第4章 青天の翼公
 

 若緑の下生えに覆われた中庭に立つ白い木の下に背の高い、青い色を持つ男性の姿があった。
 美しい人だった。顔かたちも佇まいも、まとう気配も。そしてその身に宿した祝福の色が何よりも。
(……青い、髪……)
 ――瞳は青。長く伸ばした髪もまた、力強さすら感じられる美麗な青天色だった。
 切長の瞳をわずかに見張っていた彼は慎重な足取りでこちらにやってきて、髪色と同じ青色の目を、まるで待ち望んでいたものを前にしたかのように緩やかに細めた。
「――こら。ちゃんと布を被りなさい。また目を痛めてしまいたくなければね」
 だが飛び出したのはそんな注意で、どこからともなく取り戻した被り布をコーディリアの目前に引き下げる。保護者のような言動に反射的にごめんなさいと言いかけて、そうじゃないと首を振った。
 さらりとこぼれ落ちる青い髪がやはり目を惹く。目の前に立ってみてわかる広い肩幅、太い首、厚みのある胸元。けれど紺地の襟を合わせる独特の衣服に包まれた身体は細く見える。微笑む顔は甘く優しいが、表情がなければ恐ろしさすら感じられると想像できるくらいの美貌だ。うっすら青みがかった肌が温かい証拠に、コーディリアの乱れた髪を整える爪先は花のように淡く色づいている。
「アルグフェオス、なのよね……?」
「ああ、そうだよ。着てみたいと言っていた服の着心地はどうかな。とても綺麗だ。よく似合っている」
 麗しい微笑を浮かべる彼が少し首を傾けただけで青い髪がさらさらと輝く。あまりにも綺麗で、だからこそ信じられない。
「あなた、髪が青いわ……」
「これかい? 魔力の影響らしい。生まれたときはもう少し黒かったらしいが、いつの間にかこんなに青くなってしまったんだ。珍しいからと好きに髪も切らせてもらえなくて、すごく困っているんだよ」
 やれやれとため息をつかれるが「当たり前でしょう!」と叫びたかった。
 魔力は青い色を帯びる。ならば髪にその色が現れた彼は特別に強い魔力の持ち主で、それを髪の一筋であっても損なうなんてとんでもないと思われても仕方がないのだ。コーディリアも青い髪の持ち主がいるなんて想像したことがなかった。できなかったと言ってもいい。それほどの魔力を持つ人間がこの世にいるとは。
 そこで思い至る。それほどの力を宿す『人間』はいない。けれど、神鳥の力を宿す特別な一族が存在する。
「――翼公?」
 アルグフェオスの笑みが一段と深くなり、コーディリアはかっと頭に血が昇るのを感じた。
「あなた、わかっていて……!」
「黙っていて悪かった。知らないならそのまま別れた方がいいと思ったんだ。姿も記憶も魔法を使えばいくらでも誤魔化しが効くからね」
 けれどそうしない理由ができたということだ。
 理解しながらもコーディリアの眉は高ぶる感情にぴくぴくと震える。たとえ騙されていても構わないと思っていたけれどよりにもよって翼公とは。
(道理でときどき様子がおかしかったはずだわ。私の言うことが的外れだったから反応に困っていたわけね)
「……怒っている?」
 覗き込むように尋ねられ、コーディリアはぐぐっと言葉を飲んだ後、息を大きく吐き出し、顔を背けてから諦めを口にした。
「……面白がっていたなら、ね。けれどそうではなさそうだからとりあえず怒ってはいないわ」
「ありがとう。君が優しい人でよかった」
 けれどそうあからさまに、しかも髪も目も青い見るからに特別な存在にほっとされると自分がひどく狭量な気がした。平伏して然るべきかもしれないが、それを求める言葉がないならあくまで恩人と恩を受けた者、それ以上もそれ以下もない対等な関係であろうと心がけることにした。
「改めて。アレクオルニスの翼の一族、アルグフェオスだ。ルジェーラを守護する翼公としてこの地に来た。驚かせてしまって本当にすまなかった、コーディリア」
 アルグフェオスはコーディリアの手の甲に口付けるような仕草をする。貴人らしい挨拶が様になっていて、長く青い睫毛に彩られた目元の美麗さに、ついほうっとため息が漏れた。
