第4章 小さきものの誇り
 

「……翼公の使いかい」と背後のウルスラが言うのに、恐らく、とコーディリアは頷く。
 家の敷地の外で待つ鳥は挨拶でもするように大きく翼を広げてゆっくりと閉じる。翼公の使者に礼を失さないよう、コーディリアも裾を摘んで軽く膝を折った。
 だがいったい何のためにやってきたのか、姿勢を正して軽く首を傾けると、鳥のつぶらな青い瞳がきらりと輝いて魔法が生まれる。コーディリアの目の前に生じた魔力の塊は、まるで空の高いところに吹く澄んだ風のようだ。その風に触れたくて、受け止めるように差し出した両手に誘われるようにやってくる魔力は神秘の欠片を宿した青い宝珠に見える。
(……違う。本当に、中心に何か……)
 ――指輪。
 魔力が失われると同時にコーディリアの手の中にころりと落ちてきたそれをまじまじと見つめる。
 白すぎるほどの銀に小さな青石があしらわれている細身の輪だ。無地と編み込みの二本の糸が互いに絡んでねじれる形で、その隙間を埋めるように真っ青な石が埋め込まれていた。石色が鮮やかで気付かなかったが、よくよく見ると青石の周りには同じ大きさの金剛石の粒が並んでいる。派手ではない繊細な細工で、思わずため息が出た。
 けれどこれをどうすればいいのか。指輪、それも青く輝く玉石が飾られている宝飾品を贈る意味なんていくつもないだろうけれど。
「これは、彼からだと思っていいのかしら?」
 輪を摘んで掲げて見せると、こぉう、と鳥が鳴く。異国の楽器のような洞窟の反響を思わせる不思議な声を美しいと感じたものの、コーディリアは肩を落とした。
(贈られたところで着けることなんて……)
 着けた瞬間、コーディリアの心が誰に与えられるのかはっきりする。
 受け取れないと突き返すべきだと思った。石の色と輝きは彼の髪にも瞳にも遠く及ばない。着けていても代わりにはならないし、思い出して辛くなるのがわかりきっている。それともそれが狙いなのだろうか。逃がさない、決して忘れさせない、それを縁に必ず捕まえるという……。
(顔を合わせると私が頑なに拒絶するとわかっていて、こんな大事なものを持たせてくる。本当にずるい人だわ)
 いっそ投げ捨ててしまえば、と思ったときだった。
「――っ!」
 胸が悪くなるような臭気を伴った忌み風に、鳥も、背後にいたグウェンやウルスラも気付いた。周囲を見回して、グウェンが誰よりも早くそれを見つける。
「あそこだわ」
 指し示した空に黒煙がたなびく。ウルスラが嫌そうに鼻を押さえた。
「付け火か。まさかここまで頭が悪いとは」
 コーディリアは総毛立ち、身震いした。まさかそんな、と呟く自分から血の気が引くのがわかる。
 あちらはマリスが滞在しているエビヌの街がある方角だ。そこから火の手が上がっているのなら、誰の仕業かなんて考えるまでもない。ウルスラもそう思ったから汚らわしいものに対するように吐き捨てたのだ。
 何故そんなことを、という問いが渦巻くが、これまで散々無駄だと思い知った記憶が蘇っただけで無意味な行いだった。気に入らないから。思い通りにならないから。そういう気分だったから。その程度でマリスは暴力を振るう、振るえてしまう人間なのだ。
 いま彼が最も執着しているコーディリアが見つからないのだから、苛立ちは頂点に達し、何かに感情をぶつけ、怒りを周囲に示さなければ気が済まないだろう。それが街に火を放つという非人道的な行為であっても我慢できないのだ。
「っ、アデル!」
 怒りと憎しみが魔力となって迸り、コーディリアの足下に小さな雷雲を生む。ぱち、ぱき、と空気が割れる音がひっきりなしに響いた。
