第3章 古馴染みはもたらす
 

 コーディリアの目に映らなくともわかる、風。群れ。気配。羽ばたき。ひゅうっと口笛のような音がしたかと思うと強風が吹き荒れた。
 ぎゃっとあちこちで悲鳴が上がる。ばたばたと天幕が暴れる音、何かが倒れたり転がったりする衝撃音が響く。コーディリアは我が身に降りかかってもおかしくない危険な状況に身を固くして警戒していたが、少しもしないうちに大きなものに覆いかぶさられた。
「っ!?」
 人の身体だと理解して別の意味で全身を硬直させると「すまない」と焦った声。
「じっとしていて。じきに治まる」
 コーディリアを庇ったアルグフェオスの言うように、しばらくもしないうちに風は緩やかに流れ始めた。予期せぬ突風だったが周囲から困惑や安堵の声が聞こえてくる。コーディリアもアルグフェオスのおかげで何かにぶつかったり下敷きになったりという事故は逃れられたようだった。
 ただ、ぴったりと身を寄せ合うという思いがけぬ出来事に心臓は暴れ狂っていたけれど。
「……す、すごい風だったわね。周りの人たちは大丈夫かしら。怪我人はいない?」 
 男性の腕のなかはこんなにも熱いのか。女性同士がくっつくのとは違って、身体の厚みがまったく違う。固くて頑丈で、押してもびくともしないくらい力強い。
 そんなことを考えながら焦って身を捩るが、離れても問題ないはずなのにアルグフェオスは動かない。
「あの、アルグフェオス? ど、うした、の……?」
「…………」
「……アルグフェオス?」
「呼ばれているぞ。返事をしてやったらどうだ?」
 まったく聞き覚えのない男声が応えたのでコーディリアは驚き、アルグフェオスの抱く腕が強く締まったのでなお目を見張った。
「何故ここにいるんだ?」
 低い問いかけはいつになく緊張感に満ちている。
 彼がそれほど構えるような相手とは何者なのだろうと口を閉ざして気配を探った。
「おいおい、それはこちらの台詞だろう。ここは俺の領分なんだから」
「……鳥が知らせたんだな」とアルグフェオスがため息を吐くと、相手は楽しそうに笑う。とにかく彼を構うのが面白いようだ。そして多分アルグフェオスも悪くは思ってはいない。
(昔馴染みというところ? 『鳥』って何のことかしら……隠し名の類?)
「それで? そちらの美しい女性と何をしているんだ、アルグフェオス?」
 名指しされて小さく肩を揺らしたコーディリアが名乗る前にアルグフェオスが慇懃に言った。
「急にやってきて領分を犯したこと、深くお詫びする。食糧を調達したらすぐに出て行くのでお許し願いたい」
「飯くらい好きに食っていけばいい。そっちは魔力不足で不作が続いていると聞いているからな。そのくらいしかできん」
「アルヴァ王国の不作は魔力不足が原因なのですか!?」
 さらりと重大な事柄を口にされ、コーディリアはぎょっとする彼の腕から身を乗り出した。
「突然で申し訳ありません。私はコーディリアと申します。王国の異変についてご存知のことがあれば教えていただけませんか?」
 アルグフェオスはこの男性と口を利いてほしくないようだが構うものか。これまでとは異なる見解の持ち主から情報を引き出す絶好の機会を失うわけにはいかない。
 いかにも必死な様子に相手がくっと笑い声を殺すのが聞こえた。けれど決して嫌味ではない、幼子の懸命な姿を微笑ましく思っているような泰然とした様子だった。
「コーディリア、あなたにふさわしい美しい名だ。質問に答えるなら場所を変えよう。いいだろう、アルグス?」
「……彼女が望むなら」
 からかうような呼び方に、むっとしたアルグフェオスの声。
(『アルグス』。アルグス、アルグス……)
 口の中で転がす愛称は響きが良くて、けれど実際に口にしようとすると気恥ずかしくてできなかった。
「アルグ、……アルグフェオス。あの方はいったいどなた? あなたの知り合いなのよね?」
 先を行く相手に続いてコーディリアを導く彼に尋ねる。愛称で呼ぶくらいなのだから親しい間柄なのは間違いないけれど、アルグフェオスは距離を置きたがっているのか、手を置いた腕が強張っていた。
 だから腕をさすっていたのは無意識だった。
