21. 心満ちる
さあっと開かれた扉と共に風が吹く。光が広がる。
眩しくて白くなってしまった視界が慣れてくると、そこには夢の世界が広がっていた。
その場所は、二階席まである宮殿の大広間のような場所で、白い彫刻と数多くの灯火できらきらと金色に光り輝いていた。そこにいる人々は、皆あらゆる国や大陸の正装で笑い、話し、異国の舞踏を踊っている。
夢の世界だと思ったのはまるで絵本に出て来る異国の夜会のようだからで、地下にこんな場所がと呆然とする。恐らく、表立っては公表されていない秘密の社交場なのだろう。そのような場所があるというのは、姉と姉の友人たちが話題に上げていたことがある。
「それでは、お楽しみ下さいませ」
「え!」
飛び上がった。振り返ったそこで扉が閉まる。
戻ろうと扉に触れかけて、指が止まる。
何故かここで逃げてはいけない気がした。ここでならば何かが許されるような、錯覚と言えば錯覚だと笑われるかもしれないけれど。自分を忘れてもいいのでは、夢を見ても許されるのでは、とそれらの思いがリワム・リラを振り向かせた。
一歩踏み出す。ベールがふわりと泳ぐのに気を付けながら、誰か見知った人がいないかと目を動かした。けれど、今一番会いたいと思うのはあの大きな大臣殿だった。
だがぱっと目に付いた男性と目が合う。急いで顔を逸らし足早に立ち去る。苦し紛れに向けた先にもこちらを見ている男性たちがいた。慌てて目を逸らした先にも。
(……何かおかしいの?)
まさか瞳の金色に目を付けられて?
くらくらとしてきた。眩暈がして汗が滲む。なのに若い男性がやって来る。爽やかな笑顔で。
だめ、倒れそう、そう思った時、その男性は目の前で立ち止まってにっこりと笑い、優雅に一礼した。
「ご機嫌よう、お嬢さん。お一人ですか? もしよろしければ一曲お相手を」
お相手? 意味が分からず揺れる視界を瞬かせる。異国の背広というそんな洒落た正装をしている彼に、わけが分からずに言葉を探していると背後から、おい、と呼び掛ける声が聞こえた。振り返ると、また違う見たこともないような正装の男性が挑戦的に、リワム・リラの前にいる背広の男性に笑っている。
「君だけのものではないだろう。では次は俺と。良いですね?」
「おやおや、先を越されてしまったな。じゃあその次は僕と踊りましょうね?」
今度はナリアエルカの正装をしたまた新しい男性が現れてリワム・リラを誘う。
踊るという単語を聞いて、ようやく自分が舞踏に誘われていることに気付いた。そうして出来たことは驚いて三人の男性を代わる代わる見ただけで、リワム・リラには分からなかった。一体何が起こっているのか。
「あの……?」
「どうしました?」
「どうして、私にそんなことを?」
純粋な疑問からそんな問いを口にする。すると彼らは揃いも揃ってぽかんとして、目を見張って、参ったなと何故か嬉しそうに笑った。
「あなたが特別美しくて素敵だからですよ」
「………………え?」
リワム・リラの顔の方が、さきほどの彼らよりもいっそう呆然としていた。
「見た瞬間に惹かれてどうしようもなかったのです。あなたとひとときを過ごせたら幸せだろうという」
「僕たちはきっと魅せられてしまったんですよ。まるで魔法にかかったようにね」
魔法という言葉がするりと好意を持って使われたことにも気付かなかった。彼らの柔らかな笑顔と美しい文句は、次の瞬間リワム・リラに恐怖を呼び起こしたのだ。何故なら、それは自分に向けられる言葉ではないと知っていたからだった。
偽物のリワム・リラ。彼女には許されることも真実のリワム・リラには許されない。彼女に向けられる好意は本当に自分のものではない。その差をはっきりと自覚し、この夢を見続けることが恐ろしくなった。
本当のリワム・リラは、誰にも見てもらえない。
「さあ、手を」
「あ……」
差し出された手に後退った。
そうして。
「ご……ごめんなさい!」