 聞こえないふりをしたというのにウルスラは許してくれず、魔力を踏みつけてコーディリアの腕を引っ掴む。ばきばき、と破裂音が示すように掴んだ手には痛みが走ったのだろう。けれど歪んだ顔も痛覚も振り捨ててウルスラは強い目をして叫んだ。
「いい加減におし! 憎しみに囚われた先に何があるのかわからないはずがない。『幸せになってはいけない』なんて思い上がりは過去と一緒にいますぐ捨てな! あんな王家に、王族に、あんたの何もかもをこれ以上奪わせるんじゃないよ!」
「ウルスラ」
 固く握り締めた拳、揺れる腕に触れる黒い魔女の枯れた手は震えていた。だから気付いた。
「――……『それ』は、あなたのことですか?」
 憎しみに囚われた未来の突き当たり。幸せになってはいけないという誓い。王家に何もかもを奪われた『何者か』がいる。
 魔女の紫紺の瞳は大きく揺らぎ、それを恥じるようにぐっと顎を引いて伏せられる。
「……あたしじゃない」という言葉はきっと自分で言い訳めいて聞こえたのだろう。眉間にきつく皺を寄せてはっきりとコーディリアを睨んだ。
「『それ』はあたしのことじゃない。でも関わりがないわけじゃない」
 魔女たちの過去に踏み入らない、それが匿ってもらうための不文律だった。
 ウルスラは口を閉ざす。いつも不機嫌で何かに苛立っていた彼女がここに至って秘密を吐き出した。コーディリアを引き止めるための精一杯の、そして究極の譲歩だ。
 そんな秩序と均衡がひび割れていく音、変化の兆しがコーディリアを冷静にする。全身を取り巻きつつあった魔力の嵐が鎮まっていき、煽られていた髪も元の位置に戻った。そうして辺りを見回し、花咲くミモザの枝を折ると佇んでいた鳥に差し出す。
「彼に渡してください」
 鳥は黙ってそれを咥えるとすぐに飛び立っていった。
 空を行く鳥影に、愚かなことをしてしまったかもしれない、とわずかばかりの後悔を覚える。
(気付かないかもしれない。けれどもし気付いたら、そのときは……)
 アルヴァ王国の宮廷人の遊びに植物に象徴的な意味を持たせるというものがある。多くは恋の駆け引きに利用されるそれで、恋を成就させ、あるいは終わらせるのだ。
 ミモザの花言葉――「秘密の恋」を、国外の人間、神鳥の一族の者が知っているとは限らない。
 だからこれはコーディリアの、この想いを捨て去ることのできない愚かな女の、馬鹿馬鹿しい悪あがきだ。
 髪を結んでいた紐を解いて指輪を結え、それをしっかり腕に巻き付けてからコーディリアは魔力をまとう。
「っ、アデル! あんたって子は、まだわからないのかい!?」
 何を言われても行動しないという選択肢はない。逃亡したときから決めていたのだ。もしマリスが民を傷付けることも厭わず己の望みを叶えようとしたなら、必ず目の前に躍り出て、あの男が憎み羨んだ魔力でもってその願望を踏み潰してみせると。
 この後に及んでもまったく言葉が響いた様子のない小娘を、ウルスラはそれでも引き止めようと手を伸ばしてくる。
 それを、愛おしい、と思う。
 転がり込んできた厄介な娘を、彼女たちは当たり前のように迎え入れ、仕事を教え、ただ人の暮らしを教えてくれた。でなければ貴族として生きてきたコーディリアはどこかで行き倒れるか素性が知れて早々に捕まっていただろう。
 血の繋がりのない、歳の離れた、見た目も性格も異なる女性三人の同居生活。
 嬉しかった。楽しかった。本当に。
「いままでありがとうございました。どうかお元気で。お二人に、神鳥の青い風がいついつまでも吹きますように」
 伸ばされた手が届く前にコーディリアは跳んだ。この微笑みがどうか自分の最期として二人に記憶されますようにと祈りながら。



 

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