第4章 罪と贖いの羽ばたき
 

 気持ちのいい陽気の朝だ。
 目覚めたコーディリアは太陽の光や大気の温もりを感じ、感じられることに驚きながらはっきりした意識で起き上がって包帯で覆っていた目に触れた。
(……なんだろう、すごく……調子がいい?)
 ぼんやり感じていた不調が消え失せている。『調子がいい』という言葉で片付けるのは違う気もするけれど、五感が前日に比べて格段に強くなっている。行く手を覆う霧が突然晴れたような、爽快感にも似た身の軽さに、何故こんなに突然、と不思議に思う。
(……アルグフェオスに知らせなければならないわね)
 図らずも盗み聞きになった前日のことを思うと少々気が重いけれど、報告を怠ったときが怖いので避けるのは不可能だ。それにもし回復に至ったという診断が下ったなら帰宅の相談を持ちかける機会にもなるのだから、そう悪いことではない。きっと。恐らく。
「おはようございます。コーディリア様」
 起き出した気配を察したアエルが寝台を覗き込んで挨拶をしてくれる。
(……ん?)
「おはよう」と返しながらコーディリアは一瞬首を捻る。
「コーディリア様? どうされました?」
「……なんでもない、と思うわ。おはよう、アエル。今日はいい天気かしら?」
「はい、とてもよく晴れていて気持ちのいい空ですよ」
 微笑する声にコーディリアも笑みを返したが、やっぱりなんだか妙な感覚が消えない。
 何がおかしいのか考えながら寝台を下りようとしたとき、目の前に彼女が立つ気配を感じた。
「コーディリア様、もしかして今日はとても調子がよろしいのではありませんか?」
 驚いて顔を上げる。
「わかるの?」
「やっぱり。ええ、コーディリア様に青い力が満ち満ちているのがわかります。少し目を拝見させてください」
 え、と戸惑うコーディリアの目元に、伸びた指先が包帯越しに触れる。途端に彼女は嬉しそうな声をこぼした。
「しっかり治療を受けて療養されたのが効いたのですね。もう覆いは必要ありません。外しますね」
「え? え、えっ!? ちょ、アルグフェオスには」
 言っている間に留め具が外されてするすると覆いが解かれていく。アルグフェオスに許可は取ったのかを尋ねるよりも早く、みるみる視界が明るく広がっていくせいでどうしたらいいかわからない。そうして最後の一巻きがはらりと落ちようとする瞬間。
「あ、あなた――誰なの!?」
 これではいけないという思いがとっさに口走らせたのは、目覚めてから覚えていた違和感だった。
 挨拶の声、呼びかけ方、近付いてくる足音、どれもアエルだと感じても仕方がないほどよく似ていて、なのに何かが違う。
(アエルじゃない)
 包帯が落ちる。視界がコーディリアに戻ってくる。
 そこに立つのが何者か見極めようとしたとき、激しい勢いで扉が開け放たれ、駆け込んできた少女の声がした。
「ああやっぱり! レアスっ! コーディリア様から離れなさぁああい!」
 久方ぶりに真っ直ぐ捉える光でちかちかと眩む目をなんとか開いてよく見てみると、そこには鏡写しのような二人の姿があった。
 長く伸ばした黒い髪を高い位置で一つに結えている少女は、紺色の生地で仕立てた簡素なドレスを着て、幅広の灰色の帯で腰を締めている。少女に詰め寄られているもう一方は、髪は首元で一つに縛り、真っ直ぐな形の黒装束にこちらも灰地の幅広帯を合わせている。恐らくこれがお仕着せなのだろう。十代と思しき顔つきはどちらもよく似て幼い印象で、特徴的な大きな瞳は金色だ。溌剌としたそれを険悪にしているのがアエル、困ったように微笑しているのが彼女が呼ぶ「レアス」らしい。
「あるじ様が呼んでいるって嘘までついてコーディリア様に悪さしようだなんて! 治療中なのに包帯を取っちゃだめでしょう!?」
「もう回復しているから大丈夫。これは私の魔法医としての見立てだよ」
「だからってあるじ様の許可なく」
「アエル、コーディリア様が驚いていらっしゃるよ。私は出ているから、ご支度を手伝って差し上げて」
 二つの金の視線がコーディリアを見て、アエルの眉がへにょんと下がる。「落ち着いてからお詫びとご挨拶をさせてください」と言ってレアスが去り、しばらくしても動かない彼女に半ば苦笑して声をかけた。
