第3章 美味しい散策
 

「……魚?」
 予想通り身の置き所がなくなってしまったコーディリアがただ恥じ入って俯いていると、次の瞬間「あっ!?」と初めて聞くような大声を出してアルグフェオスが何かに気付いた。
「ああそうだった! しまった、ついうっかり……君が一族の者に思えて同じ扱いをしてしまっていた。食事の内容があれなら痩せて当然だ。本当にすまない。いま城の厨房を担っている者では要望に応えるのは難しいだろうから外で調達しよう。アエル、彼女に支度を」
「かしこまりました!」
「え、え? ええと……?」
 恐縮するばかりだったコーディリアが大声に呆然としているうちにあっという間に着替えさせられて外に連れて行かれる。アルグフェオスに引き渡されても何が始まろうとしているのかさっぱりわからない。
「あの、アルグフェオス? 何をしようとしているのか説明してくれる? 魚料理が食べたいとは言ったけれど着替える必要はないと思うの。それにこれでは出掛けるみたいだわ」
 混乱しきって流されに流されてしまったが、コーディリアが身に着けているのは姿勢を補正する形のしっかりした衣服、恐らく貴族令嬢が当たり前に着ているドレスだと思われた。そこに顔を隠す薄布がついた帽子。見ていなくとも外出着で間違いない。
「そうだよ。魚料理を食べに行こう。どこがいいか……あの港街なら目立たないかな」
「え? 食べに行くって……そこまでしてくれなくても大丈、んぁっ!?」
 何を言い始めるのだとアルグフェオスの袖を掴んだが、魔力の波に取り巻かれて縋り付くようになってしまった。
 そんなコーディリアを寄り添うように引き寄せて彼が囁く。
「そうだ、しっかり掴まっていて。一飛びで行くよ」
「いってらっしゃいませ!」
 アエルの声が掻き消える。コーディリアは強い魔力の奔流に驚愕する余裕もなく困惑で朦朧としていた。
(何、何、何が……)
「着いたよ」
 優しい声に引き戻された意識が、押し寄せる無数の人の気配と声を拾う。
 ざわざわ、がやがやと騒がしい雑音は、笑い声や怒鳴り声、挨拶の言葉や世間話に変換されていく。足音。荷車の音。犬や猫、馬に驢馬。牛もいるようだ。空にはがーがーと騒がしく鳴く海鳥。
(…‥海鳥?)
 鼻先を掠めたのは海の匂いだった。被り布をしているが周囲にはいつになく明るい。強い日差しと乱暴な風はあの城にはなかったものだ。
「……外、だわ」
 くすっと笑われたのはいかにも呆然とした呟きだったからだろう。
 だが当然の反応だと思う。一飛びとは言ったけれど、本当に瞬きのうちに別の場所に転移するなんて、とてつもない魔法を使われたのだから。
 しかも周りを飛び交うのは訛りが強かったり異国語だったり、まったく聞き取れない言語だったりするのでアルヴァ王国の街ではなさそうだ。
「ここは、どこ?」
「アルヴァ王国の東隣の国にある、内海に面した港街だ」
 東にあるのはフレーユ王国だ。広大な平地と多くの大河を持つ豊かな国土に基づいた力のある国。
 アルヴァ王国も内海に面した港街があるが、魔力持ちの貴族に賄賂を用いることのできるごく一部の強欲な商人たちによって商売のほとんどを牛耳られている。港を利用する多くの者にとってはフレーユ王国の街の規模や活気の方が魅力的に映ることだろう。
「古い知人に、魚が美味いと自慢されたことを思い出したんだ。ここなら君を満足させられる魚料理が食べられる。さてどの店にしようか。薫製か、麺料理か。油煮も美味しいと聞いたかな。静かに食事をするとしたら、……うん?」
 くいっと袖を握るとアルグフェオスが言葉を止める。
「あの、あのね……魚料理が食べたいと言ったの私だし、魔法を使って連れ出してもらった上でこんなことを言うのは迷惑だとわかっているんだけれど」
「迷惑なんて思わないよ。どうしたいのか言ってごらん」
 微笑ましそうな物言いに、コーディリアの顔がぱーっと染まったのは、ひどく子どもじみたわがままを言おうとしている自覚があったからだ。
 けれどいましかない。恥も外聞もかなぐり捨て、可愛らしさとは縁遠い力強さで彼の袖を握って言った。
「市場に行きたいの! できればそこで、その……」
 最初の勢いが窄んだのは幼少期からの躾のせいだ。露店で買い物なんて、子どもの頃は許されても貴族の娘なのだからと両親ともにあまりいい顔はされず、もちろんマリスに知られると何を言われるかわからないので、どんな祭事であってもひたすらに身を慎んできたのだ。
