第1章 絶望から逃れるために
 

 (ついに魔法を使ってしまった。しかも殿下を攻撃した)
 魔法を封じるために目隠しを施すものだが、それがなかったのはコーディリアが魔法を使ってまで逆らうわけがないとマリスが思い込んでいたからなのだろう。
 運が良かったと思うと同時に、侮られていたのだという実感がひび割れた唇を噛んだ痛みになった。
(これで私の命の保証はなくなった。――捕まったら、殺される)
 気付いていたけれど気付かないふりをしていた、いままでの記憶がコーディリアの心を逆巻く。
(マリス殿下は一度も私を大切に扱おうとしなかった。いずれ結婚して私が世継ぎを産む未来は決して覆ることがないと思い込んで、尊重するのは無駄だと思っていたからだわ。強い魔力を持つだけの私よりも、美しく、才能豊かで、話術の巧みな女性たちがたくさんいて、殿下の望みのままに動くのだもの。そちらと一緒にいる方が快いに決まっている)
 泣きそうに震える息を吐きながら向かうのはエルジュヴィタ伯爵家の屋敷だ。
 未だ状況把握もままならないでいるに違いない王宮の手の者よりも早く、空を駆けてやってきたコーディリアに、厩番が気付いた。
「お、お嬢様!? どうして空から、い、いや! とりあえず旦那様たちを呼んで参ります!」
 年老いた厩番は降り立った途端に崩れ落ちたコーディリアに自分の上着を着せかけてから屋敷に駆け込んでいく。しばらくもしないうちに屋敷内が騒がしくなり、侍女頭とイオンが伯爵夫妻を連れてきた。
「ああ、ああ……! コーディリア!」
「お母様……」
 知らせを聞いてそのまま来たのだろう、両親は室内着に外衣(ローブ)を纏っただけの姿で、汚れるのも厭わず膝を突くとコーディリアを抱きしめた。
「王宮から知らせが来て、あなたがオードリン男爵令嬢に危害を加えようとした咎で拘束されていると聞いたけれど、無事でよかった……ああけれどこんなにやつれてしまって。何もできなくて本当にごめんなさい」
 柔らかい母の腕の温かさにこみ上げるものがあったが、ぐっと堪えて首を振る。
「いいえ。一言でも意義を唱えればお母様やお父様の身が危なくなります。よく我慢してくださいました」
「だがコーディリア。その様子だと、何か強引な手段を用いて戻ってきたのではないか? 何があった?」
 冷静な父に頷き、コーディリアはきっかけとなったレイラとの諍いとマリスとのやり取りを語った。
 王族への批判を軽々しく口にできないでいたもののマリスの言動には行き過ぎたものを感じていたらしく、父は怒りで不愉快そうに眉をひそめ、母は涙ぐんでいる。
「……ですから、ここにいるのは危険です。私の命だけは助かるかもしれませんが伯爵家は取り潰しになる可能性が高いでしょう。お父様、お母様、使用人たちも、いますぐ逃げて」
「そうか。やはり、そうなったか……」
 父伯爵は深々と頷き、瞑目する。
「そうならねばいいと思ってきたがやむを得まい。かねてから準備していた手筈通り、国を出よう」
 魔法を使ったくだりで青ざめた両親は現在差し迫った状況にあるのだと瞬時に理解したようだった。
 何が契機となって破滅に至るのかわからない、それがアルヴァ王国だった。たとえコーディリアが王太子の婚約者という一見して盤石の地位にあっても、賢明な人間なら王家の人々がいかに気まぐれで予期せぬ行動に出るか考えないわけがない。
