第3章 残念な欲気
 

 それからコーディリアは部屋に戻され、大きな浴槽に横たわるようにして湯浴みをした。
 湯浴みをするとき、最も懸念したのは髪粉で濃い灰色に染めた髪のことだった。石鹸と湯の組み合わせは間違いなく色を落とし切ってしまう。一方で長らくちゃんと手入れしていない髪を、しかも湯と洗髪剤を使って洗えるという魅力には抗い難く、抵抗の言葉を飲み込んで湯に身体を沈めることにした。
 つるりとした陶器の浴槽の滑らかな手触りに、香草を散らしたたっぷりの湯が、全身にまとわせていた色々なものを溶かしていく。
 目には薬を塗った温湿布を貼り付け、香草の爽やかな香りを吸い込むコーディリアの髪を、浴槽の外にいるアエルが背後から洗ってくれる。湯をかけ、石鹸を塗って洗い濯ぎを繰り返した後、細い歯の連なる櫛が天辺から毛先まで梳っていく心地よさに、思わずため息が漏れた。
「とっても気持ちが良さそうですね?」
 広い浴室にアエルのくすくす笑いが響く。
 揺れる水面を流れた肌に貼りつく草花の柔らかさが香りとともに心までもくすぐっていく。
「とってもすっごく気持ちがいいわ……でも、汚れた髪を手入れさせてごめんなさい。程々にやってもらえたらそれでいいから」
「大丈夫です、とっても楽しいですから! 御髪を梳かしてー、お湯浴みが終わったらお肌の手入れにー、爪を磨いてー」
 歌うように言葉を連ねるアエルは、懸念していたように、何故髪を染めていたのか、と一言も口にする気はないようだった。
 そんな気遣いは、いまは遠く離れている友でありお付きでもあったイオンを思い出させる。彼女もこうして楽しげに世話をしてくれたものだった。今頃どこで何をしているのだろう。
「何を笑っていらっしゃるんですか? コーディリア様にもご協力いただかなければならないんですからね?」
「協りょ、ひぁっ!?」
 不意に剥き出しの脇腹を摘まれて悲鳴を上げる。
「やっぱり……コーディリア様、初めてお会いしたときに比べてずいぶんお痩せになりましたね?」
 むー、と不機嫌な声に、コーディリアはへらっと笑った。
「それはほら、病み上がりだから。ずっと寝付いていたし、ほとんど身体を動かしていないからたくさん食べる必要がないんだもの」
「動いていないにしても普通は肉付きがよくなるんです! やはり量が足りないのでしょう? 厨房に伝えておきます。何かご希望はありますか? 苺や黒すぐりはお好きだと仰っていましたよね。他の木の実だと、そろそろ扁桃が手に入る季節ですね」
 お肉を。
 お肉か魚を、と言いかけて喉の奥に押し込めた途端、胃がきゅうっと音を立てそうになって必死に堪える。
(衣食住のすべてをお世話になっているのに、食事の内容にまで注文を付けるのは失礼にも程があるわ)
 貴族の暮らしを離れて久しいが、出されたものは礼儀正しくいただく習慣が染みついているコーディリアは質素になった食事には一度も不満を覚えたことがない。むしろロジエで暮らす人々の生活の知恵や日々の工夫に驚嘆する毎日で、干したり大量の調味料で煮詰めたりなどする保存食には特に感心したのだ。
 そのロジエでのことを思えば、この暮らしは貴族であった頃と遜色ないほど快適だ――唯一、食事の内容を除いて。
(今朝は果物と牛乳のスープ。昨夜はパンとチーズと果物。昨日の朝は干し果物のケーキ……どうしてかはわからないけれど、お肉やお魚がまったく出ないのは不思議でならないのよね……)
 パンやケーキが出るので卵は使用しているようだが、卵料理は一度もない。コーディリアの体調を気遣ってか他に何か理由があるのか、もし尋ねると食事に文句をつけているのではないか、食い意地が張っているなどと思われてしまうのではないかと考えて、疑問を覚える度に飲み込んできた。
 しかしやはり身体の維持には必要な栄養素や量が足りず、アエルにはわかってしまうほど少しずつ痩せてきているようだ。
 湯浴みを終えて新しい衣服を身に着けたときも、アエルは納得がいかない様子で唸っている。服の腰回りが余っているからだろう。コーディリアはそれに気付かないふりをして疑問を投げかけた。
「ところで、どうしてこんなに女性用の衣類があるの? 寝巻きも部屋着も、散歩に出られるくらいのちゃんとした服も、急に用意できないような上等なものばかりよね」
「お側付きになられる方のために最低限準備したものですから。外出用の衣類も、季節ごとにちゃんとご用意しております」
「翼公の『お側付き』ね? そう、女性の側付きがいらっしゃるの……」
 衣服の首元を摘んで呟く。どのような見た目かはわからないが、質感や着心地は平民の衣類にはない上質さだ。行儀見習いとして宮廷に上がる子女たちが身につけていてもおかしくはないだろう。たまたま身を寄せているコーディリアが先に袖を通して気を悪くしなければいいけれど。
 だがアエルは「いいえ」と慌てたような大声で言った。
「側付きを選ぶのはこれからなんです。近くにお住まいの方々にお声掛けをして、ふさわしい方を選ぶ予定です。大事なお役目ですから」
 何故わざわざ人々に声をかけるのか不思議に思ったが、話を聞いてみれば納得だった。
『側付き』は翼公と人々の橋渡しを行う仲介者なのだ。
