10. お茶会
城の生活はなんとも閉鎖的だった。男性のいる場所や行政区画にはまったく近付けさせてもらえない。つまり後宮以外の場所はないということだ。逆にそれが平和を醸し出してはいたが、しかしリワム・リラにとって部屋の外は殺伐とした平和以外の場所になってしまった。
部屋の外に出ると、生ゴミが撒き散らされていたり、呪術の紋様が一面に描かれていることがあったのだ。部屋の扉から前の廊下、小さな緑に至るまで悪意に染められ、真っ青になったリワム・リラを心配して女官たちが片付けてくれるのだが嫌がらせは止まらない。一度など死んだ猫が放置されていて、あまりのひどさでさすがに気を失いかけた。
何がそんなに気に入らないのだろう。顔を合わせたことは数えるほどしかないのに。
リワム・リラの憂鬱を気にかけて女官たちは散歩を勧めてくれた。庭の茂みの奥に素敵な東屋を見つけたりめずらしい花樹を見るのは楽しく、心を癒してくれる。
(落ち込んでちゃだめ。人を暗い気分にさせちゃだめ)
優しい風を感じて、暗い気持ちを精一杯振り落として女官たちに笑いかけようと思った。
(落ち込まない。カリス・ルーク様に会えてなくても……)
対面できたら何を言おう。発言をお許し下さるだろうか。目の色を。笑いかけて下さるだろうか。そんな風に期待と不安で破裂しそうな胸を抱いていたのに、まるで紙風船が萎んでいくように、心はくしゃくしゃになって吹き飛ばされようとしていた。
通達はぴったりと途絶えていた。リワム・リラに注意事項を述べただけの侍従はそれきり。
日々は重たい影を落としながら過ぎていく。
ついに耐えかねたらしい誰かから、お茶会の招待状が届いたのはそんな時だった。
封蝋を使った正式なもので、見覚えのある紋章がどこのものか思い出そうと見つめていたが名前はなかなか出て来ず、仕方なしに、また剃刀などが入っていては女官が可哀想なので自分で注意深く開けてみた。小さな薄紙が一枚、薄い色のインクで署名はキール・シェムと流れるような美しい文字。明日午後二時からお茶会をするので出席しないかという内容で、尋ねてはいるが有無を言わさぬ気配があった。
どうしたものか。リワム・リラは気付かれないようそっと息を吐いた。
キール・シェムはこちらを良く思っていないように思う。アン・ヤーとナラ・ルーもだ。嫌な笑い声が蘇って、胸がぐっと痛む。嫌がらせももしかしたら彼女たちが……。
そこまで考えて首を振った。いくらなんでも、仕返しのように彼女たちを悪く思うのはいけない。こちらにも悪いところがあるのだ。
「リワム・リラ様。お手紙です」
また手紙が届けられた。小さく折った紙、オルハ・サイからだ。
お茶会の招待状が来たから私は行くけどあなたはどうする? と丸い文字で尋ねるものだった。
考えた末、オルハ・サイが行くのならと、キール・シェムには出席の旨を、オルハ・サイには自分も行くと返答を頼んだ。
「……よろしいのですか?」
そう不安そうに女官が聞くのは、彼女たちの間で誰それが嫌がらせをしているらしいとまことしやかに囁かれているからだ。他に候補は四人、必然、誰かに限られる。
「大丈夫よ」
はっきりさせないといけないとリワム・リラは拳を握った。
その日は雲一つない晴れた午後で、最も気温が高くなる二時には風があまり吹かず、さすがにリワム・リラも涼しい恰好で出掛けた。
ナリアエルカは雨季と乾季が巡る気候だ。太陽の日射しはきつく、街が集中している砂の多い平らな土地では砂埃で視界が白い時もある。だが王宮には常に緑の木と花があって空気まで清浄されているようだ。
異国人のウィリアム様はナリアエルカの気候には慣れたのかしら、とふと少し心配になったりもした。
通されたキール・シェムの部屋はまるでリワム・リラとは違った。色取り取りでありながら美しく統一された調度品の数々、美しい仕切り布を垂らし、最高級の絨毯を引いて柔らかな座布団を置いた、くつろぎを重視した部屋になっていた。窓から見える外には長椅子が置いてある。自分の、お気に入りの本や庭の花々を飾った部屋は少女の部屋で、キール・シェムの部屋は女性の部屋だ、という感想を抱いた。
