20. 仄か光る
「本当に久しぶりねえ。もう忘れたかと思ってたわ」
「忘れるものか。お前がしてくれたことを、私は一度も忘れたことがない」
おやまあとリナ・ユンは笑う。「相変わらずね。嬉しいわ」と。
「本当、あの頃が懐かしいわねえ。あんたは武器を取って攻め、あたしたちは酒と色香を持って攻めた」
それが今じゃ、と彼女は肩を竦める。
「あんたはお城に、あたしは場末の酒場に」
「……すまない」
「責めてるんじゃないわよ」
朗らかに、穏やかに笑った。
「居場所ってもんがあるんだ。選ばれた場所、選ばれた役目ってやつが。あたしたちはそれぞれの場所に立った。それだけのこと」
それでも杯の縁をなぞる指は寂しげに見えたのは、自分の傲慢だろうか。もしリナ・ユンの言うように選ばれた場所や役目があるとしたら、彼女が選んだこの場所は彼女の本当の居場所なのだろうか。
そして自分は正しい場所にいるのか。
リナ・ユンが顔を上げた。それはウィリアムが思考に入り込む寸前の絶妙な瞬間で、彼女はすべてを分かって悪戯っぽく言った。
「可愛い子だね。あんたの付き合いにはなかった子だ。ちょっと鈍いけれど、純粋で、世間ずれしてなくて、あんたを真っ直ぐに見てくれる子だと見た」
「……自分の自信がないらしい。だが、周りから嫌がらせを受けても逃げ出さない強い娘だ」
複雑で謝罪しそうになる心を抑えて、転じた話題に少し笑う。
姉を襲った暴漢に金的をくらわせたり、女たちに嫌がらせをするなと怒鳴りつけたり。命を狙われたと思った時にも逃げ出さず、自分の命が狙われていなかったと分かってもすぐに王の心配をしたり。城内を散歩して植物に声をかけて回り、いつも姉に、しかし相手の負担を気遣って出せない手紙を書いている。お気に入りの本は外国の童話で、時々若い女官と一緒に読んでいる。見てはいないがどういう言動をしているのか、ウィリアムは知っていた。
気弱で、優しく、少しばかり神経質で責任感が強く、守る対象があると意外な強さを発揮する。可愛い子だ。あの娘はどんな女性になるだろうか。
『それだけは絶対、揺るぎない真実なんです』
『……ありがとう……』
強さと弱さ。それは人間らしさだ。リワム・リラは可愛い。手の中に舞い降りた小さな小鳥のように、手の平で一生懸命歌っている。真っ直ぐな瞳で信じている。
カリス・ルークを英雄だと言った、リワム・リラの為にあの時願った。
この娘に祝福を。
この小さくか弱い娘に守護を。
純粋な瞳は驚きに見開かれ、まるで代え難いものを手に入れたかのように泣き笑っていたのを見た時、まったく違うというのにあの空が浮かんだ。金の色の優しく厳しい思い出。夕暮れの紅い空に浮かぶ、祝福の月。
「恋愛対象にはならないわけ?」
顔を上げると、リナ・ユンがにやりと笑っていた。楽しんでいる。
ウィリアムは面食らったように眉を上げたが、やがて微笑んだ。
「……どうかな……?」
「リナ・ユン、ちょっと」
従業員の娘が裏から呼ぶので、リナ・ユンは物言いたげな視線を寄越して少し離れる。娘の興奮した声が聞こえてきて、ウィリアムは意識を傾けた。
「早く見に来て! すごいから!」
女店主は今行くと答え、ウィリアムを振り返る。
「『あそこ』で待っててくれる?」
「……『あそこ』に行くのか? 彼女が困ったりしないか」
顔をしかめて聞く。『あそこ』は少々人が多すぎるのだ。それも群がってくる『虫』が。
しかしリナ・ユンは鼻で笑う。
「あんたが好きじゃないだけでしょ。『あそこ』は『腕試し』にはちょうど良いし、あの子なら『虫』が寄ってくるだろうさ。自分がどう見えるかを知るにはうってつけ」
「それがどうだろうと言ってるんだ」
「あの子に自信をやりたいなら多少は我慢しな」
どすの利いた声で言われてウィリアムは黙る。
「『花』に『虫』が寄り付くのが嫌なら、守ってやることだね」
ひらりと裾を翻す様はまるで蝶だった。『花』というほど純粋ではなく、『虫』と呼ぶには艶やかで。
* * *
頬にかかる髪がくすぐったかった。髪はくるくると即席に巻かれて、やせ気味の小さい顔にふんわりとした印象を与える。目元を押さえ込まれて引かれた化粧筆の線は感触として違和感があったが、鏡を見ているとふさわしいもののように見えてきた。化粧してくれた彼女たちの腕が良いのだろう。衣装は鮮やかな青。深い印象を与える、けれど暗いとはいわない青。装飾品は簡素だ。細い鎖が幾連にもなって首もとで不連続に連なった小さな石がちらちら光る。
「あらまあ、綺麗になったじゃないの」
鏡の向こうにリナ・ユンが現れて、リワム・リラは振り向いた。
「あの……」
「見てよ、すっごい自信作なんだけど!」
化粧を施してくれた娘が胸を張る。
「ああ、あんた腕上げたねえ!」
へへと照れ臭そうに笑う娘の隣に、横目で視線を投げかけている娘が映っている。リワム・リラの行動をそっくり真似するのだ。リナ・ユンが鏡越しに笑いかけた。
「どう? 自分で見て」
「すごい、です。皆さん、本当に……あたっ!」
リナ・ユンに小突かれ、涙目になって額を押さえる。
「何言ってるんだかこの子は! あたしたちは力を貸しただけ。綺麗なのはあんたなんだから」
肩を抱いたリナ・ユンはそう言い、別の娘がそっとリワム・リラの腕を取った。髪を梳いてくれた娘だ。
「まず朝を起きたら顔を洗い、髪を梳く」
また別の娘が頭を抱いた。彼女は衣装を選んでくれた。
「自分に似合う色や衣装をよく知ること」
「自分に合った化粧を覚えなさい」と化粧をしてくれた娘。
「風呂で全身を洗ってすすぎ、また髪を梳いて、早めに寝て早めに起きる」
「そして毎日鏡を覗いて、一度は自分に向かって微笑むこと!」
ほら、笑って。娘たちの優しい声が重なる。リワム・リラは笑った。ぎこちなかったけれど、笑顔だった。
そうしてまたリナ・ユンが肩を抱いた。
「誰もがやってる当然のことをきちんとするんだよ。とびっきりの美女になんて突然なれるわけないんだから。俯いてちゃだめだよ。きちんと、胸を張って」
彼女たちの言葉は滑らかで力強い。
「さあ、おいで」
夢を見ているように浮いた足元。連れ出されて、地下へと続く階段を下りることとなった。
「どこへ……?」
「素敵な場所だよ」
薄暗い通路を行き、すると少し広い石造りの通路になっていく。ぽつりぽつりと灯っている明かりが、行く先を少し不安げに照らしている。
先に進むと人がいた。よく見ると壁の色と影に同化した両開きの扉がある。そこを警備しているらしい。正装なのが気になってまじまじと見ていると、その警備はリナ・ユンを見て頷く。
彼女はリワム・リラを扉の前に立たせた。そして、何気なく背中を押したのだ。
「さあ、行っておいで」