 神鳥の一族はごく普通の人々には伝承や物語にしか存在しないような遠い存在だ。そんな一族出身の翼公を受け入れてもらうために近隣住民と交流は必須、さらに自分たちに近しい誰かが仕えているとなれば警戒心もわずかに解ける。そのため側付きの他、城仕えの者を新しく登用する予定があるというのだった。
「ですから私、コーディリア様がお側付きになられるのがいいんじゃないかと思っているんです!」
「私が? どうして?」
「お優しくて深い教養をお持ちなのはもちろんですが、それほどの魔力の持ち主は島の巫女であろうとも数えるほどです。さらにお美しいとあれば一族の方が放っておけるわけがありません!」
「アエル、アエル。褒めてくれるのは嬉しいけれど大仰すぎるわ」
 鼻息の荒い少女をどうどうと落ち着かせて苦笑する。
「翼公は魔力の巡りを見守る立場でいらっしゃるんでしょう? そんな方にお仕えするのに、私は何一つとしてふさわしくないわ」
 あくまで守護者、世俗と切り離された見守り手である翼公に対して、コーディリアは神鳥の恵みであるはずの魔力を復讐と報復のために使うそのときを待ち構えているのだ。とても面前に出られるほど清らかな心の持ち主でない自覚がある。
 その名も姿も知らない翼公だけれど、心身ともに美しい人に違いないとコーディリアは思っていた。冴え冴えとした青い瞳は、きっと汚れた醜いものを一瞥することで裁くのだろうとも。
「そんなことはありません!」
「翼公の御前に出ればわかるわ。私は公の正しく美しい力で焼かれるに違いないもの」
 食い下がろうとしたアエルだったが、コーディリアは話を終わらせるように目を逸らし、足音が聞こえてくる方を見た。
「ちゃんと温まったようだね。なら、少し様子を診せてもらってもいいかな?」
「アルグフェオス」
 不満げにまとわりついていたアエルは主人の登場に慌ててコーディリアを長椅子へと導いた。
 痛みや違和感の有無、顔色や脈を確認してコーディリアの左手に触れていたアルグフェオスは「ん」と引っかかりを覚えたような小さな声を発したかと思うと、指をするりと滑らせてぎゅっと手首を握ってきた。
 骨張った指の感触を強く感じたコーディリアの心臓は大きく跳ね上がる。
「っえ!? な、何?」
「……いま気付いたんだが、君、なんだか痩せていないか?」
 跳ねた心臓は一瞬にしてぎくりと強張る。
「やっぱり! 気のせいではありませんよね、あるじ様!?」
 心当たりがありすぎる問いに頬を引きつらせたときだった。自身の気付きを訴え始めたアエルの声を聞きながら、ああ、とコーディリアは呻く。
 せっかく治めたというのにアルグフェオスの指摘がまた彼女を高揚させてしまった。そして彼の傾聴姿勢がますますアエルを昂らせていく。
「アエルの言うことは本当かい、コーディリア?」
 きゅっと手首を掴まれる。従者の言うことにきちんと耳を傾ける理想的な主人だなどと考えて逃避していたコーディリアの思考は、それでがっちりと捕まえられてしまった。
(手、手が抜けないっ、強く握られているわけじゃないのに!)
「コーディリア?」
 にっこりと笑う顔が見えた気がしてコーディリアはぎくりと身を竦め、口元をあわあわとさせながら慌てて捲し立てた。
「た、た、体調は悪くないもの! どこか痛んだり苦しいわけでもないし! 報告を怠ったわけじゃないわ」
「では何故痩せている? 特に自覚症状がないなら精神的なものが原因だと考えられるけれど、私たちに何か至らないところがあるかな。だったら正直に教えてほしい。可能な限り改善すると約束する」
 手首を掴む手がわずかに締まる。真剣な目を眇める仕草が伝わるようで、コーディリアは必死に首を振った。
「とんでもない! あなたたちは本当によくしてくれているもの。至らないところなんてありはしないわ」
「でも無理をしているから痩せるんだ。何が辛い? 治療か、目を覆う必要があることか、それとも行動範囲がまだまだ狭いこと?」
「それはそうする必要があるからでしょう? ちゃんとわかっているわ」
「その言葉を信じるよ。ならば何を我慢しているんだ? 私には心当たりがないから気付けていないんだと思う。頼むからちゃんと教えてくれないか。何もできないままなのは嫌なんだ」
 真摯な言葉に、コーディリアは内心頭を抱えた。
 騎士のように懇願して案じるアルグフェオスに「肉か魚が食べたい」なんて、くだらなさすぎて絶対に言えない。
 だからいまできるのは精一杯「何でもない」と微笑むことだけ。
「心配しすぎだわ。何もしなくても痩せることなんてよくあることなんだから、そんなに気に病、」
「きゅうぅうう」という小動物めいた鳴声。
 気に病む必要はないと続けるはずが、舌と思考を強制停止させられたコーディリアは刹那の静寂の後、低く優しい声に今度こそ逃げ場を失ったことを悟らざるを得なかった。
「すぐに食事を用意させる。何がいい?」
 抵抗など無駄な足掻き。
 コーディリアの脳裏で白旗が諦めの息に揺れていた。
「…………な……」
「ん? すまない、聞こえなかった」
 ああもうだめだ。幻滅される。けれどこれ以上誤魔化す方法が思いつかない。
「……………………お魚、を……」
 食べたいの、と消え入るような声はやけによく響いて聞こえた。



 

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