第2章 北の地の灰髪
 

 春の山嶺は波濤のようだ。天空の青に打ち寄せる大地の波の白。
 太陽が昇り沈むこと、風の強弱、大気の温度、空模様の移り変わりや季節の巡りといった当たり前のものが驚くほど力強く、ときには恐ろしい荒々しさで牙を剥く。住民の信仰心が篤いのも納得だった。美しくも厳しい自然の風景は信心深くはなかったコーディリアに神鳥への信仰と畏怖を呼び起こす。発展した王の都で暮らしていてはわからなかった、この世界を創造した神鳥の大いなる力がこの地には満ちていた。
「アデル」
 強い風に灰色の髪を押さえ、庭で白い息を吐くコーディリアを家主のウルスラが呼ぶ。
 白いものが混じって濃い灰色に見える髪を無造作に編んだ老女は、毛織の肩掛けを巻き付けた格好で、眉間に刻まれた皺をさらに深めるような険しい顔を向けている。
「ぼうっと突っ立ってないで、仕事は済ませたんだろうね? 水やりは? 卵は? 山羊乳は?」
「水やりは終わっています。食材はここに。すみません、今日も景色が綺麗で見惚れてしまっていました」
 コーディリアが抱えた籠のなかには飼っている鶏と山羊からもらったものがある。朝食となるそれらを示して微笑むと、ウルスラはふんと顔を背けた。
「毎日毎日、よく飽きないものだ。見慣れるとどうということもないと思うが、都人にはロジエのような田舎の景色は珍しいということかね」
 ロジエ――アルヴァ王国北部の高地をそう呼ぶ。
 言葉通り興味をなくして背を向けたウルスラに続いて、コーディリアも家に戻る。
 石を積んだ小さな家のなかでは暖炉が燃え、脂と土と草の香りがする。ずいぶん長く外にいたから空気の暖かさにほっと息を漏らすと、暖炉にかけた大鍋の前にかがみ込んでいた白髪の老女が振り返り、優しい微笑みを浮かべた。
「ご苦労様。朝はまだ冷えるでしょう。朝食ができるまで暖炉に当たっておいでなさいな」
「ありがとうございます。つい景色に見入ってしまっていて。ああ、暖かい……」
 ころころと彼女は笑った。
「でしょうね。ウルスラが心配して様子を見に行ったくらいだもの」
「グウェン、適当なことをお言いでないよ。そんなことをお喋りしている暇があったらさっさと手を動かしておくれ。今日は往診の日なんだから時間はいくらあっても足りないとわかっているだろう」
 すぐさまウルスラが不機嫌な声で言い、グウェンはコーディリアに向かって肩を竦める。コーディリアは笑って「お手伝いします」と採ってきた食材を取り出した。
 根菜のスープに、チーズソースをかけたオムレツ。黒パンは硬くなりつつあったので山羊乳にバターと蜂蜜を混ぜたものに漬け込んでおき、代わりに芋を茹でた。
 凝った味付けや盛り付けとは縁遠いが、コーディリアにあてがわれた木製の皿やわずかにへこんだ金属の器でいただく食事は何よりの滋味だ。
「食事が終わったらすぐ往診に回るよ。さっさと支度しないと置いていくからね」
「暖かい格好をしていらっしゃいね。売り物も忘れずに。買い物をして帰るから必要なものを書き出しておいて」
 ウルスラとグウェンに「はい」と返事をして、朝食を終えたコーディリアはすぐに出掛ける準備を始めた。といっても麓の村の雑貨店に卸す薬や刺繍などの手仕事はまとめてあるし、同居人の老女たちが融通してくれるので生活に必要なものはちゃんと揃っている。
 だからここで準備するのは香草茶や匂い袋、日持ちのする焼き菓子など『ちょっとした手土産』の類だ。
 お下がりの赤い毛織の肩掛けを巻き付けて家を出ると、ちょうどウルスラが驢馬と荷車を繋いでいるところだった。彼女は出てきたコーディリアを眩しげに眺めるように目を細めると、後ろから声がした。
「あら、その羽織りものはウルスラの若い頃のものね。素敵、よく似合っているわ」
 後から家を出てきたグウェンがコーディリアの肩掛けを示してにっこりした。
 古薔薇のような深紅に差し色の白で小花を散らした可愛らしい意匠の肩掛けは、年越しの贈り物だと言ってウルスラがくれた古着のなかに入っていたものだ。気品が感じられる一品で、一目見た途端に気に入ってしまい、出掛ける機会があったら使おうと思っていたのだった。
「あの頃は髪も黒くて長くてね、暗い色の服ばかり着ているところにそれを纏うといかにも『魔女』という感じだったのよ。黒い衣装も赤もよく似合うからまた噂が拍車をかけて……」
