17. 夢を与えてくれた人
当日。ナーノ・シイに導かれて庭のよく分からないところを通り、こんな道や建物があったのかときょろきょろしているリワム・リラにナーノ・シイは「覚えて頂くことがあるかもしれませんね」と笑って言った。
「今覚えてしまったけれど?」
きょとんとすれば、彼女はいいえと首を振る。
「余計な道も通りましたから、これは覚える必要はありません。この城には隠された道が多いのです。どこの道を通ればすぐに目的の場所へ付けるのか、いつか覚えて頂くかもしれません」
『いつか』。ここでの生活が長くなったりすれば緊急事態に備えてだろうか。真剣な顔で分かったわと頷くと、ナーノ・シイは少し声を立てて笑った。笑われる意味が分からなくて疑問符を浮かべれば、よろしゅうございますよと彼女は言って先を行く。
ウィリアムは建物の開けた場所、中庭の椅子に深く腰掛けてリワム・リラを待っていた。
中庭にぽつんと置かれた一対の椅子は異空間のようだった。例えば絵画のような。ひとつに腰掛けているウィリアムと、ひとつの空席。無意識に目を細めていた。眩しいとは違う、じっと目を凝らして探すような感覚。
立ち止まって息を詰めていると、ナーノ・シイがすっと下がってウィリアムとリワム・リラに礼をし、下がっていった。リワム・リラはそれを見送ると、立ち上がり出迎えるウィリアムにそっと近付いていく。
相変わらず大きな方だった。
「ご機嫌よう、ウィリアム様」
「うん」
返事の後のちょっとした沈黙。自分を見ているのが分かって、わずかに目を伏せて問いかけた。
「あの、どうですか……?」
「ああ、顔色も良くなっている。痩けた頬も元通りになりそうだな」
リワム・リラは瞬いた。尋ねたのは格好のことだったのだが、彼は様子を答えた。なんだかちぐはぐな会話がおかしくて笑みが滲んでくる。それを見てウィリアムも笑ってくれ、そうしてリワム・リラを誘った。
「行こう」
ウィリアムは軽装で、生やした髭と後ろで結んだ金色の髪から、見た目は異国人の船乗りのようだった。物見遊山のような飄々とした雰囲気があるが威厳もある。当てもなくぶらぶらしているようで、こうして歩くのに慣れた様子が感じ取れた。
「どこに行くんですか?」
「うん、歩いて回ろうと思うんだが。実は知り合いと待ち合わせをしているんだ。滅多に会えん奴でな、こういう時に呼び出しやがる」
言葉には親しさが篭もっていて、微笑ましい。
街を二つに分ける大河の前に、円形の広場がある。階段を下りれば大河に入ることができ、そこではこの時は沐浴している人々の姿が見受けられた。広場には知人にあった人々が談笑しており、子どもたちは広くなった場所で駆け回っている。中心の銅像を取り巻いて、笑い声を上げていた。
カリス・ルーク像。
ウィリアムは辺りを見回した。
「まだ来ていないのか。まったく、奴め……」
呟くと、一つだけ出ている屋台に向かう。後に付いていくと、ウィリアムはそこに声をかけた。
「二つ」
「…………あいよ」
無愛想な店主が低い声で答えると、丸いパンをさっと油にくぐらせた。ぱちぱちといい音がする。揚げたパンの脂気をきると、箱に入った白粉の中に落とす。まんべんなくまぶして白くなったそれを、袋に一つずつ入れた。
「ありがとう」
それを受け取ると、もう一つをリワム・リラに手渡した。
「あ、ありがとうございます……」
ウィリアムは早々に大きな口を開けてかぶりついている。
揚げパンは袋越しでも持ち替えなければならないほど熱く、ふーっと息を吹きかけて冷ましながら、そっと口に運んだ。
甘い。白いのは砂糖だと知れた。上等の砂糖らしく、口の中で淡く溶けていく。
「美味いか?」
そう聞く口元周りが白い。髭にまで砂糖がついている。
「お髭にお砂糖がついてますよ!」
子どもみたいだ。食べるのに一生懸命。
「む?」
ウィリアムはぱたぱたと手で払い落とす。それでも取れない頬にそっと手を伸ばした。
「ほら、ここにも」
指先に砂糖が残る。それを見せてほらと笑うと、「む」とウィリアムは唸り、気を付けて揚げパンを口に運び始めた。それでもその二口目でぺろりと平らげてしまう。
「甘いもの、お好きなんですか?」
訊かれたくないことを訊かれた、という顔になった。
「…………………………ああ」
