第4章 塵は、灰は
 

 北の高地ロジエ、その麓から広がる扇状地をエビヌという。
 北部で最も大きな街は土地と同じ名で呼ばれ、決して穏やかとはいえない気候に暮らす人々の重要拠点だが、常ならば車を引く家畜や人々が行き交う道は、いまはところどころが荒れ、崩れた石塀や屋根の残骸が転がっていた。煤けた空気はたなびく黒煙のせいだ。熾火が爆ぜる音の響く街はただただ沈黙している。何故なら住民は全員、外に出れば殺すと言われ、街の聖堂に押し込められていた。
「……お母さん……」
「しっ。静かに。静かにね……」
 泣きそうになりながら母を呼び、それに応じた母ですらいまにも泣き出しそうに声を震わせる、重苦しい沈黙と恐怖がその場の支配者だった。呼吸も、かすかな嗚咽すら懲罰の理由たり得た。そこにいるのは大人や親の言うことを聞ける年齢の子どもばかりではない。事態を理解することすらままならない幼子の泣き声が響き始め、全員が動揺と混乱の発露として怒りと憎しみを親子に向けた。
「大丈夫、大丈夫だからね。お願い、泣き止んで……お願いだから……!」
 ふみゃあ、ふぎゃあ、と泣く赤子を抱きしめた母親の顔は引きつり、怯えていた。外に出ても騒いでも殺すと言われていた。それも全員だと告げた兵士の歪んだ笑みは決して忘れられない。山を登っていった彼らはロジエを同じようにした後、再びエビヌに戻ってくる。だから早く泣き止んでほしいのに、赤子の泣き声はますます大きくなる。声をかけているはずが自分の声がどんどん聞こえなくなるくらいに。
 泣き喚く子どもを抱えたままついに母親は黙り込む。様子がおかしいと周囲が気付いたとき、血の気を失った母親の手は赤子の柔い頭部に伸びていた。
「……おい、おいあんた!?」
 老いた男が手を捻り上げ、若い母親の引きつった悲鳴が迸る。薄暗い室内で混沌が荒れ狂う、その間際。
 ばぁん、と激しく開かれた扉から光と風が吹き込んできた。
 悲鳴と怒号が響き、外に近い者は身構えたが、想像していたような恐ろしいものは何も起こらなかった。眩しさに慣れ、恐る恐る外を覗き見るが、驚くべきことに住民の逃亡を防ぐはずの兵士たちが離れたところで倒れている。しかしそもそもこの聖堂は王子の魔法で誰にも開けられないようになっていたはずなのだ。
「何だ……何が……?」
「あ、あれ、空!」
 背後からの指摘に空を仰げば、真っ青な光が飛び去っていくのが見えた。続々と外に出てきた人々もロジエへ向かう光を目で追う。未だ泣く赤子を抱えた母親は泣き崩れて激しく嗚咽しながら「神鳥様」と繰り返し、過ちを踏みとどまらせたものへの感謝を唱えていた。