「あんまりうるさいと荷車に乗せないよ、グウェン。村まで歩いて行きな」
「はいはい、ごめんなさいね」
 厳しい言葉に気を悪くした様子もなグウェンは笑って荷車に乗り込んだ。コーディリアもそれに続くと、御者台に座ったウルスラが手綱を握り、やがて荷車が動き出す。
 石だらけの小道をゆっくりと降っていく。がたがたの車輪で悪路を行くものだから乗り心地はまったくよくない。
 けれどこれが日常なのだと、この一年でコーディリアは学んでいた。
(あの日から、もう一年……)
 猛禽の鳴く声がする頭上を仰ぎ、鳥影を探す。
 ――あの日。全身の痛みと魔力切れに耐えながらコーディリアは王都を逃れた。目指したのは北部、ロジエと呼ばれるこの地だ。
 逃亡先の候補の条件は、エルジュヴィタ伯爵領から遠いこと、そして土地の性質が潜伏に適しているかどうかだった。
 その二つに適したロジエは、王国北部の国境沿いに位置し、過去にあったとある出来事によって魔力が非常に薄くなっている地域なのだった。
 魔力は常に一定に漂っているわけではない。青い色に宿るように、魔力の濃い土地と希薄な土地がある。濃密な魔力に満ちた場所には街ができ、国となって発展する。あるいは聖地として信心深い者たちの本拠地となるのが生命の営みのごく自然な流れだった。
 一方、魔力の薄い土地では様々な損害を被る。不作、天災、疫病の発生。そこに住む者の精神に影響して犯罪率が上がるなどという噂もあった。人が生きていくには向かない不毛の地は、元々がそうであることも、ロジエのように何らかの事件を経た場合もある。
 現在ロジエでの魔法の行使は容易ではない。だがコーディリアのように青い瞳を持つなら多少緩和されるのだ。王宮の追っ手や、万に一つの可能性としてマリスと相対したとき、コーディリアだけが優位に魔法を使える。
 またロジエの領主は現在、暫定的に神殿島になっている。神鳥を信仰する宗教組織が押さえているアルヴァ王国の領土、という中途半端な状態では国法の強権の発動は困難で、王宮から逃れたコーディリアには都合がよかった。
 そうしてロジエを目指したものの、思っていたより魔力が尽きるのが早く、どこかで休息して魔力の回復を待つ必要があった。そこで隠れ場所を探していたのだが、思いがけず見知らぬ若者たちに囲まれてしまった。
「空から落ちてきたのを見た」
 盗賊かと警戒したがそのように口々に言ってコーディリアに来てほしいと懇願する。王宮関係者に通報されることを危ぶんだが、子どもを含んだ集団は跪いて「どうか一緒においでください」と懇願するので、仕方なく彼らの集まりに招かれた。
 彼らの野営にいたのは年齢も性別も、髪や瞳の色も異なる複数の男女だった。青い色の服装に翼を象った装飾品を身に着ける移動民族『流浪の民』を称する人々だ。
 その起源はアルヴァ王国のように魔力を有することに重きを置かれる国々で、青やそれに近しい色の瞳を持たないゆえに、あらゆる権利を奪われて迫害された人々が身を寄せ合ったものだと言われている。だが青を厭うどころか、自分たちこそ純粋に神鳥を信じ鳥のように旅を続ける一族であると自称し、定住地を持たず、止まり木のような野営を繰り返すのだ。
 そんな彼らを誕生の歴史から卑しい人間として扱い、法や規則、暗黙の了解といった平穏よりも己の信条や主義主張に重きを置く態度を疎んじる者は多かった。
 だから巻き込むわけにはいかなかった。逃亡者であるコーディリアと関わったら最後、マリスはこの機会に流浪の民を完全に排除するだろう。
『せっかくお招きいただきましたが、申し訳ありません。これ以上私と関わると皆様にご迷惑がかかります』
 やれ飲み物だ食べ物だ、休んでいけと集う人々にコーディリアは事情を明かした。
 話し終わる頃には先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っていて、王家や貴族がどれほど彼らに不自由を強いているかが見て取れた。
『青の君』
 幾ばくかの休息に感謝を述べて立ち去ろうとするコーディリアを呼び止めたのは、人の輪の外の陰に潜むように座っていた老爺だった。
 その呼びかけは遠ざかっていた喧騒を呼び戻す。だが客人を迎えて浮き足立っていたのとは異なり、各々の視線には驚きと敬意が感じられた。
(『青の君』……?)
