
「キ……!」
 マサキの肩を叩いて知らせるも、腕は解けない。
 拳を作って本気で叩く。ばんばんと鈍い音が響くが、リリス族の頑丈さを自分の拳の痛みで思い知るだけだ。
 状況を一瞥したその人に向かって、マサキはアマーリエを締め付けたままにやりと笑った。
「離した方がいいですか?」
「斬り捨てられたくなくばな」
 マサキは挑戦的に笑ってキヨツグを見上げていたが、次の瞬間アマーリエの渾身の拳が彼の背中に突き刺さった。
「いでっ!? 痛てて……」
「いっ、いまのはマサキが悪いよ!?」
 だが拳の骨の硬い部分で殴ったのは悪かったかもしれないが、離してくれないマサキが悪い。彼から離れたアマーリエはキヨツグの元に駆け寄ろうとして。
「…………」
 躊躇して動きを止めてしまった。
 いまの状況を浮気現場と受け取られれば、なりふり構わず駆け寄ることはできない。拒絶されれば、心がばらばらになってしまいそうだ。親愛の証として抱きしめたつもりが、キヨツグがそう受け取らない可能性がある。軽率だった。
「……エリカ」
「……!」
 罪悪感で固まっているアマーリエの前で、キヨツグはどこか呆れたように手を振ってアマーリエを招いた。仕方がないなというため息がついていた。
 泣きそうなくらい嬉しい気持ちを抱えながらおずおずと近付くと、肩を抱かれる。
「……授業が始まるだろう。早く行きなさい」
「げっ! 従兄上と二人きり!?」
 キヨツグの無言の圧力を受けて、呻いたマサキは愛想笑いを浮かべた。これなら大丈夫だろうと思って、アマーリエはもう一度、マサキを抱きしめた。
「本当に、ありがとう」
 今度はきつく腕を回すことなく、あやすように肩を叩いてくれる。
 そうしてアマーリエは部屋を後にし、控えていたアイを連れて自室へ向かった。その数分後、ものすごい勢いで部屋から飛び出していくマサキを知ることなく。

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