第5章 不条理の晩鐘
 

 翌日朝食を持ってきた侍女が扉を開けてようやくレアスは解放された。軽く振り向いて尾を揺らしたのは再三口にしていた一泊の感謝の表れだが、そうとは知らない侍女はさっさと姿を消してしまう彼に呆れた顔をしている。
「まあ、せっかく食べ物を持ってきてあげたのに! お嬢様、大丈夫でしたか?」
「ええ。とてもいい子にしていたわ」
 野菜の切れ端が浮かぶスープを口にするコーディリアの顔色がいつもよりいいと笑う侍女こそ表情が明るい。
 悲壮な顔でぼんやりと日々を過ごしていた虜囚が犬一匹の闖入で機嫌を良くしたのだから、一晩気を揉んだ分ほっとしたのだろう。しかしいつもなら食事を出してすぐいなくなるのに今日は居残ってもじもじと衣服の裾を揉んでいる。食事の手を止めてコーディリアは穏やかに尋ねた。
「どうかした?」
 侍女はぴゃっと飛び上がった。くしゃくしゃの裾にますます皺が寄る。
「あの、あのぅ……こんなことをお願いできる立場じゃないって、わかっているんですけど……」
「話してみて。力になれるかもしれないわ」
 微笑みかけたからか、肩を縮めて躊躇っていた彼女はわずかに肩の力が抜いて、恐る恐るといった様子で声を潜めた。
「昨日の薬草のことで……その、私たちじゃ、欲しいものを作ることができなくて……湿布だとか香草(ハーブ)水、虫除けなんかは作れるんですけれど、できればもっと上手く使えないかと思って。せっかくあんなにたくさんあるんですから」
「そういうことだったら」とコーディリアは自分の知る限りの処方を書いて渡すと約束する。元はグウェンとウルスラの処方箋だが、二人ともそれらを秘密にする気はなく人々に求められるままに教えていた。「自分で作れるようになれば余計な仕事が減る」といつもの口の悪いウルスラが本当に優しいのは、危険な植物を扱う処方を秘匿していた部分にもよく表れている。
 侍女は筆記具を持ってくると「お願いします」と頭を下げて食器類を片付けていった。
 ふと犬の声がした。別れの挨拶と思しき声にコーディリアは窓を覗き込んで姿を探しながら、朝になってレアスが告げた言葉を思い返す。
『指輪は肌身離さずお持ちくださいますよう。奪われそうになったら抵抗し、ご自身のものであることを主張してください。それから本当にどうしようもなくなったときは我があるじの名をお使いください』
 この中でできるのは指輪を持っていることだけ。
 助けを求めるなんて、いまさらできないし、しようとも思わない。けれどレアスはそれを見越して言ったのだろうし、そう言うように命じたアルグフェオスも理解しているのだと思う。
(嫌って、見限って、忘れてしまえればよかったのに)
 けれどそうするにはあの青が。
 彼の髪と瞳と、優しい微笑みが心を縛るから。
 彼の従者の声は聞こえず、姿も見つけられなかった。窓辺を離れ、コーディリアはそれからしばらく簡単な処方や予防法など香草の使い方を書く作業に集中した。
 異変は、真昼を過ぎた頃に始まった。
 廊下で荒々しく言い交わす声を聞いた。いや一方が相手の言い分を封じる勢いで怒鳴っているというのが正しい。
「おっ、お嬢様のお支度が」
「俺ではなく着替えを優先させろと言うのか?」
 そうだと言えば拳が飛ぶ。だが彼を優先させると、支度もさせずに謁見させるのかと怒りを買う可能性もある。どちらが正しいのかわからなくて言われた側は混乱する。あの男がよく使う手だ。
(やれやれ。やっとお出ましか)
 殴りつけられた勢いで扉が開く。紫眼を嫌らしく眇めてマリスは縮こまる侍女へ顎をしゃくった。
「そら、ちゃんと寄越してやった服を着ている。支度などする必要はないだろう」
 薄物の部屋着姿を家族以外の異性に晒すのが常識ならそうだろう。そもそも訪問着など一着も用意されていないのだが、コーディリアは黙って下がるよう侍女に目配せしてマリスに対峙する。
「家族でもなんでもない、部屋着姿の異性のところに不躾にやってくるなんて、相変わらず非常識な人ね」
「お前も変わらず自分の状況を理解しないまま大きな口を叩くじゃないか」
