第3章 遭逢せる者
 

 夢うつつに翼のはためく音を聞いた。
 木漏れ日から降り注ぐ小鳥のような小さなものではない。湖水地方にやってくる渡鳥の類でも。力強く雄大な羽ばたきは一つで嵐を生むだろう。二つで季節が過ぎ去って、三つで命が巡っていく。
(そう、王宮のあの天井画に描かれていた……)
「コーディリアはまだ見つからないのか!」
 安らぎに漂っていた意識は轟いたマリスの声で明瞭になった。
「手を緩めず捜索を続けているのですが、まったく行方が掴めません。もしかしたら、すでに亡くなっているのかもしれません」
「そんなことがあるか! あれはしぶとい女だ。どうやっても心を折らない。どんなに血を流しても心だけはな」
 姿は見えないが、マリスはかなり苛立っていた。感情を逃がすめために足を揺らしており、かつかつという靴音がまったく途切れないのだ。
「どこに隠れている? 協力者は誰だ。俺に歯向かえばどうなるか思い知らせてやる。絶対に逃がさんぞ、コーディリア!」
 吠えたマリスは従者たちに、必ずコーディリアを見つけ出すよう命じている。けれどコーディリアには主人の命を受けた彼らが、青い顔を強張らせながらもマリスを胡乱に見ているのが感じ取れた。
 子どもじみた駄々のように、逃げ出した元婚約者を捕まえろという。王太子がこれでいいものかと疑問を覚え、理想の為政者とはかけ離れているように思えて心が離れつつあるのだ。
 そしてマリスは、コーディリアさえ捕まえられれば名声や人望が以前のように戻ると信じている。
(どれほど時が流れようとも、この方はすべてのものをご自分の都合の良い形でしか見られないのだ)
 絶望に近しい失望に項垂れるコーディリアの耳に、マリスの怒声が届く。
「一刻も早く見つけ出せ! あれは俺のものだ。『――』などに奪われてなるものか!」
 誰の名を叫んだのか。
 聞き取れなかったのは耳元で羽ばたきがしたからだ。途端にそれまで聞こえていたものがみるみる遠くなり、コーディリアの意識はまた静寂を漂い始める。そこへまた、風を生み出す翼の動く音がする。二度。三度。コーディリアを乗せて運ぶ羽音だ。
 翼の色は青。空と海の色の源、万物の始まりの色彩。
(――神鳥)
 神と呼ばれるものの力をすぐ近くに感じていたのに、コーディリアがそうと理解した途端にあっという間に飛び立った。
(待って、いかないで。私を連れて行って)
 言葉はあえかな息となってこぼれ落ちる。するとその気配を感じた何者かの声がした。
「……お目覚めでいらっしゃいますか?」
 こちらを気遣う少女の声にコーディリアは目を覚ましたが、次の瞬間走った目の痛みに歯を食いしばって悲鳴を飲み込んだ。
(……ここは……?)
 辺りは真っ暗だが這わせた手は柔らかな敷布らしきものに触れている。頭を乗せているのは枕で、身体には手触りのいい毛布が何枚も重ねられていた。しかしいくら目を凝らしても全貌が掴めない。困惑していたコーディリアは鼻先を掠めた植物の匂いでやっと気付いた。
(目を隠すように包帯が巻かれている? この匂いは薬、かしら)
 目隠しされた状態なら何も見えなくて当然だ。
 自身の状態は理解したが、ではここはどこで、手当てを施したのは誰なのか。倒れてからどのくらいの時間が経ったのだろう。
 その疑問に答えるように再び声がした。
「あるじ様。目を覚まされたようです」
 若い、十代半ばと思しき少女がコーディリアとは別の方へと呼びかけると、しばらくして静かな足取りで近付いてきた何者かがこちらを覗き込む気配がした。
「……やあ。具合はどうだい?」
(男性!)
 可能性を考えないわけではなかったけれど、異性と知って身を固くしたコーディリアに相手はかすかに苦笑したようだった。
「同意を得ずに治療したことをまずは詫びる。魔力の濫用が負荷となってあのままでは失明するところだったから」
「……いいえ」
 相手を探るあまり返答が短くなるが、恩人にこれでは失礼だと思い当たる。
「助けてくださってありがとうございました。あなたは魔法医、なのでしょうか……?」
 魔力を持つ者は普通の医師にはできないことができる一方、同じ魔力持ちにしか起こり得ない症状に対処する専門家を兼ねている場合が多い。
 けれど返答は「まあ、そうかな」と微妙な調子だ。
