第3章 満ちる杯
 

 翌日にはこれまで厚く目を覆っていた包帯が薄くなった。指導段階が上がるのならコーディリアが多少魔力を使っても差し障りのない程度に回復しているので、光に目を慣らす意味でも包帯を厚く巻く必要はないとアルグフェオスから指示があったのだ。
 より太陽の動きと時間の経過が感じ取れるようになったが、新しく薬を塗って包帯を取り替えるときも目を開けてはいけないという言いつけは撤回されず、コーディリアは未だアエルの顔を見たことがない。
 そのアエルに手を引かれて中庭に行くと、すでにアルグフェオスが待っていた。
 石の木の下で軽い問診を行い、問題なしと判断すると彼は金属の杯をコーディリアに握らせた。
「これは、脚付き杯(ゴブレット)?」
「ああ。その杯に魔力を使って水を満たしてほしい」
 早速講義の開始というわけだ。普段なら造作もないが、コーディリアは困惑顔で彼の様子を伺った。
「あの、包帯を外さないとできないわ。目で見なければ魔法は使えない……もしかして、そうじゃないの?」
「そういうことだ」とコーディリアの好奇心に満足したように彼は笑って言う。
「『見る』行為は確かに威力や精度を高めてくれる。けれど見なければまったく使えなくなるわけじゃない。逆に視力を持たないことで非常に強い魔力を持つようになることすらあるんだ」
(祈祷師や呪い師は盲目の人が多いけれど、魔法使いもそうなのか……)
 ふむふむと相槌を打ち、見ずに魔法を使うためには何が必要なのか思い巡らせてみる。
 触覚、味覚、聴覚、嗅覚。五感として視覚以外の残り四つが代表的だろうが魔法を使うなら、と思ったところでぴんときた。
「だったら、魔力を知覚する能力があればいいのね?」
「正解だ。君は素晴らしい生徒だね」
 低い声で褒められると妙にくすぐったい。父親に言われたときとは違って、心臓がちょっと苦しくなるような感覚がある。
 こちらの内心を知ってか知らずか、アルグフェオスは続ける。努力して照れくささを押し隠したので知られていないと信じたい。
「瞳に宿る魔力は最低限に、万物に満ちる力を感じ、呼びかける。――こんな風に」
「っ!」
 ぴしゃん、と遠く水が滴る音が聞こえたかと思うとコーディリアの持つ杯の重みが増した。手のなかで杯の内側が揺れる感覚がある。
「水が……」
「付け加えておくと『杯に水を満たす』のにも様々な手段がある。重要なのは知識と閃きだが、この辺りは応用編ということでまた後日に」
 コーディリアから杯を預かったアルグフェオスはそれをひっくり返したようだ。ばしゃっという水音がして空の器が戻ってくる。
「この世界のものから魔力をもらい受ける……ならいつか魔力が枯渇してしまうのではない?」
「国一つ滅するくらいの大魔法ならそうなるね。けれどそこまでの規模の魔力を使おうとすると万物の方が力を渡すまいと拒絶する。そうなると魔法を行使する者自身の魔力や生命力を使い果たすことになって、命を落とすだろう」
「万物が、拒否するの?」
「神鳥の羽ばたきで魔力が満ちたこの世界だ。世界を滅ぼしかねない強大な力の行使は自ずと取り消される。まるで神鳥がそこだけ魔力の流れを堰き止めるかのように」
 コーディリアはこれまでに詰め込んだ知識から歴史についての引き出しを開けてみた。
 アルヴァ王国がその名でなかった古い時代のこと、巨大な国があった頃に一夜にして滅んだ街や敵国を制圧せんと乗り込んで街もろとも消滅した王について。死者を生き返らせようとしたが一度たりとて叶えられた魔法使いはいないこと。
 それがすべて神鳥の、世界の意思なのか。
「私たちを助けるささやかな事柄なら万物は快く力を貸してくれるし、命があるだけで魔力は巡るものだから必ず別の何かで補われている。使い過ぎたとしても心配しなくていい」
「魔力の巡りは聞いたことがあるわ。水や風のように循環するのよね」
 だからこの世界の魔力は尽きない。生き物がその色の瞳を持って生まれるのがその証拠だ。私たちは神鳥の力と空と海とともにある。
 コーディリアの疑問がある程度解消されたと判断して、アルグフェオスが促した。
「わからないことがあればいつでも聞いてくれ。それからもし気分が悪くなったらすぐに教えてほしい。準備ができたら早速やってみようか」
 こくりと頷き、コーディリアは包帯の内側で目を閉じた。
(万物の魔力を感じる……杯に満たす水をどうすれば集められるのか……私自身の魔力を無理に使うことなく……呼びかける……)
 瞳に魔力を集めれば容易に扱えた魔法が、いまは気を配る部分が多すぎてこんなにも難しい。知らず呼吸が浅くなって眉根が寄る。走るためにはただ足を動かせばよかったものを意識しすぎて両手両足が前に出てしまっているみたいだ。
 アルグフェオスの声は聞こえない。彼は急かさない。空気に溶け込むような静けさでここにいる。そうしようと思えば気配を消すことができるのに、存在感を希薄にしてここにいると感じ取れるようにしているのはコーディリアのためだろう。いつでも救いの手を差し伸べられるように。
(呼びかける……呼びかけ……耳を澄まして……届ける……言葉、思い……)
 求めるのは水だ。潤い。冷たさ。清く澄んだ透明な雫の集まり。
 この杯を満たすだけのものを、少しだけ分けてほしい。
(『どうか、』)
 どうか、力を貸して。
 コーディリアの頼み願う呼びかけが、見えない弦のようなものをびいぃんと鳴らした。
「あ、っ!?」
 届いた、と思った瞬間。
 コーディリアは突然息ができなくなるほどの大水を全身に引っ被っていた。
 驚いた弾みで落とした脚付き杯がころんと膝に当たる、硬い感触。痛い。いやそれよりも寒い。
「…………?」
 何が起こったのかわからないでいると、アルグフェオスの大笑いが響き渡った。
「は、ははは、ははは! す、すごい、こんなの初めて見た!」
「な、あの、……何、が?」
 困惑するコーディリアに未だ笑いの余韻を残すアルグフェオスが声を震わせる。
「力を借りることに成功したんだ。ただ制御が甘かったようだね。杯を満たすどころか水浴びができる量を集めてしまったんだ」
 失礼、と言ってコーディリアの冷えた身体に彼の特別な生地で仕立てられた上着が巻き付けられる。
「具合は? 目の痛みはない?」
 それまでの大笑いとは違う、真剣な低い声にコーディリアの心臓がぎゅっとなって小さく跳ねた。
「だ、大丈夫……」
「力を使った反動が来るかもしれないから不調を感じたらすぐに言ってくれ。ずぶ濡れだし、今日はここまでにしてゆっくり湯に浸かって温まるんだ、いいね?」
 迂闊に口を開けば心臓が飛び出てしまうような気がして、こくこくと頷いた。



 

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