 だがその両親はおらず、マリスとの婚約は破棄されたに等しい。伯爵令嬢ではなく普通の娘として暮らしているいま、市場を歩き、買い食いすることを禁じる者は誰もいない。それでも染み付いた理性や習慣が頭のなかで渦を巻く。
(はしたないかしら。不品行、かしら。みっともないと笑われる……?)
 そんなものに興味があるなんておかしなやつだ、伯爵令嬢ともあろうものが、あんな下々のものを面白がるなんて。こだまするそれらはマリスの声となって膨れ上がり、コーディリアの言葉を奪っていく。
「市場か。じゃあそこで君が食べたいものを買い食いしようか」
 夏風めいた軽やかな声がコーディリアの顔を上向かせる。
「うん? どうした? 見当違いだったかな」
「……いいえ」
 ほろりと落ちる、言葉と感情。
「あなたの言う通り、市場で買い食いをしたいの。あまりそういう機会がなかったから……」
 アルグフェオスが笑う気配がした。
「そうか、なら今回が絶好の機会というわけだ。君の気に入るものが見つかるといいな」
 知らず知らずコーディリアは微笑んでいた。
 彼がただ素直に受け止めてくれたのが嬉しかった。誰かの興味関心や感情を尊重しようと考えられる健やかな心がアルグフェオスのなかで当たり前に存在するのだと感じられて。
 アルグフェオスはコーディリアの手を、繋ぐのではなく腕に置かせた。貴族がするように女性に寄り添って先導する態勢だ。ごく自然に歩調を合わせられる彼はどう考えてもこのような状況に慣れている。
(神殿島の聖職者は女性の扱いにも慣れている、というより、彼が規格外なんだと思う方がしっくりくるわね)
 探るような思考は数秒後には霧散した。
 コーディリアを取り巻く、圧倒的な人の気配。生きている、活動している、人の営みの発する熱が押し寄せる。それはアルグフェオスが案内してくれた市場で最高潮に達した。
「いらっしゃい、今朝獲れたばかりだよ!」
「東の国の珍しい果実はどうだい!?」
「順番、順番だよ。そら揚げたてだ!」
 もったりとした油と香ばしい匂いが、海鮮の生臭さに入り混じっていた。足元はじとっと濡れていて、多くの人が踏みしだいた跡がある。店の軒先が重なり合って生まれる影の下を大勢の買い物客が行き来しており、少しでもアルグフェオスから離れると誰かの肩や腕に触れてしまうのでぴったりくっついていなければならなかった。
 お忍びで市場を出歩いたことはあるけれど港街は初めてだ。目を隠しているのが惜しくてならない。どんな魚や食べ物が売られていて、どのような人たちがそれを買い求めているのだろうとコーディリアの好奇心がむずむずと騒ぎ出す。
「何か気になるものはある?」
 音が溢れかえっているので耳元で言われなければ聞き取れないのだが、アルグフェオスの美声はコーディリアの心臓を軽々と跳ね上げさせる力がある。
「よ、よくわからないから任せてもいいかしら?」
「もちろん。この先に知人から聞いた店があるはずだから、行ってみよう」
 気取られないよう動揺を押し隠してアルグフェオスについて行くと、しばらくもしないうちに油のじゅわああっという揚げ物の音と空腹を刺激する香辛料の香りがした。
「着いたよ、ここだ。……二つ頼む」
「あいよ」
 アルグフェオスと店の者が短くやり取りをすると、油の音が炸裂した。何を揚げているのか気になって少しでも手掛かりがないか気配を探っていると耳元でまた声がする。
「白身魚の揚げ物だ。黄金色になるまでじっくり揚げた後、塩と香辛料をまぶしている。旱芹菜と大蒜と……後は何だろうな」
「生姜を使っているのではない? この香りは大蒜だけではないと思うの」
「見ただけではわからないな。ああでも衣が少し黄色味がかっているから風味をつけているのかもしれない」
「……っん、ん!」
 商売の邪魔をしかねない密談を聞きつけた店の人間の咳払いが聞こえて二人同時に口を噤む。
 お互いひっそりと笑いつつ、揚げたての魚を受け取った。売り物を探るような無粋な真似をしたお詫びに小海老を揚げたものも追加で買い求めた。