「魔法医と名乗ったことはないが似たようなことはできる。すまないが、目の具合を診せてほしい。あまりにひどい状態だったからね」
「いえ、私は」
 異性、それも怪しい人物となると接触を可能な限り避けるよう教育を受けてきた。断りの言葉とともに身を起こそうとしたコーディリアは目の奥に刺すような痛みを感じ、迫り上がる嘔吐感に息を止める。
「失礼、触るよ」
「っ!」
 驚いたせいで吐き気も痛みも吹き飛んだ。
 断りの言葉とともに彼はコーディリアに腕を回し、抱き寄せるようにもたれかからせながら敷き詰めた枕に半身を起こす形で放す。
 触れられても想像していた嫌悪感は覚えなかった。コーディリアを患者と見做した動きだったからだろう。不意の接触にも関わらず義務的に患者を支えて礼儀正しく解放したのだから、滅多に遭遇することのなかった、まっとうな教育を施されて健全に育った人物のように思われた。
 その印象のままの手つきで、彼はコーディリアの目元に触れ、手首をとって脈を診ている。
「まだ痛むようだね。魔力もほとんど回復していない……しばらく目は使わない方がいいな。この状態で魔力が枯渇するようなことがあれば間違いなく目が潰れる」
 魔力切れと同時に目が砕けて血を流すところを想像して、コーディリアはぞっと身を震わせた。
 だが、くす、という笑い声は聞き捨てならなかった。包帯で覆っていても睨まれたことがわかったらしく彼は「すまない」と咳払いをした。
「痛みを感じなくなるまでは目に覆いをして過ごす必要がある。しばらくここで療養するといい。広すぎて行き届かないところはあるだろうけれど、身体を癒やすには静かで適した環境だ」
「それは……困ります。あなたがどこの誰かも、ここがどこかもわからないのに」
 機嫌を損ねないよう慎重に言うと「それもそうだ」と彼は明るく笑った。
「私はアルグフェオス。ここはルジェーラという名の城で、確かいまは『廃城』と呼ばれているんだったかな?」
 彼の声が振り返って遠くなると、その方向から「さようでございます」と先ほどの少女の声がした。近くに控えているのだろう。
 だがコーディリアにはますますわけがわからなかった。
「廃城? 翼公が去って廃墟になった、あの?」
 アルグフェオスは何故かほんの一瞬黙り、ふっと笑った。
「そう。君が倒れていた中庭がある、その城だ。よろしくなさそうな輩がうろついていたから魔力で廃墟に見えるよう偽装していたんだ。私たちが人目につくと騒ぎになって国王にも知られるだろう。王は偏執的な人物のようだから、可能な限り居場所を知られないようにする必要に駆られてね」
 廃城に隠れ住む魔法使い。ますます怪しい自己紹介だが、国王に対して潜伏を余儀なくされる立場となると考えられるのはそう多くはない。
「あなたはもしかして、神殿島の人なの?」
 国内の人間ではない、外国の要人あるいは宗教関係者。翼公の居城だった場所にいる、魔法を使う人間なら可能性が高いのは神殿島の聖職者だとコーディリアは予想した。だとするなら魔法医のようなことができるのにも納得できる。
「神殿島……ああ、アレクオルニスか。そうだよ。以前は島で暮らしていて、半年ほど前にこちらに来たんだ」
 どんな表情をしているかわからないが、物言いは穏やかで発音も綺麗だ。どれほどの魔力の持ち主かはわからないしここまで知り得た情報だけで判断するのは難しいけれど、不届きとは無縁の人物のように思える。だが国王やマリスに比べれば山を駆け回る賊ですら正直者と言えるだろう。
「……せっかくのお申し出だけれど、お断りさせてください。ご親切を無碍にして本当に申し訳ありません。家族が心配していると思うので、帰ります」
 寝台を降りようと動き出したものの、急激に血の気が下がって意識が遠くなった。
 倒れそうになったのを助けてくれたのはすぐ傍らにいたアルグフェオスだ。先ほどよりも強く、しっかりとコーディリアを支えてくれている。意識した途端に大きな手が額に滑り、わずかな冷たさに身が竦んだ。
「悪いけれど、許可できない。熱が上がってきた自覚はあるだろう? 帰る途中で間違いなく力尽きるよ」
「ではあなたの魔法で村まで送ってください。お礼は必ずしますから」
「そうしたいのは山々なんだが、難しい。私の力の行使には制約があるんだ」