 伯爵夫妻はコーディリアの教育の傍ら、ごくごく密かに、誰にも気取られないよう、焦ることない地道な積み重ねを経て国外逃亡の手段を整えていた。万が一伯爵家に危険が及んだとき、残された者が少しでも助かるように。
 伯爵の指示を受けて侍女頭は他の使用人たちへ知らせに行く。コーディリアが捕らえられた時点で使用人の大半には暇を出していたらしく、残っているのは腹心の、と言って差し支えのない忠義の厚い者たちばかりだ。
「ごめんなさい、私の軽率な行動のせいで……」
 この国で安らかに暮らすことはもう二度とできないかもしれないのだ。このまま次期王妃を輩出した伯爵家に仕え続けていれば十分な生活ができたものを、コーディリアの限界が彼らを危険に晒してしまう。
 冷たい手で厩番の上着を握り締めていると、震える手をイオンが握ってくれた。
「いいえ、お嬢様。むしろ私たちのためにずっと我慢し続けてくださって本当にありがとうございました」
「イオン……」
「お辛かったですよね。助けて差し上げられなくて、本当にごめんなさい……」
 謝罪を口にするイオンはすでに泣いている。マリスからの呼び出しを受ける度にどんどん表情が硬く強張り、血の気を失っていくコーディリアを見ていたイオンだ。そんな彼女の姿にコーディリアも込み上げ、お互いの顔を隠すようにそっと抱き合った。
 けれど感傷に浸っていられる時間はない。
(まだできることがある。私にしかできないことがある)
 悲しみを振り払うとコーディリアは決然と顔を上げて両親に告げた。
「お父様、お母様。みんなをここに集めてください。私の魔法でエルジュヴィタ領まで送ります」
 遠からず王都の出入りは困難になる。逃げるのが遅れればそれだけ危険が増すのだから、遠く離れた辺境の伯爵領まで一息に移動できれば、恐らく逃げ切ることができるはずだ。
 彼らの無事を祈るだけでは、これまでの忠心に報いることはできない。そう思っての提案だった。
「コーディリア? 何を言っているの? それでは魔法を使うあなたが残ってしまうわ」
 コーディリアはにこりとする。
「魔法を使うには『目で見る』必要がある……もちろん、わかっています。長距離間の移動の魔法は自分自身にはかけられないことも、その代わりに別のものに魔法を使う必要があるけれど、みんなを送った後は魔力切れを起こすであろうことも」
 屋敷に戻ってくるときに空を飛んできたのは長距離移動の魔法は自分には使えないからだ。
 神に近しい力であっても魔法には制約が多い。魔力を持つ人間が多くはないこの時代に、それを実感できる者は少ないけれど。
「残る理由があるんだな? ならば当然、身の安全を確保できる当てがあるな?」
 父の言葉に、コーディリアは力強く頷いた。
「国に残って、マリス殿下の動きに目を光らせておきたいのです。私が歯向かったことで殿下がどんな行動を起こすか予期できません。罪のない領民に制裁を下すわけがないはずだけれど、もしものときは私が止めなければならないと思っています」
「『もしも』なんて言わないで! そんなことのためにあなたを育てたのではないのよ……!」
 泣き崩れそうになる母を抱いた父は言葉もなく薄緑の目でコーディリアに理由を尋ねる。
 あんな男に人生を捧げるのがコーディリアに定められた未来だった。侮り、軽んじられ、粗末に扱われることに我慢ならないと抵抗して逃げ出そうとしているいま、ここに至っても何故国に残ろうとしているのか。その答えは。
「……レイラ・オードリン嬢に言われたのです」
 ――綺麗事を言って実現し得ない未来を語るより、自らの手を汚してみたらいかが?
