暖炉から溢れる熱と、流れるピアノの音色が心地よい。
王宮の奥深くにある一家の居住空間、憩いの場として使用している絨毯張りの一室で、揺り椅子に腰掛けて目を閉じている父と母は、アルフリードが奏でる音色に心地よく浸っているようだ。床の上に座ったオルヴェインは、そんな父母の姿を目に焼き付けつつも、一度も運指を誤ることのない兄に呆れと感嘆を半分ずつ抱いていた。
もうすぐ迎える新年では久しぶりに一家が揃うこととなった。副都で療養中だった母は、今回久しぶりに朝賀に出る。体調を慮って午前中の短い時間だけだが、長らく姿を見せなかった王妃が現れるとあってすでに話題になっているらしい。緊張するわ、と本人は笑っていたが、内心ではほっとしている部分もあるだろう。病に倒れて王妃の務めを果たせていなかったことは、心優しいこの人には辛い日々だったはずだ。
その原因のひとつを担ってしまっていたオルヴェインもまた、安堵している。刻まれていた術師の死の呪いは解呪したと思われ、もう命を脅かさない。余命が数年と告げた直後、母が倒れ、父と兄が使ってはいけない伝手を用いて奔走したことを知っている身としては、こうして穏やかに新しい一年を迎えられることは奇跡に等しかった。
(それもこれもエルセリスたちがいてくれたおかげだ)
左手首にしている腕輪を撫でる。聖夜の日に彼女から贈られたものは、すでにオルヴェインの心のよりどころになって、彼女が手を添えてくれるように感じられるものとなっていた。
曲が終わり、余韻をたっぷり味わってから、父母が目を開いた。そこに問題児のオルヴェイン、そして優雅に微笑んでいるアルフリードがいることを確認して、柔らかな表情を浮かべる。
「お粗末様でございました」
「とても素敵だったわ。あなたは本当に、昔から何をやっても上手にこなしてしまうわね」
伸ばされた母の手を取りその甲に口付けたアルフリードは楽しげに笑っている。
「母上の血でしょう」
「なら口達者なのは陛下の血かしら?」
アルフリードは黙り込み、父王は苦笑いしていた。父王が弁の立つ人でないことは一家には周知なので、これは母がアルフリードに「あまり調子のいいことを言うものではありません」と釘を刺したのだ。
(ざまあみろ)
内心で舌を出していたのが悪かったのか。
「口達者なのはオルヴェインの方ではありませんか? 首都に戻ってきてそうも経たぬうちに、贈り物をやりとりするほど親密な相手を作ったようですが」
げっ、とオルヴェインは王子らしからぬ声を上げた。アルフリードが目を細めて浮かべる笑みの意味は、オルヴェインの最近の行動を把握していることからくる自信と揶揄だ。
つまり、誰とどうなって、誰のためにどの店に何を発注し、いつそれを贈ったかということが知られているのだった。
「オルヴェイン。どういうことだ?」
父母に目を向けられ、オルヴェインは呼吸を整えた。ここで動揺しては兄のいいおもちゃにされるだけだと、身にしみて知っているからだ。同時に父の懸念も理解できた。どこのものとも知れぬ女性と関係を持ったのか、その相手は金と権力が目当ての不埒ものではないかと心配しているのだ。
呪いをもらってからの数年は人が変わったと評される(実際変わろうとして変わったのだが)オルヴェインは、それまでの素行が悪徳に満ちたものであったことを自覚していた。地位を危うくするほどの橋を渡ったつもりはないし、綺麗に掃除もしてきたが、一度刻まれた不信は拭いされるものではないだろう。
だが案じる必要はない。相手はこの上なくしっかりした人物だったので、オルヴェインは落ち着いた声で答えた。
「兄上が言うように、信頼と愛情を置く女性がいます。その人と結婚を考えています」
「なっ……ど、どこの誰だ!? お前がマリスティリアの第二王子と知っているのか? そもそもいつの間にそのようなことに」
そんな父王の動揺を収めたのは、母妃の軽やかな笑い声だった。
「ふふふ、陛下、ご心配なさらずとも陛下がよく知っている者ですわ。ねえオルヴェイン?」
嬉しそうな母にしかつめらしく頷く。母は先日首都に戻ってきた際に彼女に会っているし、アルフリードは一部始終を知っているはずなので、わかっていないのは父だけだった。
「誰だ? お前たちはもう知っているのか?」
「ガーディラン伯爵家のエルセリス。ガーディラン聖務官です、父上」
当代の《剣》の聖務官エルセリス・ガーディランの名は、何度も議会に上っているはずだったし、父王自ら、彼女が息子を補佐してくれると見込んで、首都に戻ってきたオルヴェインを典礼官に配置したくらいだった。ゆえにすぐ名前と顔が一致したらしい。「おお」声を漏らし、身を乗り出す。
「ガーディラン伯爵令嬢! なるほど彼女ならば。それで、どうしたのだ?」
「結婚を前提に交際を申し込みました」
「おお。おお……!」
感涙にむせぶ、といった様子で父王は声を詰まらせる。そんな夫を母妃は穏やかに見つめている。
「お前に……あんなに荒れていたお前に、まともな妻がやってこようとは……!」
いったいどんなのを連れてくるのを想像したのか、と聞きたい。しかし不良息子を持った父が感動するほど、エルセリスは身元も性質もしっかりした娘だった。うれし涙を流す父に代わって母が尋ねる。