「あなたがアエルなのね。想像していたよりずっと可愛らしくて、嬉しいわ」
「…………コーディリア様ぁ……!」
 膝の上で泣き崩れたアエルをしばらく慰める。何がそんなに悲しいか聞いてみると、コーディリアが包帯を取るのを楽しみにしていたのにレアスに横取りされてとてつもなく悔しかったらしい。
「最初にあるじ様をご覧になっていただきたかったのに……レアスったら……」
 本当に腹が立ったらしいアエルは泣き言とレアスへの文句を言い続けている。コーディリアは洗顔を終えた顔を拭く布で堪えきれない笑いを隠しつつ、明るい室内をよく見てみた。
 薄水色を基調に白い家具で統一された内装は、清潔感がありつつも上品で好ましい。壁の高いところには銀の箔で多角の星模様があり、場所によってきらきらと本物の星々のように静かに輝いて見えるのだった。毎日横になっていた天蓋付きの寝台や、座っていた長椅子やもたれていた枕なども、触り心地で想像していた以上に美しい青や銀、白で刺繍などの飾りが施されている。
「どうなさいました?」
「本当にお城なのねと思って」
 アエルにはぴんと来なかったようだが、我ながら妙な感想だと思いつつ口にしてみてしっくりきた。
 見えずにいたからまったく別の、それこそ神鳥の一族の住む島にいると言われても納得できてしまいそうな現実感のなさだったが、コーディリアの目に映るのは幾分か古い様式を思わせる調度や装飾の数々で、ああすべて現実だったのだとやっと認識したのだった。
「本日のお召し物はこちらをどうぞ」
 しずしずと運ばれてきたのは春空色のドレスだ。だがとても部屋着とは呼べない、かなり凝った形をしている。コーディリアが何か言う前にアエルがにっこりした。
「アレクオルニスで作った服を着てみたいと仰っていたでしょう?」
「神殿島の!?」
 許しをもらって触れれば以前感じた不思議な手触りと同じで、目に映してみるとそれが優れて美しく特別なものだとわかる。まるで紡いだ糸を織った布に薄い表層があり、その下に数多の星々を閉じ込めたようだ。癒えたばかりのコーディリアの瞳にも優しい輝きだった。
「確かに機会があればとは言ったけれど、本当に、いいの?」
「もちろんです。そのためにあるじ様が準備されたのですから」
 アルグフェオスが、と呟いたコーディリアの胸はとくりと小さくきらめく鼓動を打つ。
 コーディリアは着慣れずともアエルには当然ながら馴染みのもので、腕から大きく垂れ下がる不思議な袖も、刺繍で硬く重くなった胴着のような帯もてきぱきと着付けてくれた。
 身体の線を描きつつ流れ落ちるように裾広がりになる型のドレスだ。大きく開いた鎖骨周りはレースで飾って艶やかに肌を出しつつ、袖口にかけて薄雲のように白く濃くなった白布に変化し、きゅっと窄まって手首を覆うので露出を抑えている。上身頃はそのように白を強調しつつ、裾に向かって緩やかに春の空の色へと移り変わっていくよう染められていた。それを引き締めるのは真っ青な帯だ。同色の糸で大振りの花を刺し、銀の留め具が装飾となっているさりげない華麗さがなんとも素敵だった。
「お髪はそのままにしておきましょう。薄い被り布を着けるのでせっかくの髪が隠れてしまいますから」
 薄く化粧をした後に髪を梳られるが、肩に当たる感触が落ち着かない。いつもはきっちり編んで隙なくまとめていたのに下ろしていると悪いことをしているような気分になる。だがアエルの提案を無碍にするには高揚感が邪魔をして、堪えるみたいに裾から覗く美しい靴をじっと観察してそのことを考えないように努める。
 銀の靴には透明な飾り珠と小さな真珠を縫い付けてある。星のようでもあったし雨の雫を集めたようでもあった。少し踵が高くなっているが履きやすい靴で、これにも神殿島の技術と魔法が込められているのだと思われた。
 時間をかけて艶を出した髪に花飾りの留め具で被り布を着けて垂らす。
「ああ本当に、なんてお美しいんでしょう。コーディリア様、とっても素敵です!」