 座って飲食できる天幕がある場所へ移動するが「新鮮な果物を絞ったよ!」と聞けばそちらに顔を向け、焼き立てのパンの香りに誘われて足を縺れさせ、隣を歩くアルグフェオスの「烏賊と貝の揚げ物か」と呟きを拾ってつい袖を強く引っ張り、とやっと食事をできるところにたどり着いたときには二人の手はすっかり塞がっていた。
「ごめんなさい、我慢できなくてつい……」
「構わないよ。我慢されるより食べたいと言ってくれる方がずっといい」
 揚げ魚は紙で包んでいても油が染みてすでに手が汚れている。気にならないわけではなかったが、熱々のそれにかぶりつきたい欲求の方が勝った。
 被り布を上げようとしてもたついているとアルグフェオスが手伝ってくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 そうして慎ましく、けれどいそいそと口を開けて行儀悪く、直接歯を立てる。
 さくっと音がした。白身らしい、ほろろと柔らかい食感と癖のない魚の旨味が口いっぱいに広がる。香辛料と塩気を強くして食材の質を誤魔化しているのはご愛嬌だろう。それよりも熱々の揚げたてが一番の調味料だ。
 はふっと熱い息を漏らすとまた美味しくなる気がした。
「美味しそうに食べるね」
「だって美味しいんだもの」
 子どもっぽいと笑われた気がして唇を尖らせるが、アルグフェオスは「早く食べないと冷めてしまうよ」と当たり前のことを言って軽々と受け流してくる。むっとしつつ、小海老のかき揚げを頬張ったら、凝縮された旨みと香ばしさの極みのようなぱりぱりの食感に苛々なんて吹き飛んでしまった。
 汚れた手を拭き、果物を絞った飲み物で喉を潤して人心地つくと、後回しにしていた疑問を口にする余裕ができた。
「結局のところ、いままでの食事に肉や魚が出てこなかったのはどうしてだったの?」
 ああ、とアルグフェオスが苦い声で笑う。
「食習慣の違いを失念していたんだ。私たちは普段から果実や木の実を主食としていて、肉や魚は滅多に口にしない。島ではそれが普通だったから、君もそうだとつい思い込んでしまっていた。君のような髪や瞳の色は島の関係者に多いから」
 なるほどと得心した。神殿島の聖職者独自の食習慣だったのだ。
「食禁があるなんて初めて聞いたわ」
「禁忌としているわけではないんだが、アレクオルニスでは強い魔力の持ち主は肉食を避ける傾向にあるんだ。なんとなく食べたくなかったり食べたいと思わなかったりと理由はそれぞれだが、中には食べると本当に調子を崩すという者もいる。曰く『魔力が汚れる感じがする』んだそうだ」
 何故果物や木の実が主となったのか尋ねると、鳥の食べ物に近いからではないかという答えが返ってきた。植物食なのは赤い色を持つ血を汚れとするからだと考えるとしっくりくる。強い魔力を維持しなければならない神殿島ならではの風習と言えるだろう。
「まったく気にせず何でも食べる者もいるけれどね。私も馴染みは薄いけれど食べてみると美味しいものだと思うよ。料理人たちにも覚えてもらおう」
「ああ、翼公は魚を召し上がる方なのね? それならロジエに住む料理人を新しく雇うといいわ。結婚だったり出稼ぎから戻ってきたりして海幸の扱いに慣れている人もいるし、当然山の恵みにも精通しているから」
「うん? 翼公?」
 塩漬けや干した海産物を用いた惣菜を売る店や小料理屋、ロジエの村人を思い浮かべて言うと、いまひとつ把握できていないような反応で、コーディリアも「うん?」と首を傾げた。
「翼公が召し上がるための魚料理を料理人に覚えてもらおうという話ではなかったの?」
「いや君の、……ああ、うん。まあ、そういうことだ」
 そう言って束の間黙ったかと思うと、しばらくして諦めたような自嘲がかすかに聞こえた。
「すまない、また錯覚を起こしていた。君があの城にずっといてくれるものだと思ってしまっている」
 それは無理ね、と笑うべきだった。
 けれどすぐに反応できなかった。喉の奥に言葉が張り付いて抵抗を始めたかのようで、コーディリアは唇の端で微笑みながらそれとは別にこぽりと湧いた感情を飲み下す。
 アルグフェオスはいつものような気遣いを見せてくれず、じっと沈黙していた。コーディリアのわずかな呼吸の変化や身動ぎを見逃さず、脆い手がかりを自らに引き寄せるために。
 だが二人同時に、押し寄せる風に気が付いて空を仰いだ。



 

    NEXT>>
<<BACK    


> MENU <


INDEX