はじまりとこれから
 
    


 エルセリスの朝はたとえ休日でも変わらない。年末から年明けにかけて与えられた休暇を過ごしていても緩みなく出勤するときと変わらず七時に起きて身支度をし、朝食を食べて今日の予定を整理する。だいたいは稽古に費やしたり、読書をしたり、手紙を書いたりするように予定を組むことが多い。そうしているうちに仕事がない日にはこの時刻に両親が起き出してくるのでエルセリスは少し早めの昼食を、両親はその日最初の食事をとるところで挨拶をする。
「ねえエルセリス。今度母様が行くお茶会なのだけれどね」
「申し訳ありません、母上。しばらく忙しいので、お断り申し上、」
「失礼いたします! だ、旦那様……」
 いつものやりとりは慌てて駆け込んできた家宰によって破られた。家宰に耳打ちされた父は、次の瞬間驚愕を浮かべ、みるみる顔色を青ざめさせて口早に何かを命じた。緊急事態を察知したエルセリスは食事の手を止めてそれを見守っていたが、向き治った父は硬い口調で娘に告げた。
「エルセリス。オルヴェイン殿下が、お前を訪ねていらっしゃったそうだ」
 すっ転ぶ勢い、という表現がふさわしいかもしれない。
 椅子を蹴立てて立ち上がったエルセリスは客間に駆けつけようとして両親に制止され、母が命じた侍女たちによって部屋に移動させられ着替えさせられた。そんなことよりも早く彼に会った方がいいと訴えたが聞き入れられず、普段着にしてはきらきらしい服装を身にまとわされた後、ようやく解放されて小走りで客間に向かう。
 扉を開けた瞬間の父の安堵した顔は筆舌に尽くしがたい。
「ああ娘が参りました。では、私はこれで……」
 出て行く父の代わりに侍女と家宰が控えることで、嫁入り前の娘が異性とふたりきりになることは避けられ、エルセリスは父と和やかに会話していた(と本人は思っていることだろう)オルヴェインに膝を折った。
「ようこそお越しくださいました、閣下。新年おめでとうございます」
 職業病としての呼び名が先に口をついてしまい一瞬「これでよかったかな?」と考える。オルヴェインは第二王子なので敬称は『殿下』だが、職場では第一王子アルフリードとの混同を避けるため、長官職としての『閣下』の呼び名がいつの間にか定着していた。
 そのことに気付いたオルヴェインは軽く苦笑し、けれど礼儀正しく突然の訪問を詫びた。
「ごきげんよう、ガーディラン伯爵令嬢。新年おめでとう。不意の訪問で申し訳ない」
(ご、ごきげんようの一言がこんなに似合わない人も、なかなかいないだろうな……!)
 笑顔が少々引きつってしまった。かつて挨拶といえば「よお」だった。エルセリスはちょっとおとなしく「やあ」だったが、身分と立場がある者としての礼儀上かなり問題があった自覚はあるので、オルヴェインもエルセリスの挨拶に違和感を覚えているかもしれない。
「如何されましたか?」
「至急連絡があって来た。……外で話せるか?」
 耳目をはばかったということは、仕事の話だろうか。エルセリスは表情を改めて頷き、オルヴェインを屋敷の奥にある庭に誘った。
 覚めるほど透き通った冬の青空が広がっている。庭の木々は前夜降った雪に覆われ、神聖なほど静かな世界を描いていた。屋敷に勤める使用人たちが散策のための石の小道の雪かきをしてくれたおかげで、話をしながら歩くくらいはできそうだ。
 駆けつけてきた侍女から受け取った外套をそれぞれ肩にかけ、歩き始めてしばらく。屋敷から離れたところで口を開いた。
「お前、今日はえらくめかしこんでるな」
「ああ、うん。まあたまにはね……」
 いくら悪評のあった王子とはいえ、娘に男性のお客様が来たということで張り切った母と侍女たちの成果だ。するとオルヴェインが声を詰まらせながら言った。
「お、……俺のためか?」
 その上ずった声に驚いて振り向いた顔はぎょっとして強張っていたにちがいない。
「そっ……れは……」
「……ちがうのか?」
 するとふてくされたように眉を寄せる。機嫌を損ねてはいけないと考えて慌てて手を振ったのは、染み付いてしまった子分根性めいたもののせいか。
「ち、違わない、たぶん!」
 そう言って薄氷のような色と銀糸織が重なった裾を撫でる。
「さっき指摘されたけど、毎日こんな綺麗な格好はしてないから。……これ、母上が大切なときのためにって置いていたドレスなんだよ、だから……」
「……そうか」
 ああああ、もう! と叫びそうになるのを堪える。
(そんなに嬉しそうにされたらたまには着飾ってもいいかなって思っちゃうじゃないか!)