「……その間は、何ですか?」
「………………恥ずかしいだろう」
噴き出すのをこらえるのに精一杯だった。成人男性に、それもかなり年上の人に『可愛い』と言ったら怒られそうだが、本当に微笑ましかった。一番好きな菓子を訊いてもよかったが、代わりに「リッヒェトールの砂糖菓子って一度食べてみたいんですけれど」と言ってみた。答えは「あれは、見るだけでも価値がある」だった。リッヒェトールの砂糖菓子は一日一個の限定生産、販売時間も毎日ばらばらで、幻の菓子と呼ばれている。それにお目にかかれた者はこの大陸で竜に出会えた者くらい稀少だ。こらえきれずに大笑いするところだった。
「こういうのも、たまにはいいだろう」
「はい、とっても」
街へ降りてたくさんの人がいるのを眺めるのは、とても心安らかだった。誰も彼も自由にそれぞれの時間を過ごしている。人々が一つの国の国民であること。根元で繋がっているという安心感は自分だけしかないのかもしれないけれど、それでも、幸福と平和と呼べる気がした。
「城にいる理由は見つかったか?」
リワム・リラは首を振った。
「いいえ。何度もお呼びしようと思ったのに、できませんでした」
「何故だ?」
「多分……」
ウィリアムを見た。青い瞳。異国の空もこんな色なのだろうか。あまりにも力強く、澄みすぎていて見ていられなくて視線を逸らす。
「見つかるのが、怖いのかもしれません……」
自覚すれば、それは罪だ。だからリワム・リラは目を逸らす。考えないようにする。
尋ねられる前に質問をした。
「カリス・ルーク様はどうされていますか? 王妃候補が集められて長いのにまったくお姿を拝見していませんけれど」
続く声は落ちてしまった。
「……私たちに興味がないのでしょうか」
ウィリアムは驚いたようだった。
「別に興味がないわけではないが」
「そうですか……? ただ集めているだけでは、置物と変わらないような気がするんです……」
彼は顔をしかめた。
「嫌い、なのか」
リワム・リラは驚きすぎて目を丸くし、ぶんぶんと首を振る。
「そんな! とんでもない!」
本当にそんなことはないんです、と理解してくれるまで何度も念を押す。
「カリス・ルーク様は……特別、なんです」
「特別」
「はい。ナリアエルカを統一されたことは、私に、夢をくれたから」
夢、とその意味を探るようにウィリアムは呟く。リワム・リラは頷く。そして少し躊躇ったが。
(……大丈夫……)
そっと、心を開いていく。深い傷を隠しながら、口を開く。
「……私の母は、異国人です。私の目を見たらお分かりかと思います」
そこまで言って、息をつく。ウィリアムに目を向け、彼に聞くつもりがないのなら止めようと思っていたがウィリアムはじっと、聞いていた。瞳の色が深くなっている。だから息を吸い込んだ。
「……母は、部族間の争いに利用されていました。原因は目の色です。『人を呪い殺せる【魔女】』を欲しがって、ナリアエルカの一部の部族は争っていました」
そんな一人の人間で争うほどナリアエルカは荒れていた。何が始まりだったのかは分からないがきっかけはささいなことだったのだろう。母の扱いはひどかった。人間を人間とも思わない人間。大嫌いだ。自分にある憎悪という感情は、それだけに向けられていると思っている。
「ご存じですか、ナリアエルカを襲った魔神の伝承を」
金の瞳は魔人のそれ。邪眼と呼ばれ見ただけで魂を奪い人を殺す。魔人はナリアエルカに災いを呼び、死を呼んだ。
ウィリアムは頷く。
「母は戦争の道具に、象徴に担ぎ出されたんです。呪い殺せと言われて、本当に出来ても出来なくても関係がなかった。母は人形でした。誰もみんな、何かが、欲しかったんです」
「何か、とは」
「救い主を」
言葉に出来るのならきっとそれ。
「私にとってそれはカリス・ルーク様でした」
マージ族の父は母を手に入れ第二夫人とした。そうして女の子が生まれ、リワム・リラと名付けられた。数年後母は亡くなり、金色の目を持つ者はその娘だけになる。
「金色の目を持っている赤ん坊を見た時、誰もが思ったそうです」
その乾いた声を、呪わしいものを見た時の声を、リワム・リラは容易に思い浮かべることができる。
「『この子は死を呼ぶ』」
闇の中へその声を落とす。傷に触れないように押し込めて忘れ去る。
