第5章 青を恋う
 

 謁見の間の真紅の絨毯の上に突き飛ばされたコーディリアは、後ろ手に縛められた身体を上手く支えることができず、無様に倒れ込んだ。
 ――痛くない。だからこれは夢だ。
(またこの夢なの……)
 倦んだ呟きが漏れるようにこの後の展開は決まっている。
 自分の意志では動かせない身体が勝手に起き上がると、その背中を投げつけられた石礫が強かに打った。のそりと振り返った、そこにも続け様に石が投げられる。
『裏切り者』
『反逆者』
『偽善者め』
 黒い影となって映る無数の民の詰る声が、尖り、あるいは重い石と化してコーディリアにぶつかる。
『恵まれた力を持っているくせに』
『王太子の婚約者だったのに何もしてくれなかった』
『どうしてお前だけ』
(そんなの、私が知りたい……)
 泣きたい気持ちでそう思う。恵まれているから、力を持っているから、誰かのために尽くして弱者を助けて自分を殺すのが当たり前だというのなら。
 そんなものに生まれたくなど、なかった。
 甘えた感情を罰するようにコーディリアの目元に鋭い石がぶつかった。幻の痛みと衝撃に再び倒れそうになった視界を滴る血が赤く染めていく。
 わかっているのだ、こんなこと言ってもどうにもならないなんて。思ったところでコーディリアは自分を捨てられない。力を持つなら持たない者のためになりたいと思うだろう。恵まれているのならそうでない者の最低限の生活を守ろうとするだろう。
 このアルヴァ王国(くるったくに)でそのように育てられ、そうであれと両親が願ったから。
 けれど思ってしまうのだ。力を失って再び真紅の床に倒れこみ、目を閉じても消えない鮮血に染まった視界で、届かない人を思い浮かべながら。
 ねえ。
 ――どうして、助けてくれないの?