背を向けて逃げた。振り向きもせず、前もろくに見ずに踊りの輪を突っ切った。踊る男女とぶつかって踊りを止め、給仕とぶつかって硝子の杯が床で砕ける。心の中で叫んでいた。
(助けて、誰か、本当の私を助けて)
目の前にウィリアムが見えた刹那、もうそこにしかいられないと思った。
真っ直ぐに飛び込んでいったリワム・リラを、ウィリアムはしっかりと抱き留めた。温かな手、大きな身体。
「リワム・リラ?」
安心をくれる優しい声。
「っ…………」
彼が困っているのが手に取るように分かったが、怖くて顔を上げられなかった。出来れば顔を見て欲しくなかった。今の自分は本当の自分じゃない。
「顔を見せてくれ」
一番恐れていることをウィリアムは言う。
「綺麗にしてもらったんじゃないのか?」
「……でも、私じゃありません」
叫ぶ。小さく。悲鳴を。
「本当の私は、人に踊ろうなんて言ってもらえません。今の私は偽物です。今誰かから与えられる好意は本当に私に向けられたものじゃないんです。本当の私は――誰にも見てもらえない」
可哀想な子。哀れで、悲しくて。寂しさで涙が出る。
ウィリアム様だけです、とリワム・リラは微かな声で呟いた。
「ウィリアム様だけが……」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
「……リワム・リラ」
顔を上げなさい、とウィリアムは言う。それは促しつつも強制力があった。そろそろと離れて、ウィリアムの靴を見る。
すると滑り込んできたのはウィリアムの大きな手の平だった。はっとすると両頬に添えられ、顔を上げさせられる。
ウィリアムは目を見張り、破顔一笑した。
「何を言うんだ。ちゃんとお前じゃないか。きらきらと光る綺麗な娘だ」
どんな別の人間になってしまったのかと思ったぞ、と言う彼は本当に嬉しそうだった。
「今のここにいるお前は、お前でなくて誰だと言うんだ? 人は時々によって形を変える。私はその変化を見逃さないように側にいて精一杯見ていないといけないな。ほら、笑ってみろ」
何も出来ずにいると、ほらともう一度促される。
ウィリアムの手の中で、リワム・リラは顔を歪めた。涙が出そうだ。今度は幸福の意味で。
『側にいて精一杯見ていないと』
その一言がこだまする。側にいてくれるのですか。見ていて下さるのですか。
絶対笑えていなかったのに、ウィリアムは笑うのだ。無邪気に。どんなに大切な言葉をいくつもリワム・リラに与えているのか知らずに。
「お前の名前は?」
「……私……」
ウィリアムは笑う。ここに立っているのは誰なのか、その心の中に立っているのは誰かなのか、それをすでに知っている風だった。
彼が触れていてくれるのが、自分でなくて誰なのだろう。
不意にそんな思いが浮かび、胸にすっと力が湧く。
リワム・リラはぐっと涙を呑み込んで、できるかぎりの笑顔を浮かべた。
「私の名前はリワム・リラです。ウィリアム様」
「リワム・リラ。踊ろう」
目の前に手の平。
「ほら」
伸ばした手を引かれる。そこから胸へと温もりが伝わって、何かがぽんと花開いた。
その時、リワム・リラはそれが最初からそこにあったのだと理解した。自覚することが罪であると思ったのに、後悔はどこにもなかった。
* * *
「……あれ……?」
こっそり戻ってきた城の自室。扉の取っ手が濡れていた。手の平を見ると、闇の中で黒く濡れている。
またいつもの嫌がらせかと寂しく笑い部屋に入ったところで、女官たちが慌てたように飛んできた。
「リワム・リラ様! これを……!」
紙を一枚を手渡される。何かの連絡かと思ってよく読んでみて目を剥いた。
「これは」
「城中にばらまかれているみたいです」
女官は泣きそうだ。リワム・リラははっと思い当たり、明かりを持って外に出た。
自分の部屋の扉を遠くから見て、絶句する。壁から扉にかけて、赤いインクで、紙面と同じくこう書かれていた。
『リワム・リラは大臣に色目を使った売女』