 緊張が解けるように。少しでも穏やかな気持ちになれるように。そんな無自覚な祈りがアルグフェオスには容易に感じ取れたのだろう。ふっと苦味の混じるため息が聞こえた。
「すまない、気を使わせてしまって。彼は私の古い知り合いでアントラエルという。他人を玩具にするのが好きな厄介な性格の持ち主だから、君といるところを見つかりたくなかったんだ。こうなると絶対に余計なことを吹き込んでくるから気を付けてほしい」
「聞こえているぞ」
 前方から声が飛んできて、アルグフェオスは肩を竦めたようだった。
(ならアントラエル様は神殿島の聖職者なのかしら。けれどそれにしては雰囲気が少し変わっているような……それにさっきから妙に視線を感じるのは……?)
 周りが見えないからこそわかる、こちらに集まる視線の数々はいったいなんなのだろう。髪色が目立つコーディリアは被り物をしているのだから、他に理由がなければ注目されているのはアルグフェオスとアントラエルということになるが、二人とも気にした様子はない。深く考えなくてもいいのかもしれないが少し気にかかった。
 市場を抜けてしばらく歩いていくと喧騒が遠くなった。海の香りが薄くなり、人の声よりも小鳥の鳴き交わす声が聞こえてくるようになる。視界のわずかな明滅は豊かに茂った木々の木漏れ日が理由だろう。視線は振り払えたようで、人気がない、静かな場所のようだ。
 風が渡ると響く、波のような葉擦れの音。
「いい風……」
「俺の気に入りの場所だ。この庭園には心地よい風が吹く」
 日差しを和らげる風に呟くとアントラエルが嬉しそうに言う。
「だがせっかくの庭もその目ではすべてを捉えきれまい。いったいどうした? 巫女どもの妬み嫉みでも買ったか?」
「巫女?」
 アルグフェオスがすぐに答えた。
「コーディリアはアレクオルニスの巫女ではなくアルヴァ王国の民だ。偶然魔力を酷使して目を痛めたところを見つけて私が保護している」
「巫女じゃない? 珍しいな、その見た目ならアレクオルニスに送られていてもおかしくないのに」
 先ほどからコーディリアの頭にはいくつもの疑問符が浮かんでいる。
「私は巫女になっていなければおかしいのですか?」
「強い魔力を持つ者は神職となって一族の者と娶されることを望むからな。本人の意思、親類縁者の期待、国を挙げて送り出されるなど理由は多岐に渡るが、大半が女性だ」
 アントラエルのくつりと笑う声には少なからず悪意がある。
「そんな女性ばかりが集まった場所でいったい何が起こるか。あなたのような人の足を引っ張ろうとする輩が、その目を潰そうとあれやこれやと画策するだろう。だがそうではないとアルグスが言うのなら何よりだ。ここは眺めもいいから、目が快くなったらもう一度訪れるといい」
 女性同士の足の引っ張り合いは、宮廷でも神殿でも変わらず起こりうるもののようだ。呆れた様子の言い分には全面同意だったが、礼儀正しく「恐れ入ります」とだけ返した。
(アルヴァ王国では強い魔力を持つ娘は王族と婚姻する習慣があるから、神殿島の巫女になるという考え方が浸透していないのね)
 生まれる国が違えばコーディリアは神殿島に送られていたのだろう。マリスの顔と嘲る声が思い出され、いっそそうであったなら、と思わずにはいられなかった。嫉妬が渦巻く場所であってもあの頃よりは静かな日々を送れていただろうに。
 逸れていた意識が故国のことに戻り、それで、とコーディリアは先ほどの話題を持ち出した。
「アントラエル様、アルヴァ王国の不作は魔力不足が原因と仰っていましたが、詳しいお話を聞かせていただけませんか?」
「アルグフェオスからは何も聞いていないんだな?」
 手を支える彼の腕がかすかに動いたのを感じながら「はい」と頷いた。
「彼が、何か?」
「それは後々本人から聞くといい。言い訳がしたかろうしな」
「アントラエル」
 アルグフェオスの叱責めいた低い声が言外に「余計なことを言うな」とアントラエルを制する。どうするかは話を聞いてからだと、コーディリアはまず相手の語りに耳を傾けた。



 

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