 制約、と呟いた声がまるで思考できていないのが明らかだったのだろう、彼はほのかに苦く笑って「難しい話はまた後日に」とコーディリアを寝台に横たえた。
「だから私が君にできるのは療養できる場所と薬の提供くらいだ。どうか自力で帰るとは言わないでほしい。いま魔力を使えば確実に君の元々の視力に影響が出るし、魔力量も減少する。そもそも以前からめちゃくちゃな力の使い方をしているようだが、いったい誰に教わったんだ?」
「いいえ、誰にも師事していません」
 体温が高くなってきたせいで熱くなってきた息を吐きながら首を横に振ろうとしたが、痛みに耐えかねて顔をしかめたコーディリアをアルグフェオスが困ったように見ているのがわかった。
 アルヴァ王国の魔力持ちは大半が貴族で、蝋燭に火を灯したり物を宙に浮かせるくらいがせいぜいだ。例外は王族だが、教師がついているという話は聞いたことがなく、恐らく立太子した者に代々伝えられているのだろう。そうした常識で生まれ育ったただの辺境伯の娘のコーディリアには、魔法の師がつくなんて考え自体が思いも寄らないものだった。
「そうだろうとも。はっきり言うが、君の使い方はひどいものだよ。たとえるなら水を飲むのに水差しではなく川を探しに行くようなものだ。それも目隠しをした状態で」
「そ、そんなに……?」
 どれだけ迂遠なのか。冗談だと笑ってくれると思ったのに返ってきたのは真剣な肯定だ。
「ああ。状態を見るに、これまでも今回と同じような無茶を繰り返しているね? 魔法を多発する度に頭や目の痛みに襲われているはずだ。魔力が尽きるのが妙に早いと思わなかったかい。回復も遅くなっているし以前のように力を溜められなくなっているからだ」
 専門家からすれば瞭然とわかる状態だったらしい。心当たりがあり過ぎて何も言えない。
「君の瞳はいまひび割れた器と同じ、修繕せず手酷く扱っていると取り返しがつかなくなる。君は間違いなく青い翼の祝福を受けた人だ。せっかく恵まれた力を失いたくはないだろう?」
「…………」
「痛みがなくなるまで包帯は外してはいけない。目が見えないからといって魔法を使うのは禁止だ。必要なものは言ってくれれば用意するし、身の回りの世話はアエルがする。ちゃんと療養すると約束できるのなら、私が君の魔法の師になって効率的な力の使い方を教えよう。さて、どうする?」
 もし魔力を失えば、マリスと戦えなくなる。
 次に相対するときコーディリアは必ず勝たなければならない。そのための力を手放すわけにはいかないのだ。
「……わかったわ。言う通りにします」
 決まりだな、とアルグフェオスは優しく笑い、控えていた少女を呼んだ。
「アエル、彼女を頼む」
「かしこまりました、あるじ様」
 そうして立ち去る気配がしたのでコーディリアは慌てて「待って」と声を張り上げた。
「家族に、ロジエの魔女たちに私の無事を知らせてください。すぐに戻ると言ったのにこんなことになってしまって……今頃青筋を立てて怒っているわ」
「わかった。名前は?」
「ウルスラとグウェンです」
 彼はまるで可愛らしいものを前にしたかのように小さく吹き出した。
「それも大事だが、君の名を」
 顔も首も、なんなら胸元までかっと熱くなったのは高熱のせいだけではない。だから反射的に名乗ってしまった。
「コーディリア。コーディリアと申します」
「ウルスラとグウェンに無事を伝えて、できれば伝言をもらえるよう手配しよう、コーディリア」
 久しく呼ばれていない名は顔も知らない男性の優しい声に包まれて、コーディリアの心をとくんと叩く。
「薬を飲んで、少し眠るといい。目が覚めた頃にはまた少し楽になっているはずだから」
 少女に薬の手配をさせると彼は静かに離れていく。
「青い翼が君の夢を守るだろう。だから安心しておやすみ」
 触れられてもいない、魔法を使われたわけでもない。なのにその一言がコーディリアを包み込み、深い眠りへ誘う。強い眠気に半ば朦朧としながらアエルに渡された苦い薬を飲んで横になると、あっという間に意識が落ちた。
 その夢のなかでコーディリアは青い鳥の姿を見たような気がした。その傍らに背の高い男性が立っていたようにも思うけれど、深い眠りに落ちる最中のことでさだかではない。



 

    NEXT>>
<<BACK    


> MENU <


INDEX