アン・ヤーとナラ・ルーがすでに来ていて、リワム・リラは一番下座に着く。
「そんなにかしこまらなくてもよくってよ」
キール・シェムの赤い唇が笑う。アン・ヤーとナラ・ルーも笑っていた。
オルハ・サイが最後にやってきて、キール・シェムの女官がお茶を注いで回った。軽食や菓子が並べられて、キール・シェムの始めましょうかの一言でお茶会が開始された。
お茶は変わった味がした。まろやかで甘い。
「フィルライン産の茶葉ですわね」
オルハ・サイが言った。
「よくお分かりね」
「いつも飲んでいるから」
「あなたはフィルライン贔屓なのね」
何のお茶が好きかという話題から、最近流行のフィルライン風のドレスについて、どこの仕立屋がいいか、誰という職人の刺繍は、などキール・シェムたちはオルハ・サイに次々と質問した。オルハ・サイの答えは淀みなくはきはきとしていて、リワム・リラも聞き入っていた。異国の衣装やレースに関しては興味があったので話を聞いているのは楽しかった。異国の古い衣装は形を整える為にものすごい下着を付けなければならないらしい。
やがて質問が尽きると、今度は後宮の制約の話になった。
「なんて制約の多さなのかしらね。家族以外に面会させてもらえないなんて」
「街にも」
「降りられないのですってね」
「カリス・ルーク様からも」
「全く音沙汰なし」
「一体どうなっているのかしらね」とアン・ヤーとナラ・ルーは声を揃えてため息をついた。
それはリワム・リラも気になっていた。後宮に候補が揃ったというのに全く接触がない。みんなそうだったのだ。男性には誰一人会わず、選抜するような課題も与えられていない。ただ無為に日々を過ごしているだけである。これでは部屋に置かれた美術品だ。
「美術品と同じってわけね」
キール・シェムが艶やかに笑って言ってどきりとした。リワム・リラも考えたその言葉はひどく悪意があるように聞こえたのだ。
「社交界には滅多にお出にならない」
「お出になっても一切踊らないといううわさ……」
「もしかしたら女性に」
「興味がなくていらっしゃるのかも」
「まあ! そんな……」
従姉妹同士の娘たちは楽しげに笑っている。
「わたしたち全員を召し上げるおつもりなのかしら?」
オルハ・サイが何気ない風でそう言った時、ぴりっとしたものが空気を走った。刺すような鋭い呼吸が一瞬聞こえた気がした。
誰ともなしに茶器に口を付け、菓子を摘む。
「……カリス・ルーク様と言えば、あの噂は本当なのかしらね?」
「なんですか?」
甘ったるい声でナラ・ルーが聞く。
「妖術師と知り合いだとか。妖術師の力を借りてナリアエルカを統一なさったと聞いたわ、あたくし」
妖術師。魔術師。
それは魔人と同じものだ。ナリアエルカで蔑まれる者たちの称。
祈祷師や呪師というのが一般的なナリアエルカに魔術を使う者はいない。魔術師たちはすべて異国人で、それだけで敬遠されている。そして何よりも忌まれるのはその力の提供の方法だ。
契約と呼ばれるものを交わし、強大な力を貸す代わりに命を奪う。
それは瞳で命を奪う魔人と大差ない。
「私は魔人の力と聞きましたわ」
「魔人と契約をした……とかなんとか」
ナラ・ルーとアン・ヤーは口々に言ってみせる。よくは知りませんけどねと言い添えた。
「でも本当だとしたら、なんて……」
そう言って口元を覆う。
くすくす笑いが不快な感触を持って届いた。声を上げたかったのにリワム・リラは何も言えなかった。彼女たちの言葉には好奇心と少しばかりの悪意と蔑みがあって、まるでリワム・リラの中の王が踏みにじられていく気がした。だというのに悪意を前にすると固まってしまう。心が硬直して、身体も震えてしまうのだ。
「そういえば……ここにいるみなさまがたはどんな肖像画を送られたの? それから質問にはなんと答えたか教えて下さらない?」
オルハ・サイの声がしてぱっと見た。オルハ・サイはリワム・リラに笑った。話題を逸らしてくれたのだ。一瞬静かになり、キール・シェムが微笑んだ。