 アエルに連れられて隅にあった姿見を覗き込んだコーディリアも別人になったような仕上がりに思わず目を見張った。
(髪を下ろすとこんなに印象が変わるのね……)
 きついと言われた顔や気味が悪いと遠ざけられた銀の髪や青い目は、こうして見るとそれほど悪いものでもないように思える。きっとドレスが風変わりな意匠だからだ。ほんのりと嬉しげに綻ぶ表情が我ながらくすぐったい。
 アエルに呼ばれて戻ってきたレアスも、彼女とそっくりな顔によく似た驚きを浮かべて頷いた。
「これは想像以上だ……」
「でしょう? アレクオルニスにいるどの巫女様にも劣らないわ」
「あの、二人とも。あまり褒められると居心地が悪いから……」
 綺麗だと思ってくれているのはわかったからその辺りで止めてほしい。過分な評価に、不相応な自信をつけてしまいそうで怖かった。
 かしこまりましたとそっくり頷いた二人だったが、レアスが一歩進み出て一礼した。
「改めまして。お初にお目にかかります。レアスと申します。アエルがお世話になっております」
「双子の弟なんです。あるじ様の補佐を務めております」
 こちらこそ、と挨拶をする。つくづくと眺めた二人は性別不詳だ。説明してもらわなければレアスを少女だと思っただろうし、アエルは服装を変えてしまうと少年と勘違いしてしまいそうだった。
「よろしければ、あるじ様にお姿を見せて差し上げてくださいませんか? きっとお喜びになられると思うんです」
「私からもお願いします。ご衣装を準備した甲斐があったと喜ばれるに違いありませんもの」
 どきっと高鳴った鼓動が、とくとくと期待に速まっていく。
 アルグフェオス。まだ顔を知らない彼に、この姿を見せたなら何と言ってくれるだろう?
「……そう、ね。私も、お礼を言いたいわ。何気なく言ったことを叶えてくれたんだもの」
 では早速、と双子の案内で部屋を出た。心なしか二人も浮き足立っている。並んで歩きながら小声で何かを言い交わし、理解し合っている様子で微笑み合っているのは何とも心和む眺めだ。
 ふと、光が射す窓を見遣る。
 外に面した大窓が並ぶ廊下を歩いていてもあの夜の廃城の風景とはまったく重ならない。床にはふかりとした濃い青の絨毯が敷かれ、壁紙は破れも染みもなく、燦々と差し込む光で満たされている中を歩いていると、自分がどこかの王城に招かれた賓客のように思われる。
(そう、まるで夢の光景)
 遠い島の衣装を纏い、招いてくれた知人に挨拶に向かっている、そんな夢を見ている気がする。
 建物を出て棟と棟を繋ぐ小道に出る。
 外はすっかり春だった。空は柔らかな色に、緑は青々と芽吹き、心地よくも時折戯れのように強くなる風が眩い世界を歩むコーディリアの被り布をさらおうとする。やはりまだ明るさに目が慣れず、しっかり布を下ろして光を防いでおく。痛みで赤くなった目を見られれば、せっかくの装いはお説教の前に霞んでしまうだろう。
「あるじ様はこの先の中庭にいらっしゃいます」
「私たちはここで待機しておりますので、何かございましたらお呼びください」
 建物の下を潜り抜ける円弧状の通路の前、揃って会釈した彼女たちに頷いてコーディリアは中庭へと一人足を進めた。記憶の通りならばこれまで来たのは毎日のようにアエルに案内してもらった経路で、目指すのはあの石の木のある庭だ。
 暗く陰った通路はひんやりと冷たく、ここだけわずかに冬の気配が頼りなげに漂っている気がした。
 汚れないよう長い裾を冷えた指先で摘み、しずしずと行く。
 この先にアルグフェオスがいる。
 ――ああけれど、きっと青い彼の瞳に蔑まれてしまったら今度こそ心が散り散りに砕けてしまう。
 通路が終わる。頭上から射す光に目を細め、歩調を緩めながら慎重に進むコーディリアを春風が包み込む。現れたところを待ち伏せしていたような風は、あっという間に被り布を奪う。
「あっ!?」
 吹き飛ばされかけて慌てて押さえた、その声を聞きつけて振り返るその人の姿を捉えて呆然とするコーディリアの手から薄布がさらわれていった。



 

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