「ではもう約束は交わしたのね? きちんと了承はいただいたのね?」
俺が無理やり婚約を迫ったであろう可能性を想像しているんだろうなあ、とオルヴェインは己の素行不良を呪った。その気になれば実際にそうしただろうということが自分でもわかっているので殊勝に答えるしかない。
「はい。お許しがいただければ正式に婚約式を、と思っていますが……」
ここでオルヴェインはちらりとアルフリードを見遣った。
「俺も彼女も、兄上に先んじてそのようなことをしていいものか、と心配しております」
すると父母も長子を心配そうに見つめた。
「そうだな。王太子を差し置いて、というのはいささか障りがあるやもしれぬ」
「あなたもお付き合いしている方がいるのではないの、アルフリード?」
「残念ながら。ご期待に添えず申し訳有りません」
秘密主義の兄はそう言って首を振ったが、続く言葉が彼らしかった。
「ですが求婚を受けてくれそうな方には目星をつけておりますので、ご安心ください」
「目星って、兄貴」
思わず素の口調で口を挟んだオルヴェインを、アルフリードは呆れたように眺めやる。
「王妃の仕事を果たしてくれる能力のある女性を伴侶にするのは、王太子の務めだ。私にはマリスティリアを受け継がせるという使命がある。どこかの誰かのように後生大事に初恋を抱いて死ぬつもりはないのだよ」
「ぐ……っ!」
初恋とも呼べない小さな想いを胸の奥に秘めていた、兄に言わせてみれば意外に純情な少年期から青年期を過ごしたオルヴェインだった。
複雑そうな父母と、ぎりぎりと歯を噛んで睨み上げる弟に、アルフリードはふっと表情を和らげて。
「だから私のことは心配しなくていい。それよりもエルセリスのことを考えてやりなさい。このまま婚約もせずにずるずる付き合っているのが周囲に知られると、彼女の品行が疑われてしまうよ。身持ちが悪いなんて噂が立つと、お前と別れた後の彼女が困るじゃないか」
「別れねーし別れる前提で言うな!!」
思わず怒鳴るとやれやれという顔をされた。
(何がやれやれだ、笑顔で煽るだけ煽って楽しんでいるくせに、この笑顔やくざが!)
「では一月以内にガーディラン伯爵家へ使者を立てて、ふたりの婚約や今後のことについて話し合う、ということでよろしいでしょうか?」
「うむ、任せよう。王妃もそれでいいかな?」
「養生してその日を楽しみに待っていますわ」
(……って、待て待て待て! 兄貴が仕切ってるけど大丈夫か!?)
だが優秀な長子を信頼している父母はおっとりと微笑みを交わし合っている。焦って声を上げようとしたオルヴェインだけが、くるりと顔を向けたアルフリードの笑顔を目撃した。
なんと邪悪(たのしそう)な笑顔か!
「何か心配事があるなら言っておくれ。かわいい弟のために兄は心を砕くつもりでいるからね」
「いやそれよりも何を企んでる!?」
「企む? 人聞きの悪い。お前はそういうのが苦手だから代わってやろうと思うだけだよ」
そして急に真剣な、寂しげで静かな顔になって言った。
「いままで助けてやれなかった分、手助けさせてくれ」
オルヴェインは胸を突かれた。
この人は、自分のことを、憎むまでとはいかずとも疎んじているところがあるだろうと思っていた。問題ばかり起こす弟。懐かないどころか手や足を出した上に悪し様に罵るような家族を、この素行のいい優秀な兄は面倒な重荷と思っているだろうと。その印象が変わったのは二年前。術師の呪いを受けて余命いくばくもないと知らせたときだった。卒倒した母と思考を停止した父よりも早く、この人は。
『何かあるはずだ。呪いを解く方法が』
そう言って動いた。遅れて父も動いてくれた。その結果選択した方法が、国を巻き込み私欲にまみれたものだったとしても感謝している。
(兄が国を継ぐというのなら、俺は王(あに)と国に尽くそう。それが国と民に救われた俺の命の使い道だ)
「私のときにはお前が助けてくれ。いいね?」
そう言われれば頷かないわけにはいかない。
「……ああ。わかった」
するとアルフリードが表情を一変させた。
あたかも誓約の神が宿ったかのような、厳粛かつ鬼面のような笑みで「言ったね?」と。
オルヴェインは背筋を総毛立たせたが、もう遅い。誓約は結ばれ、しかも証人としてこの場には父母がいた。
「仲のいい兄弟だこと」
「そうだな」
「あっ、兄貴……っ」
何か言おうにも声が出なかった。アルフリードはオルヴェインの呼び声に気づかないふりをして母に何か弾こうか、何の曲がいいかと尋ねている。嬉しそうな母の前に割って入ることができないまま、背中を冷や汗が伝う。
(俺は何かまずいものと契約したんじゃなかろうか……)
アルフリードは三拍子の曲(ワルツ)を奏で始めた。舞踏会でも使われる有名な曲だ。
典雅なそれを聞きながら、これから何が起こっても、あの兄貴の掌の上では絶対に踊らないぞ、と決意する。
休みが明けたらエルセリスに会いに行こうと思っていたのだが、それだと後手に回りそうだ。年明けの休暇が終わる前に今日の出来事を話しておかないと、と腕を組んで考え込むオルヴェインだったが――はたから見ればそれもまた、平和な家族の一風景に過ぎなかったかもしれない。
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