「あたくしは普通の肖像画を。質問の答えは秘密にしておきましょう」
謎めいた笑みは妖艶で、それにあやかろうとアン・ヤーとナラ・ルーは笑みを浮かべた。
「私たちは」
「普通のものよ」
「キール・シェム様が仰るなら」
「私たちも秘密ということで」
オルハ・サイがリワム・リラに手を向けた。
「あなたはどうだったの、リワム・リラ? 目の色は金色だったのかしら」
「い、いえ……」
目の色は、黒くした。嘘をついたのだ。
おやという顔を皆はした。
「偽ったわけね」
キール・シェムが嘲って笑う。
「それはちょっと……まずいんじゃない? あなたがここにいる資格はあるのかしら……」
迷うようなオルハ・サイの声に、リワム・リラは自己嫌悪の渦にはまっていった。心が縮こまる。そうだ、本来ならここにいてはならないのだ。
しかしそこでぱっと射したものがあった。いつもそういう時に浮かべていた人の姿。
「でも、ウィリアム・リークッド様が」
キール・シェムが柳眉をひそめた。
「白人の大臣殿が?」
「知り合いなの、あなた」
娘たちがざわめく。
「あの方が、城へ来ないかと」
しん。
場が静まり返り温度が下がった。信じられないという顔をしている。食い入るようにリワム・リラを見つめて。
何だろうと顔をしかめた瞬間にはっとした。これでは自分には後ろ盾があると自慢しているようではないか。
「なるほどねえ」
オルハ・サイが納得したように呟く。
「贔屓なのね」
キール・シェムが見下すように言って、アン・ヤーとナラ・ルーはそれに追従した。
「道理で!」
「あなたのような何も持たない人がここにいられるわけね!」
「何でだろうと不思議だったのよ」
「私たち!」
キール・シェムは美しい笑みを浮かべた。だがそれは悪意のある笑みの中で最上に美しいものだった。
「その不吉な目で幻惑したわけね」
唇を歪め、大きな声で言った。すべてのものに言い聞かせるように。
「女官たちの噂の的よ。庶民の部屋は異臭がするって。女官はみんな幻惑されてどんなことでもやるって」
「!」
まるで代わりのように文句を言いながら励ましてくれる女官、困ったように笑う穏やかな女官の彼女、上手にお茶を淹れてくれる彼女、いつも庭の花を飾ってくれる彼女。
そんな彼女たちを侮辱された。
燃え上がった感情が瞬間的にリワム・リラを突き動かした。
「嫌がらせを止めて下さいませんか!」
机に手を叩き付けた。茶器が震えて音を立てる。
「女官たちが怯えています。片付けてくれる彼女たちに申し訳ないです! それなのに彼女たちを侮辱しないで下さいっ!」
「あら、何を根拠にそう仰るの?」
美しいキール・シェムは哀れみすら浮かべて言ったのだ。
「疑っても構わないけれどね。ただわめくだけならあなたの品位を落とすだけよ。あたくしならそんな遠回しな、無駄なことはしないわ」
そして顎でしゃくった。
「気に入らないのなら出てお行きなさい」
言葉を覆す気がない様子にリワム・リラはいっそう怒りが込み上げた。キール・シェムはリワム・リラの姿を遮断したらしくアン・ヤーに新しい話題を始め、二人が楽しげにそれに答えている。オルハ・サイが気遣わしげに目を向けてくるが目に入らない。その内、キール・シェムは女官にリワム・リラの分の茶器を片付けるよう命じた。
「……失礼します!」
興奮して泣きそうになりながらリワム・リラは部屋を飛び出した。
笑い声が胸に刺さる。あんな悪意を口にして、あんなに楽しげに笑って良いのか。女官たちを侮辱されて、女官たちが精一杯気に掛けてくれるその気持ちに、リワム・リラは何も返してあげられない。
だが部屋に戻る頃には少しは冷静になって、お茶会という席であんなことを言ったのは間違いだったかもと思った。
キール・シェムには詫びの手紙を書き、アン・ヤーとナラ・ルー、オルハ・サイにも不快な思いをさせたことを詫びる手紙を書いた。戻ってきたのはオルハ・サイからだけで、彼女は、気にしないで、今度は二人だけでお茶をしようと書かれてあった。