 ロジエでの出来事の後に連れてこられたのが王宮でないと気付いたのは、朦朧として断罪の夢と現実の境界が曖昧になっていた意識がはっきりするようになってからだった。コーディリアは外に出るには憚られる薄い部屋着をまとわされ、高い位置にある部屋に閉じ込められて数日が経つ。窓辺にもってきた古い椅子の上で見る空は、こんなにも遠い。
 マリスがやってきたのは初日、あらゆる感情や気力を失った状態でいるコーディリアを嬲りものにするため、足蹴にし、殴りつけ、嬉しそうに笑っていた。
「…………」
 あのときのことを思い出すとおぞましさに震えが走る。
 寝台の上で元婚約者をさらに打ち徹底的に抵抗する気力を奪ったマリスだが、結局決定的にコーディリアを傷物にして屈服させることはできなかった。衣服を剥ぎ取ろうとした男の手は、見えない力によって激しく弾かれたからだ。
『痛っ!? この、まだ俺に逆らうのか!』
 魔力が走ったからだろう、そう言って振り上げられたマリスの拳が見えない壁に阻まれるのをぼんやりと見ながら、コーディリアは(私ではない)と考えていた。
 この魔法は、私のものじゃない。
 では誰がと思ったとき、左腕に残されている指輪が青く見えることに気が付いた。丈夫さが取り柄の髪紐で結えた未だ奪われていなかったそれが力の発生源なのだった。
 マリスも同じように思い当たり、コーディリアの腕から指輪を奪おうとしたがそれも許さなかった。ばちばちと散る光で真っ赤に手を腫らし、奪えぬのなら手首を斬り落とせばいいと剣まで持ち出したが叶わない。ならば殴り殺すしかないと数度殴打されたがそのうち拳も届かなくなった。度重なる暴力に指輪は過剰に反応するようになっていたようだ。わずかでも害意を抱けば相手を退けようと衝撃波を発生させ、誰にも触れられないよう防壁は厚みを増してコーディリアを覆っていったのだった。
 知りうる限りの罵詈雑言を並べ立ててマリスが去り、コーディリアは意識を失った。殴られ蹴られた場所が腫れ、全身の傷のせいで高熱を出しており、同じ悪夢を何度も見て目を覚まし、また眠ることを繰り返した。
 起き上がれるようになったのはつい先日だ。季節外れの古くくたびれた部屋着の下の腕や足、首にも包帯が覗く。そのまま放置されていてもおかしくなかったが、看病と手当てを受けられたのは恐らくマリスの気まぐれだ。
(どうせまたろくでもないことを考えているに違いない……)
 痛めつけて、屈服させられず殺すこともできなかったなら、それ以上の報復を受けさせねば気が済まない。そのための治療だと理解できてしまうのは、やはりそれだけ長く彼の仕打ちを見てきたからだ。
 行儀を捨てて椅子の上で身体を丸めるように膝を抱える。
 ここは恐らく郊外の離宮だ。埃っぽい室内と流行遅れの調度品は、何代か前の王が寵姫のために建造したが魔力持ちの後継が産めなかったというので処刑された曰くがあるため、ほとんど見向きされず放置されていたせいだろう。それにコーディリアの世話をする誰も彼も顔色が悪く怯えているので、これまで王族や関係者との接点がほとんどなかったからだと思われるのも理由の一つだった。
『もしまた逃げたら今度こそあの辺境を火の海に変えてやる』
『日に三度、一人ずつ首を落として街の外壁に晒す』
『それが嫌なら大人しくしていろ』
 マリスは味をしめたのだ。無辜の民すべてがコーディリアへの人質たり得る。魔力持ちの罪人の拘束具である目隠しが施されないのも、決して逃げないと理解しているからだった。
(こんなことならさっさと殺しておくんだった)
 何故そうしなかったのかという理由はあるけれどそれをあの男が理解することは一生ないのだろう。気付かないままコーディリアを甘いと罵って蔑み、己の欲望のままに生きていくのだ。
 抱えた膝に顔を埋めてしばらく。外で立ち話をしている声が聞こえてきた。
 離宮に勤めている老庭師と年嵩の侍女だろう。訪れ人がほとんどないままここで働き続けている者たちは横の繋がりが強いらしく、聞こえているとは思わず交わされる会話を耳にしていると世話をされる側の方が異分子という感じがする。このときは少し感じるものがあってそっと窓を開けて会話に耳を澄ました。庭師は耳が遠く、自然と声が大きくなる。
「そら見たことか。いい加減医者にかかりなさいって。できないならお役目を引くべきだよ」
「そんな金があるものか。それに俺がいなくなったらこの庭はひどい目に遭う。王族や貴族の方々に近い宮殿の庭師なんて誰もやりたがらないんだから」
 憤然と言う侍女と責任感から言い返す庭師のやりとりを窓辺で聞いて事情を知った。どうやら庭師は腰痛と関節痛に悩まされているらしい。医者にかかれと身近な者に言われるくらい、夜になるとひどく痛むようだ。
 しばらく考え、そっと窓から身を乗り出した。
「――もし。そちらのお二人、少しいいかしら?」
 二人の反応は見事なものだった。びくん! と大きく震えると慌ててこちらを見上げ蒼白になり、すぐさま面を伏せる。
「な、なんでございましょう!?」
「ごめんなさい、話が聞こえてしまったの。その庭に薬草はある? あるのだとしたら何が植えられているのか教えてもらえないかしら?」
 階上の囚人が窓越しに投げかけるにしては不可思議な問いだったのだろう。二人とも困惑したように顔を見合わせ、訝しげな面持ちになりながら答えた。
「はあ。あちらの菜園に、料理に使う香草なら大抵のものはございますが……」
「何か、ご入用でしょうか……?」
「ええ。少し待っていて」
 そう答えて目を閉じ、魔力の流れを探る。
 途端、左腕の近くで指輪が揺れた。それは見えない波紋を描き、あたかも暗闇で周囲を探る夜鳥のような力をもたらしてコーディリアに求めるものの在り処を伝えてくる。そこに自らの力を注ぎ込んで流れを太くすると、庭から「うわぁああ!?」と庭師の悲鳴が聞こえてきた。
「な、なんだこりゃ!?」
 上手くいったようだと目を開けて再び庭を見下ろすと、コーディリアが力を注いだ一画だけ異様に草木が伸びている。
「そこにある薫衣草で湿布を作ってみて。鎮痛効果があるから腰や関節の痛みによく効くと思うわ」
「え、ええ……?」
 ロジエでの暮らしで慣れてしまった光景は、しかし彼らには異様に映ったらしい。どうしていいかわからないでいる庭師だったが、侍女が我に返る方が早かった。意を決したようにこちらを睨むように見上げて声を張り上げる。
「こ、こ、困ります! こんなことをされて、王子様に知られたらどうなるか……」
「ごめんなさい」
 魔法を使ったコーディリアとそれを見逃した使用人たちは、マリスの格好の餌食だろう。予想された反応にコーディリアは穏やかに微笑みを返す。
「けれど――薫衣草が咲くにはまだ早いわよね。だったら庭に生えているわけがないと思うの」
 地上からもコーディリアの笑顔ははっきり見えたらしい。ぽかんと口を開けている顔がおかしくて、ついくすりとなった。
「薄荷は風邪予防に。加密列は咳にも胃痛にも効くし、手荒れにも使えるわ。丁子の芳香剤は虫除けになるからいまのうちに作っておくと便利よ」
「あの、ええと」
「念のためにすべて刈り取ってしまってね。大切な庭を荒らしてごめんなさい。それじゃ……」
 窓を閉める直前、はっとしたような「ありがとうございました!」が聞こえてコーディリアは笑みを深めた。けれど応えることはしない。
 あまり接触しすぎるのはよくない。親切心を抱いて行動するより、何も見えない聞こえないふりをしてじっとしている方が自分や他人のためになる。そう理解していても、それは違うと思うのだ。人の心のあり方とは、誰かのためにと行動することは、もっと。何か。
「…………」
 けれどそれが叶わないこの国で、コーディリアはじっと膝を抱えている。



 

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