 叛徒を集めて謀反を起こす、国王やマリスを弑逆する、あるいは他国に祖国を売り飛ばす。この国のために、という呪文を唱える背信行為は、言い換えれば命と引き換えにする救国の手段でもある。
 アルヴァ王国の歴史上一度も成功とならず多くの命が散ったその方法で戦えばいいものを、コーディリアはいずれ王妃になるという状況に甘んじていた。レイラはそれをはっきりと理解していたのだ。
「本当に国を憂い、善き未来を望むなら、もっと早くに行動を起こすべきでした。それがどんな手段であったとしても。だって私は」
 魔力という恵まれた力を持っていながら、決然と行動できなかった私は。
「私は、一瞬たりとてあの方に愛されたことはなかったのですから」
 恋人がいてもいい、知らない女性と恋愛をしても構わない。愛とまでは言わない、せめて一欠片の情を婚約者の私にかけてくれたなら、と願わずにはいられなかったのだ。
(私にはマリス殿下を変えることはできなかった。私のしていたことは、無駄だった)
 そしてこれ以上、虚しく時間を浪費してなるものか。
「元婚約者の最後の責務として、マリス殿下が暴走したときは必ず止めます。……これが罪滅ぼしになるとは思わないけれど、私がこれまで生かされていた意味があるのなら……」
 そこまで言って、また綺麗事で本心を飾っていると気付いて苦笑した。
「……いいえ。結局、意地になっているだけなんです。ここまで踏みにじられてきたのだからこれ以上思う通りにさせてなるものか、とことん抵抗して邪魔をしてやる、それだけです」
 固唾を飲んでいた伯爵夫妻は、肩を竦めて笑う娘をただ抱き寄せた。陰謀渦巻く王宮を渡り歩く術を学ばせ、柔軟な思考と生真面目すぎる責任感を与えたのは他ならぬ自分たちだから、コーディリアが決して意志を曲げることはないと知っていたのだ。
「お父様とお母様が危うくなるので居場所はお知らせしません。どうかお元気で。神鳥の翼の青い風がお二人に吹きますよう」
「お前にも翼の加護を」
「さよならは言わないわ。きっと奇跡が起きるから。あなたは神鳥の青を持つ娘ですもの」
 それが別れの言葉になった。集まった使用人たちが短い時間でかき集めてくれた旅装束や荷物を受け取ったコーディリアは、短く別離の挨拶を交わして青の瞳の魔法を行使する。
 目標地点はエルジュヴィタ伯爵領、恐らくはもう二度と踏むことのない伯爵家の館の庭園。幼い頃身分の垣根なくみんなでお茶会をした思い出のモクレンの花咲く木の下だ。
「青姫様、どうか、どうかご無事で!」
「またお会いできます! きっと!」
 ひとかたまりになってこちらを見つめる父母と使用人たちを見つめる。
 魔法を発動させるその瞬間まで、一人ひとりの顔を心に焼き付けるように。
「リア様!」
 そんなとき、半ば泣き声になったイオンが叫んだ。
「私、絶対に夢を諦めませんから!」
 花嫁衣装。二人でそんな話をしたのはそう古い出来事ではないはずなのに、いまはこんなにも遠い。
 婚約は破談となり、このさき表舞台に戻る見通しが立たないいま、コーディリアに求婚できる人間はこの国にはいないだろう。けれどイオンは彼女の言う『世界一美しい花嫁』となったコーディリアを見ることができると信じているようだった。
 だからコーディリアも高く挙げた手を大きく振った。
「ありがとう! 必ずまた会いましょう!」
 魔力の青い光が渦を巻き、一人、二人と姿が消える。遠く離れた辺境領へ。
 手を振り返すイオンの姿も数秒と経たずに見えなくなり、薄闇に包まれた空の雲を押し上げるように光が膨れて、消えた。残されたのは明かりに乏しい屋敷と、激しい眼痛に襲われて膝をつくコーディリアだけだ。
(倒れている暇はない。早く、移動しなければ)
 さすがにコーディリアの捜索が始まっているはずだ。早々にこの屋敷にやってくるだろう。
(できるだけ遠く、王都からも領地からも離れた場所へ)
 十数名の人間を遠方に移動させる大掛かりな魔法を使っただけあって、魔力は底をつきかけている。どこまで行けるのかはわからないが、魔力切れを起こすまで進むと決めていた。
 ただ魔法の反動で目の痛みがひどく意識が飛びそうだ。吐き気に寒気、身体のどこが痛いのかもわからない。一息つけるところまで逃げ切れるか、それとも意識を失って昏倒する方が先か。
(捕まったら、二度と逃げられない。鎖に繋がれる奴隷のように、道具にされて、使い捨てられる)
 それだけは絶対に嫌だ。その思いがコーディリアを支える。
 残り少ない魔力で再び靴に魔法をかけ、空の道を進む。凍える身体を怒りと悲しみの熱で奮い立たせて、東へ。
 生き延びる、何としても。その思いは、いまも、そしてこれからもコーディリアの行く道を示すのだ。

 王太子マリスへの反逆行為を理由に、コーディリア・エルジュヴィタとの婚約破棄とエルジュヴィタ伯爵家の爵位剥奪が公にされたが、それから一ヶ月、半年、と経っても王家はコーディリアをはじめとした関係者を誰一人として捕縛することができず、それから一年の月日が流れた。



 

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