 呼び名の意味するものに心当たりがないコーディリアは、戸惑い、突然の居心地に悪さに身動ぎをした。
『青の君よ、どちらへおいでなさる?』
『……ひとまず、北へ』
 遠いところから語りかけるような声に応えると、老爺は深く頷いた。
『風が呼ぶか。ならば送り届けるのが我らの務め』
 そこまで言うと、目を閉じて黙り込んでしまった。どうやら眠ってしまったらしかった。
 聞けば彼はこの一族の長よりも上位の、いわば隠居の身である重鎮らしかった。
 彼の言葉で、流浪の民はコーディリアをまるで神鳥の使いをもてなすように歓迎してくれた。そして宣言通り北の地まで送り、ロジエに住む知己を訪ねるようにと新しい道筋まで示してくれた。
『髪と瞳の色を見せるがよろしい。それで魔女たちは承知する』
 その頃銀の髪は髪粉で染めて灰色になっていたコーディリアが魔女、と呟くと、老爺は底知れない微笑みを浮かべていていた。まるで行けばわかるとでもいうように。
(流浪の民の長はわかっていたのね。彼女たちが私を受け入れてくれるだろうと)
 そうして出会ったのがロジエの山に住む魔女たち――ウルスラとグウェンだ。医師らしい医師のいないこの地方で、魔法を使えないが有能な薬師として人を助けている彼女たちは『魔女』の通り名で知られていた。
 灰色の髪に濃い紫の瞳を持つ、口の悪いウルスラ。白髪に金色の瞳で、話し方も物腰もおっとりしたグウェン。黒と白、性格や生活上の役割も正反対の二人は、コーディリアの突然の来訪にもそれぞれ異なる反応をした。
(突然現れた私を、ウルスラはとても迷惑そうな顔で、グウェンは滅多にないお客だと嬉しそうな顔で迎えてくれたんだったわ。住むところと仕事を探していることを伝えて、髪粉を落として見せると二日経ってから『しばらく置いてやる』と言ってくれて)
 匿ってくれると決めた理由がなんだったのか。聞けていないし、聞いたところで教えてくれそうもないのが悩ましい。いつか教えてくれればいいけれど、果たしてそんな日が来るのかどうか。
「今日はたくさん薬が売れそうね。風邪薬もだけれど、季節の変わり目だから肌荒れや虫害の症状が出る人が多いから。アデルがいてくれるおかげで必要な薬が常備できるのは本当に助かるわ」
 コーディリアが過去のことを思い出していたから、というわけではないだろうけれど、微笑むグウェンから投げかけられた言葉はロジエで得た『仕事』を想起させるものだった。
「それが私の仕事ですから。私の魔力が巡り巡って人を助けていると思うと、やりがいがあります」
 そのくらいしかできない、とコーディリアの微笑はわずかに陰る。
 薬師たちの家の庭は少しばかりの農作物と大量の薬草花で覆われている。ここで収穫したものや近辺で採集したもので薬を作るのだが、寒冷な山地にも関わらず魔力不足に陥っている状態ゆえに作柄は良いとは言えず、必要に応じて他の方法で調達しなければならなかった。
 だがコーディリアには魔力がある。薬草園に魔力を流し込めば、強さによっては冬でも真夏の果実が生育できるのだ。
 薬草の確保は彼女たちの生活に関わる。収入源であると同時に、患者の悩みや苦痛を取り除くための道具でもある薬草を育てる仕事をしてほしい、とこのときばかりはウルスラからも真剣に頭を下げられ、コーディリアは快諾した。
 そうして魔女たちは一年かけて、夏風邪に食あたり、ひどい咳症状など、あらゆる薬を作り、蓄えた。忙しい、疲れたとウルスラがときに不機嫌になるくらいに。
「魔力や魔法をこんな風に役立てられること、お二人には本当に感謝しているんです。私一人ではもう誰かを傷付けることにしか使えませんから」
 魔法を使うとき、それは我が身を守らなければならない場面だと思っていた。捕まりそうになれば逃れるため、襲われたなら抵抗の手段として。きっとコーディリアは自らを脅かす者に攻撃する。
 摩り合わせていた両手に、皺に覆われた細指が触れる。
 コーディリアの手を包み込みつつ叩いて、グウェンは静かに言った。
「あなたみたいにいい子はいない。私はそう思っているわ」
 深く、威厳すら感じられる物言いに目を上げたが、そこにあったのはいつものふわふわとしたグウェンの微笑みだった。
「こんな気難しい二人のおばあさんと一緒に暮らしていて、あなたはわがままを言うどころか、重いものは率先して持ってくれるし、面倒な仕事を優先的に片付けてくれるし、何をするにしても選り好みしないんだもの。いまどき珍しいわよ? 作ってもらったからって苦手な鳥肝料理を完食して卒倒するなんて」
「あ、あれはっ! わ、忘れてください……」
 御者台のウルスラの丸い背中が「く」と笑いの衝動で震えたのが見えて、コーディリアは真っ赤になった。
 食べられない、なんて食材も豊富ではない生活では甘えでしかないと思って、努力してみたのだがやっぱりだめだった。吐き出すまいと堪えたせいか気分を悪くし、丸一日寝込んでしまったのだ。
 グウェンだけでなくウルスラにも笑われ、ひたすら恥じ入っていると、いつの間にか景色に緑が増え、道はなだらかになっていた。
 岩場に足をかけた山羊が風に白髭をそよがせて「べええ」と鳴くのに、コーディリアの唇は情けない形に弧を描く。ロジエの家畜は、家畜と思えないほどしたたかで自由で、コーディリアの情けなさを嘲笑っているみたいだった。



 

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