 そうしてロジエの街もまた、エビヌと同様の蹂躙に遭おうとしていた。
「広場に集まれ! 一人も残すな! 定刻を過ぎて街中で見つけた場合、命はないものと思え!」
「さっさと歩け! もたもたするんじゃない!」
 先ほどまで晴れていたはずの空は薄く曇っている。かさついた空気にこんこんと咳をしながら、ヨハンは兵士たちの持つ鋼の武器を見つめる。
 つい先ほどのことだった。兵士を連れてロジエにやってきた王子は古びた街の門を開け放つよう要求したかと思うと、人々の出入りを禁じ、一人残らず広場に集まるように、と命令したのだ。荷物をまとめる時間もなく母に手を取られたヨハンは、広場に向かう道中、兵士がごく普通の民家の扉をこじ開けるようにして住民を引っ張り出すのを見た。
「乱暴は止めて! ここには私たち家族以外誰もいませんから!」
 その向かいでは無人になった家に押し入った兵士たちが酒瓶や食料を手に笑っている。
 こうなると大人たちはみんな予期していた。憚るようにして「どうして」「決まっている」「探しにきたんだ」と言っていたのもちゃんと聞こえていた。不安そうな面持ちも、顔色の悪さも覚えている。
 だから王子たちが何をしにきたのか、ヨハンは知っている。
「ヨハン、よそ見しないで」
 うん、と気もそぞろに母に答えて、親友たちの姿を探す。脳裏に浮かぶのは一つの約束だ。
『誓うのよ。必ず、』
 ごくりと喉を鳴らして飲み下したものは焦げたみたいに苦く熱いのに、とても冷たい。どうすればいいかはわかっている。けれどそれが正しいのかは別の話だとも思うのだ。読み書きも計算も苦手でいつも勉強から逃げ回っていたヨハンは、賢くない自分をこのときほど呪ったことはなかった。勇気さえあればいいと思っていたけれど、いまは間違うのがこんなにも怖い。
(エリオ、フィリス……俺……)
 ヨハンが強がっても見抜いてしまう二人と一緒に考えたなら、きっと最善の答えが出るはずだ。
 広場ではロジエの人々が集められて中央で座らされていた。例外がないのだからエリオとフィリスもここにいるはずだと見回したとき、「ヨハン!」と呼ぶ声がした。父親に押さえつけられたエリオが、低い位置で手を挙げながら居場所を教えてくれている。駆け足で年上の親友のもとに駆けつけると、フィリスもすぐにやってきた。いまにも泣き出しそうな顔で座り込み、握り締めた胸元にあるものを耐えきれなかったようにこぼし始める。
「……ねえ。ねえ二人とも。これって……『探しにきた』んだよね……? 偶然じゃないよね?」
「わ、わからない……『私を探しに来たら』って言ってたけど名前が違うし……」
 フィリスとエリオは視線を合わせない。合わせられないのだ。蒼白で怯えた顔をしているのを見られたくないし見たくない。勘違いではないと気付きたくない。けれど決断が間違っていたらどうしようとも思っている。
 こんなときになって彼女の優しさを理解できてしまったヨハンだった。
 ヨハンの知る彼女はいつも老いた魔女たちの影に隠れるようにしていたが、魔女たちの治療を手伝うときも、街中で遊ぶ自分たちに手を振るときも、淡い瞳に温かい眼差しと優しさをたたえていた。
『誓うのよ』
 鮮やかに輝く瞳が告げる。優しさは奥深くに隠されて、見ているこちらの胸が痛くなるほど険しく悲しい光がきらめいていた。
「何も言わない方がいいよね? 黙っていれば帰ってくれるよね?」
「そうだよね。だって知っているのは俺たちだけだし……」
「でも」と納得しかけた二人に向かってヨハンは静かな声を上げた。
「本当にそうなるなら、約束してくれなんて言わないと思う」
 それは痛いくらい本質を突いていたのだろう、エリオがかっと頬を染めた。
「っ、じゃあどうすればいいんだよ!」
「俺だってわかんないよ! わかんないけど、でも……!」
 泣きそうな顔を突き合わせて、ぎゅっと目を閉じる。
 こんなときのために、彼女は記憶を封じて忘れさせようとしてくれたのだ。誰かを守るために別の誰かを犠牲にするなんて後ろ向きな勇気はできれば持たず奮い立たせずにいるべきだった。
 しかし、そんな子どもたちの言い争いが殺気立つ者たちの目に留まらないわけがない。
 目蓋を下ろした視界が夜のときのように濃く黒く陰ったと思ったとき、「ひぁっ」と短い悲鳴を上げたエリオは剣を帯びた男に掴み上げられていた。
「さっきからこそこそと何を話している?」
 不機嫌そうな声に、冷たい氷のような紫の目。そこにいる街の長者よりもきらびやかな衣服に身を包んだ若い男は、明らかに兵士でない。お伽話にしか登場しない美しさは、見渡す限りに伝播する畏怖を見てとった途端、ぞっとするような歪な笑みに彩られた。
「そんなに面白い話なら私の前で披露してみたらどうだ」
 だめだ。ヨハンの本能が警告を発した。
 ――こいつは、だめだ。
 何を言って、何をしたとしても、何も見ないし聞いてもいない。自分の見たいものと聞きたいものだけを聞いて、したいように行動する、恐ろしい怪物だ。
「……っ、エリオを離せ!」
 体当たりで男とエリオを引き離そうとした。捨て身の攻撃は、しかし細身といえど大人には大きな威力を発揮しない。そうとわかるとエリオを掴む腕に飛びつき、力任せに殴りつけた。
「離せ、離せってば!」
「っ痛!」
 弱い部分に入った拳に、男は小さく呻く。だがヨハンにできたのはそこまでだ。
 恐怖に硬直していた人々は男が繰り出した一蹴りがヨハンに命中した途端に声なき悲鳴を上げた。心優しい人々は目を背け、勇敢な者たちは怒りに拳を震わせていたが、蹴り続けられるヨハンを助けることはできない。
「ヨハン!」
「ヨハンっ!」
 身を小さくして痛みに耐えながらそろりと目を上げると、父親に抱かれているフィリスと解放されて周囲に保護されるエリオを見つけた。
(よかった……ごめんな、二人とも……いつも、いつも俺が二人を危ない目に……)
 がつん、と腹部に入った蹴りで思考が吹き飛ぶ。朦朧とした聴覚ではすべての音が遠い。どこからか聞こえてくる泣き声は母親のもので「あの子が」「離して」と知人たちの制止を振り切ろうともがいているようだった。
(母ちゃん……怒らせたり泣かせたりして、本当にごめんなさい……)
 笑顔を思い出したいのに、見せてほしいのに、目に映るのは惑乱した泣き顔ばかりだ。
「二度とその汚れた手で王太子に触れられぬよう切り捨ててやる!」
 錆び付いた刃のような声だった。手入れもせずに振るい続けて、痛めつけるだけの道具に成り下がったそれが死を宣告する。
 そうして目を閉じた暗闇で、翼の羽ばたきを聞いた。
 手のひらのような風に頬を撫でられた気がして目を開ける。振り下ろされんとする剣、濁ってぎらつく薄色の瞳。その向こうに輝く青空がある。
 青い空から、美しい光が、降ってくる。
「――――」
 音はしなかった。落ちてきた光にすべてが吸い込まれて、時間ですら流れるのを止めたようだった。
「――何をしているの」
 混沌を飲み、闇を収束した光は、視界を取り戻した人々の前で鮮やかな青を帯びた女性の姿に変わっていた。
 震え上がるような声音のはずなのに、ヨハンは心地よさに目を閉じた。これは凍てつく冬の音だ。峻険な山々の冠る無垢雪の高潔さはロジエの人間なら誰でも知っている。
 だからこそ続いて響き渡った割れ鐘の哄笑は不愉快極まりない。
「――来た。来た、来た! 誘き出されてきたな、心優しい『青姫』コーディリア!」
 青い魔力をまとわせて降臨したのは、紛れもなくロジエの人々のよく知る魔女の弟子。
 アデルと呼ばれていた灰髪の娘は、その瞬間、白銀の髪と青玉の瞳の娘へと姿を変えていた。それはまさしく国中の人々が行方を取り沙汰していた『青姫』の名にふさわしい容貌だった。



 

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