 普段生真面目な顔をしていて、過去を知る人には恐れられているだけに、笑顔の威力はかなり高い。
 そうしてエルセリスの手は無意識に耳元を触っていた。聖夜にもらった耳飾りは、贈り主の言いつけ通り、外さなければいけないとき以外はずっと着けていた。視線がまた楽しそうにそこに注がれて、そわそわする気持ちを感づかれたくなくて背を向けて話を切り出す。
「それで? 何があったの?」
 おや、と思うような長い間があった。
「父と母と兄に俺たちのことを話した」
 エルセリスは動きを止めた。
 そしてその意味を理解して、真っ赤になって振り返った。
「それって……!」
 オルヴェインは憎らしいほど淡々と告げる。
「近日中に王宮から召喚状が届く。正式な婚約式はまだ先のことになるが、内々定ということで両家を交えて懇親会を催すそうだ」
 ごくんと一度言葉を飲み込んで、言った。
「……それでも、早くない?」
「早いかもな。音頭を取ってるのが兄貴だからな」
「ああー、ああー……!!」
 納得の声をあげてエルセリスは頭を抱えた。
 この後どんな見返りを求められるか、想像ができなくてすでに怖い。
「……それで、お前の許可が欲しい。エルセリス」
 声が急に真剣味以外の緊迫感を帯びたので、手を離して顔を上げる。
 白い息を吐くオルヴェインも顔は、少し赤い。
「俺と結婚してくれ」
 いろんな思いや言葉が渦を巻き、息を吸い込んでは飲み込んだ。
 目の奥から溢れるものがあって、鼻がつんとするのは寒さのせいだけではないだろう。
 どんな反応が可愛らしいものかわからないことに軽く絶望しながら、エルセリスは、こくん、と頷いた。
「はい」
 声が震えて泣きそうだった。もう一度言った。
「はい。――私と結婚してください」
 オルヴェインの顔が一瞬泣きそうに歪んだ。すぐに平静さの裏側に隠れてしまったそれは、彼がいままで抱えてきたいろんな思いが溢れてしまったものだと、エルセリスは胸に焼き付けた。
「それじゃあ、私は何をすればいいのかな?」
「早速事務的な話になって悪いが、召喚状が来ること、伯爵夫妻に伝えておいてくれないか」
「わかった。両親に話しておく」
 求婚されたことに浸るのは後だと切り替えが早かったのは、公職に尽くす身であるせいだっただろう。動揺や思考停止は諸々の滞りを生むのは嫌というほど実感があったのだ。だがそんな可愛げのなさをオルヴェインは笑うことはなかったし、むしろ頼もしそうに目を細めていた。
「頼んだ。さすがに俺の口から言うと、娘を脅したのか、弱みを握っているのかと軽く事件になるからな……」
 遠い目をしていたオルヴェインは口をつぐんだ。
 そっと近付いたエルセリスが、彼の袖口を握って引き、黙ったままそっと胸に頭をもたせかけるように俯いたからだ。
(……このくらいはいいよね? ちょっと触れたいなって思ったの、素直に表現しても受け止めてくれるよね?)
 するとオルヴェインは自らの外套を脱ぎ、エルセリスの肩に着せた。
 顔を上げようとすると、声がした。
「寒いからな」
 エルセリスに腕を回す理由として、外套を着せることを選んだらしい。
 不器用で可愛らしい誤魔化し方にくすりと笑いながらも、その言い訳に乗っかってしばらく寄り添う。
 こんなところ、まだ報告していないのに誰かに見られたら大目玉だな、なんてことも考えながら、どこかその危うさを楽しんでいる自分がいて呆れてしまう。自分はこんな俗物的な人間だっただろうか。
 腕を回されて、ぬくもりの残る外套に包まれていると、冬の大気の冷たさなんて全然気にもならないことが、大発見だった。

 しばらくして屋敷に戻り、お茶でもどうかと言う母に断って、早々にオルヴェインは王宮に帰っていった。
「何のご用事だったの?」
 何も知らない母はのんびり尋ねるが、その目の奥がきらりと光っているのをエルセリスは見逃さなかった。急に高鳴り始めた心臓を抑えつつ、咳払いして言った。
「お茶の準備ができているのならそこでお話しします。父上、母上、どうぞ部屋へ。――心してお聞きください」
 もちろんひと騒ぎあったのは言うまでもない。

 そして数日後エルセリスとオルヴェインの婚約が内々定する。それは封印塔国マリスティリアの幸せな出来事として報じられて人々を大いに湧かせ、封印塔国の多難な恋人たちは『幸せな恋人たち』として、しばし穏やかな日々を過ごすのだった。



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