「いずれ周りに死を呼ぶと言われてきた私に、カリス・ルーク様は夢を下さった。統一された世界に、金色の目の人間を使ってどうにかしようと思う輩はきっと現れなくなるでしょう?」
話せるところはすべて話した。けれどリワム・リラは知っていた。ウィリアムは、自分の出自や経歴をすべて知っているであろうことを。誰の娘で、何をしてきたのかを。
ウィリアムは黙って聞いている。
リワム・リラと母エーリアは利用されてきた。母親は魔人の瞳を持つというだけで象徴として担ぎ上げようとする部族に狙われ、リワム・リラは死んだ母の代わりに使われた。そして父親は、金色の瞳を商品にしようとしたこともあるのだった。
それでも自身の口から話しておきたかった。きっと受け入れてくれると、祈りを込めて。
今いるのは戦いの時代が終わって立った自由な世界。夢見ていた場所。
今度は目を上げた瞬間に見える光に、声を放った。
「だからカリス・ルーク様は私に夢を与えてくれた方なんです。新しい世界をくれた。これから何があっても、私はあの方が大切なんです」
リワム・リラの言葉はウィリアムに知らせた。カリス・ルークという存在はこの一人の娘の願いと夢を叶えたのだということを。自分を救ったひとりの存在として。そういう『王』の認識があることを、今知らせた。
「あっ、今の話はどうか内密にして下さいね……!」
急に恥ずかしくなって、慌てて照れ笑いしながら唇の前で指を立てた。
すると、ウィリアムは不意に寂しげに微笑んだ。「もし……」と。
「もし……カリス・ルークが、民の声でなく自分の征服欲の為にナリアエルカを統一したのだとしたら、どうする?」
視線を落とし、ぽつりと。その少し怯えにも見える弱い姿に、リワム・リラははっきりと言った。
「例え、カリス・ルーク様がご自身の欲望から統一を果たされたのだとしても」
空。世界は穏やかだ。
自由な空の下にいることを、いつまでも感謝する。
「私にとってあの方は英雄に間違いありません。それだけは絶対、揺るぎない真実なんです」
何があっても。この命が尽きても、太陽が消え去り月が果てても。この心は変わらないとリワム・リラは知っていた。『信じる』のではなく『絶対』である、どのように心が変わっても深く根差す本物の真実。
驚いたようにこちらを見たウィリアムに、笑って頷いた。
「カリス・ルークも」
ふと口をついて出た、という様子で一度口を閉ざしたウィリアムは、やがて穏やかな声で続ける。
「母親と辛い思いをした。異国の血を持つということ、生まれた時の言葉は、祝福にも呪いにもなることを知った」
ばさばさばさ……と蒼穹へ向かう白い鳥の羽音。いつの間にか現れた芸人が、集まった子どもたちに手品を見せている。
「カリス・ルークは、あのまま父の意志を引き継がずに生きることもできた。だがそれをしなかった」
杖が花に変わり、明るい声が弾ける。
「望む声があった。求める者がいた。『カリス・ルーク』の名をすでに英雄として呼ぶ者がいた。ナリアエルカ統一は人々の夢だった。それを叶えることを己の義務とした」
前を見た。強い目。その時の覇王を知っている目。
「その時カリス・ルークは自らを祝福に変えた。民を救う者になった」
銅像のカリス・ルークは大剣を手に前を見据えている。これまでも、これからも、ずっとそうなのだろうと思えた。
「お前も、必ずそれになれる」
不意に、あまりにも突然に与えられた言葉にリワム・リラは息を呑んだ。
「誰かを助けられる者になれ。それは祝福だ。祝福を与えられる者になりなさい」
そして彼は、リワム・リラの心に刻みつけられる、何者にも代え難い微笑みを浮かべたのだ。
「お前の瞳は、誰にでも祝福を投げかける月のようだと、思う」
リワム・リラはたまらず深く頭を垂れた。どうしようもなくて顔を覆う。
(ああ。この人は。本当に)
いつも何かをくれる気がする。
それはすでに祝福に他ならないような気がした。
心をどう表せばいいのか分からなくて。
「……ありがとう……」
泣きたくなるほどの想いはそれだけの言葉にしかならなかった。あとは溢れて溢れて、ただ溢れるだけだった。
――誰かに祝福を与えられる人に、なりたい。
心から、そう思った。何よりも、この人のために。