 本来なら名乗り返すのが礼儀だが、コーディリアは素性を伏せている身の上だ。彼が翼公と聞けばますます本当のことは話せないと、代わりに衣装の裾を摘んで軽く膝を屈めた。果たすべき役目を国王に阻まれている彼に、自分が弱味となってはいけないと思ったからだ。
「ご丁寧なご挨拶、恐れ入ります。公がおいでとは知らず、勝手に城に入り込んでしまって誠に申し訳ありませんでした」
「いや、それは門を開け放していた私たちが悪かった。不届き者がやってくるのを予想していたから、門を開けつつ魔法で廃墟に見えるようにして何も見つけられないままお帰りいただくつもりだったんだ。まさか子どもたちが入ってくるとは思わず、あの子たちにも君にも悪いことをしてしまった」
 アルグフェオスは苦い顔をしている。目を包帯で隠している間と想像した、自身の愚かしさに歪む顔をかすかな笑みで誤魔化す困った表情だ。
「間の悪いことに私はそのとき少々城を離れていたから、知らせを聞いたときは驚いた。駆けつけたとき、君はまるでぼろぼろに傷付いた鳥のようで痛々しくて……それがいまは」
 伸ばされた指先は、コーディリアを包む半透明の薄布に触れるか触れないかの位置にある。
 さら、となびいた髪はすぐに風に大きく乱される。すぐ近くで何者かが大きく羽ばたいたようにも思われる力強い風だった。
「こんなにも美しい姿で私の前に立っている。それをとても嬉しく思うよ」
 まるで壊れものを慈しむような瞳に目を奪われた。
 ああ、とコーディリアは息を零す。
 その目、その声。その姿に心が解放されると同時に気付いてしまった。
 この人を知りたい。この人ともっと言葉を交わしたい。この人の。
(あなたの、側に)
 叶わない望みに痛みを堪えて瞑目し、俯いたときだった。
「あるじ様!」
 離れたところから響いたアエルとレアスの驚愕を聞いて、コーディリアも伏せていた顔を上げる。途端、視界に白いものが落ちていくのが映った。
(雪?)
 それにしては雲がないけれど、と頭上を仰いだコーディリアが見たのは、石の木がいつの間にか無数の白い花を咲き綻ばせていくところだった。
「祈りの木が……」
 アルグフェオスの呟きも呆然としていた。当然だろう、石化している木がいつの間にか蕾をつけ、花を咲かせようとしているのだから。
 石化した白さはそのままに、しかし生きた木として、枝についた蕾がゆっくりと膨らんでほろりと花開く。少女の指先のような小さく丸い花弁が吹く風にさらわれて、やがて春の雨のように淡く視界を埋めていった。
「祈りの木が目覚めた……こんな突然に……?」
 予期しない出来事にアルグフェオスは首を捻っている。コーディリアが手のひらに花びらを受けると優しい魔力を感じた。微睡む朝に聞く鳥の声、飛び去る羽ばたきの気配を思い起こす。これは温かい夢と安らぎそのものだ。
(この魔力が満ちる国はきっと平穏で美しい)
 祈りの場所が目覚めたのなら、遠からずこの国の魔力は安定するのだろう。翼公が神鳥の力でもって歪んだ力を正し、多くの人が心のどこかで感じていた澱みや陰りはいつしか消え去る。いまコーディリアの視界に映る花咲く空を人々が明るい顔で仰ぐ日がすぐに来る。それは予感であり確信だった。
 だから、コーディリアの仕事は、終わったのだ。
「――無事仕事を完遂できたのなら、私はお暇申し上げようと思います」
 引き下ろした薄布の下で微笑む。はっとアルグフェオスは真剣な面持ちでこちらを見たが、何も言わせないよう少し早口に続けた。
「公の優しさに甘え過ぎてしまいました。そろそろ戻らなければ、師から怠け者と謗られて破門されてしまいます。こんな素晴らしい衣装を着せていただいたなんて知ったら、薬師ではなく愛妾にでもなるつもりかと叱られるでしょう」
「コーディリア」
 目を伏せた。アルグフェオスの顔は見ない。声を震わせないように唇は石で固めるつもりで弧を描く。
