第3章 翼の予感
 

 野の花を思わせる青い香りがした。
 話を聞きながら彼女のことを考えていたせいかと思ったアルグフェオスだが、そうではないと気付いて視線を上げた。報告を行っていたカリトーが不審そうに眉を寄せる。
「いかがされましたか?」
「いま、そこにいた」
 じっと周囲を探って、確信を得た。
「はい?」と意味がわかっていないカリトーとは対照的に、傍らに立っていたレアスが変わりきっていない高い声で言う。
「先ほど話されていた方ですか?」
「うん。近くで様子を見ていたようだ。魔法は使わないように言ってあるんだが、何かあったのかな」
 席を立つと「お供します」とレアスが言い、当然カリトーもついてきた。
「魔力の酷使で目を痛めて治療中なんだ。君たちの紹介は日を改めるから、声をかけるのは次の機会にしてくれ」
「そうでしたか。具合はよろしいのですか?」
「順調に回復しているよ。そろそろ包帯を取ってもいいぐらいだ。魔法を使うくらいなら十分に休めたのだろうし、明日にでもそう伝えてもいいかもしれないな」
 ただし無理はしないよう、しっかり言い聞かせる必要がある。コーディリアはどうも、自身の負担をかなり低く見積もり、他者のそれを必要以上に重く捉える傾向にあるようだったから。
「倒れていたとき、彼女は苦悶の表情で涙を流していた。ひどく痛んだだろうに、恐らくそれを何度も繰り返してきたんだ。強い人だよ。悲しいくらいに……」
 呟いたとき、カリトーがなんとも言えない顔をしているのが目に入る。
「どうした?」
「主様の情の深さは存じておりますが、そのように言わしめる女性がどのような方なのか、非常に気になってまいりました」
 アルグフェオスはうん? と首を捻った。いつもと違うことを言っているつもりはないのだが、カリトーにはそのように感じられるらしい。ではレアスは、と静かに佇む彼を見ると、淡い微笑と頷きが返ってきた。
(そんなにわかりやすいつもりはないんだが、羽子たちには明らかなのか)
 中庭にやってくると、どこからともなくアエルが現れた。
「あるじ様。カリトーとレアスも。どうかされましたか?」
「コーディリアを探しにきたんだ。アエル、彼女に何かおかしな様子はなかっただろうか?」
「コーディリア様なら祈りの木の下にいらっしゃいます。私はずっとここにおりますが、特に変わったご様子は見受けられません。あの、何かありましたか?」
 不安そうにこちらとあちらを見比べるアエルに、アルグフェオスは「それならいい」と微笑んだ。
「魔法を使った気配を感じたから、無理をしたんじゃないかと思ったんだ。苦しんでいるわけでないなら問題ない。いつもありがとう、おかげで彼女もずいぶん快くなったようだよ」
「恐れ入ります。コーディリア様がお元気になっていくのは私も嬉しいです」
 アエルは喜びに頬を染めて一礼する。アルグフェオスとは違い、常にコーディリアの近くに控えて介助するからかかなり彼女を好ましく思うようになったらしい。
 けれど気持ちはわかる。コーディリアの言動や立ち居振る舞いは、過剰に卑屈でもなければ驕りもない心地よさすら感じられる自然体だ。話してみると話題が尽きず、様々な物事に興味関心を抱いているのがわかる。実際好奇心は旺盛のようで、詮索は控えたいが色々と知りたいことがあってそわそわしているのが見ていてわかる。
 そのように子どもめいた部分もあれば、気高さを漂わせた貴人でしかないときもあった。椅子に腰掛けてぼんやりと物思いに耽る姿は、背筋が伸びつつもたおやかで、常に衆目を意識してこなければ身に付くことのない居住まいだと思った。
 そんな彼女が、声をかけた途端に親愛と優愛を込めた華やいだ微笑で応じてくれるのだ――他ならぬ自分に。
 そのとき生じる小さな熱は、遠からず風に煽られるように大きく燃え上がるだろう。
「主様。コーディリア嬢に祈りの木を任せているのですか?」
 だがいまはまだ。思うだけで揺らめく熱から意識を逸らし、アルグフェオスは答えた。
「そうだよ、カリトー。木を目覚めさせるために魔力を注いでもらっている」
 このルジェーラ城の圏域の魔力の中心部が祈りの木だ。
 枯れたようにいまは石化している中庭のあの白い木は、翼公が正しく機能しているときには祈りの塔の役割も果たす。生きとし生けるものが命をまっとうするためにもたらされる力を集め循環させる環として、この城の何よりも重んじられる要だ。
 先代が去って後、石と化して眠りについた木を揺り起こすためには魔力を注がなければならない。錆び付いた歯車の汚れを落とすように、水路を塞ぐ泥を取り除くように。
 その魔力を流し込む作業をコーディリアに頼んだ。目覚めだけを願う彼女の純粋な魔力は、アレクオルニスの巫女たちに何一つ劣らず、強く優しく、そして美しい。
 木が見えるところまでやってくると、根元に彼女が座り込んでいるのがわかった。魔法を使って視力を上げてみると、膝を抱えた姿勢で身動ぎ一つしない。どうやら眠っているらしい。
(無自覚にこちらへ意識を飛ばしてきたのか?)
 何をどこまで見聞きしたのかは直接聞かねばわからない。もし無意識下の魔法なのだとしたら夢を見ていたように思うだろうし、覚えていない可能性もある。どことなく悲しみを堪えているように見えるのが気にかかったが、ここに来た頃の彼女が上手く眠れていないとアエルから聞いていただけに、安眠を妨げたくない。
「仕事の邪魔をしたくないし、部屋に戻って先ほどの話の続きをしようか」
 アエルには見守ってくれるように頼もうと思い、アルグフェオスは踵を返す。
「主様がそう仰せなら。しかしあの姿勢ではお顔が見えず、非常に残念です」
 本当に残念そうに言うカリトーは無骨者と自己紹介するせいか美しいものや可愛らしいものに目がない。きっと気に入ることだろうと想像しながらアルグフェオスは「コーディリアは綺麗な人だよ」と笑ったが、ずいぶん自慢げな物言いになったことに気が付いて、彼らに見えないところで微苦笑を浮かべた。
(ひどく傷付いていた鳥を見つけ、折れた翼が癒えるように見守ってきた。そうしていま鳥は美しい姿を取り戻しつつある。嬉しくないわけがない)
 その目がまことに癒えた日が待ち遠しくも恐ろしい。自分を映したとき彼女の瞳にあるものが何なのか、確かめなければならないのだ。
「早々にお迎えする準備をせねばなりませんな。弟子というなら師に話を通す必要がありましょう。使者役は私にお任せください。快く送り出していただけるよう、説得に力を尽くす所存です」
「気が早いな」
 まだ打診すらしていない、受けてもらえるかもわからないのだと言って振り返ったさきに、中庭で眠るコーディリアがいる。
 その翼を閉じてここに。
 空よりも風よりも、この手を。
 空を行く鳥の自由な美しさを知るから、ずっと伝えずにいた。
「彼女は誰のものでもない――いまのところは、だが」
 だがそれを理解できるはずの羽子たちは、こちらの心情を知らぬがゆえに口々に「お早く行動なさいませ」と言い立てて、アルグフェオスを苦笑いさせたのだった。



 

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