「弱り切った私に、この城での日々は夢のように温かく幸せなものでした。ご恩は一生忘れません。この地の翼公に庇護される者として、これからもあなたの幸いを心より、」
 手首の痛みに言葉を飲む。
 アルグフェオスの青い瞳は叱りつけるように険しい。捻りあげるように掴まれた手が、二人の間で揺れていた。
「コーディリア。知っていてそのように言うのは褒められたことではない」
 知っている、何を? 素知らぬふりをしようとして、今度は後手に回った。
「君が意識を飛ばして執務室の出来事を垣間見たのはわかっている。賢明な君なら、私が何を言うつもりでいるか知っているはずだ」
 王都から戻った使者たちとアルグフェオスが何を話していたか、思い出さないようにしながら無意識に考えていた。あのとき彼は羽子だという二人に告げたのだ。
「君を側付きにしたい。この意味が、わかるね?」
 翼公の側付き――花嫁候補。
 心臓が鳴り、途端に溢れた涙が視界を覆った。潤んだ目を見られないようにきつく目を閉じ、苦悩のままに首を振る。
「私には務まりません」
「謙遜が過ぎる。君の人となりはすぐ近くで見てきた。君なら羽子たちやアントラエルのような一族の者とも上手くやれる」
 港町で会った、遊ぶような声の持ち主を思い出す。彼も神鳥の一族ならあれほど親しげだったのも納得がいった。
「ご厚情には深く感謝しております。公は私の命の恩人です」
「わざとその話し方をしているなら止めてほしい。煽られているように感じる」
 コーディリアはきゅっと唇を噛み、柔らかく、しかし強固に一つに結ぶ。そのように言うのならもう何も答えまい、そう思って。
「……君にとって私たちはそれほど厭わしいものだったのか?」
「違う」
 悲しげに言われて決意は呆気なく覆る。
 感情を抑えて眉をひそめていてもアルグフェオスは美しい。我が身の卑しさを思い知らされる。
「違います。そうではないんです」
「理由があるんだね。聞かせてほしい」
 言えるならとっくに言っている。ここにきてなお口を噤むのだから話せることではないのだ――自分は王太子マリスの元婚約者で、彼の執着によって現在も行方を捜索されている、なんて。頭を振る、すぐ近くで途方に暮れた声がする。
「黙っていては助けることすらできない。ただでさえ私は、翼公は、制約に縛られて不自由なんだから」
「ならばなおさら申し上げることはありません」
「コーディリア」
 呼ぶ声に苛立ちと焦りがある。けれどコーディリアも同じ気持ちだった。
(私の悲しみも怒りも憎しみも、すべて私だけのもの。誰かに、ましてやこの人に譲ることはできない)
「あるじ様」
 控えめに呼んだレアスの視線の先で、花咲ける祈りの木の爛漫だった花が終わっていく。
 繰り返し咲いて膨らんでいた蕾が途端に硬く真冬のように小さくなって沈黙した。地面を埋め尽くす花びらが侘しく、まるで夢から覚めたようだった。いやまた眠ったというのが正しいか。祈りの木は再び石と化して静かに佇んでいる。
 コーディリアは震える息を吐いた。祈りの木の花と沈黙はまるで自分の心や感情を写したかのようであり、握り締めた手もまた石化した木のごとく冷たく強張っていた。
「また眠った、というわけではなさそうだな」
「はい、魔力の流れはそのままのようです。先ほどは身近な魔力に強い反応を示したのだと思います」
 アルグフェオスの小さなため息は、考えすぎでなければ引き止める理由にはなり得ないと残念がっているように聞こえた。
 しかし逃げる隙ではあった。コーディリアは緩んだ拘束から手を引き抜き、素早く身を翻す。追おうとしたアルグフェオスはレアスに止められたのだと思う。逃げ出したコーディリアを迎えて後に続いたのはアエルだったから、照らし合わすようにお互いの役目を承知しての行動なのだった。



 

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