 声を荒げず、しかし歪んだ笑みを浮かべているマリスはいつもより少しばかり機嫌が良さそうだ。薄着のコーディリアを舐め回すような視線が不愉快だが、身を隠すような真似をすれば嗜虐心を煽るだけだと、透けて見える身体の線を晒して堂々と向かい合う。
「それで何の用? また魔力に弾かれに来たの?」
 痛い目を見た上に醜態を晒した記憶が蘇ったのか、マリスの笑みにひびが入る。目尻がひくひくと震えるのを堪えているのを眺める、その静かな視線が気に食わなかったのだろう。次の瞬間コーディリア目掛けて椅子が蹴り飛ばされた。コーディリアはけたたましい音とともに倒れる椅子には目もくれず、マリスの顔が赤黒く染まるのをつぶさに観察する。怒りを目の当たりにすればするほど思考も言葉も冷えていく。
「本当に変わらないのね。自分の感情を表現する術を知らない。怒りどころか喜びすら暴力でしか表せない、言葉を覚える前の幼子のよう」
「知ったような口を!」
「けれどいい加減理解するべきだわ。この世には暴力では絶対に屈服させられないものがある。思い通りにならないものの方が多いのだということを」
 ばしっ、と投げつけられた魔力が目の前でばらばらに砕け散る。反射的にやり返そうと試みるもそれだけは思い通りにならず、集めた端から魔力が散った。どうやら指輪の縛めは未だコーディリアを攻撃させないつもりのようだ。
「どうした、やり返してみろ!」
 安い挑発は耳障りで、床を抜いて地面に埋まってもらおうか、遠くに飛ばして戻って来られないようにしようかなどと考えたのだが、これにも魔力は応じてくれない。
(万物の拒否――魔法の規模は小さいけれど、力を貸すまいと拒絶される現象がこれなのね)
 一国を滅ぼすような大量の魔力消費が見込まれるときは万物の魔力供給が止まると説明されたことがあったけれど、恐らくこういう状態を指すのだ。魔力の流れを調整する翼公なら人間一人の魔法行使を阻むなんて容易い、それに忌々しさを感じるのはここに至ってなお彼がコーディリアの清らかさを守るような真似をするせいだ。
 顔を上げ、ゆるりと視線を投げる。
 窓という窓、扉と扉が魔法の封印を逃れて大きく開け放たれた。
 急激に吹き込んだ風に室内のあらゆるものが大きく音を立てて動き、あるいははためいた。マリスの整えられた髪も衣服も。コーディリアもまた、部屋着の裾から剥き出しの足がひらりひらりと覗く。それを揺らぐ瞳で魅入られたように凝視するマリスにとって、乱れた銀糸の髪をそのままに手を後ろにして小首を傾げるコーディリアはどのように映ったのだろう。厳重な魔法の封印をそれらしい動作一つなく破ってしまう妖女か、それとも。
「――許しを乞え。己の所業を悔い改め、俺に従うと誓え。そうすれば命だけは助けてやる」
 いつかと同じような要求にコーディリアの答えは一つきり。
「死んでも、ごめんだわ」
 微笑みと告げたそれが、コーディリアの最後を決めた。
 その日のうちにコーディリアは王宮、国王の御前にて開かれる詮議の場で裁きを受けるよう命じられ、夜が明けると着の身着のままで王宮にて裁かれる罪人として街の人々の晒し者となった。


 王宮への道のりはロジエでの生活で山歩きに慣れているとそれほど遠くはない。ただし初夏とはいえ薄物の部屋着に裸足で、後ろ手に縛られて家畜のように連れられている姿を人々の注目を浴びながら歩くのは精神的に大きく負担をかけた。つい俯きがちになる顔は心を奮い立たせて、拾ってしまう人々の声に表情を変えないよう気持ちを固める。
「あれが青姫……?」
「国を滅ぼそうとした魔女だとよ」
「私たちが飢えて死ぬように呪いをかけたんですって……」
 国内の不作の理由をコーディリアになすりつけ、蔑称として『魔女』呼ばわりしている人々がいるかと思えば、何も言わず涙ぐんでこちらを見守っている人の数も少なくない。だが一番辛かったのは何も知らないであろう子どもたちの純粋な興味を宿した無垢な目だった。コーディリアが去った後、教える者の思惑とは別に悪人だと信じて疑わずに生きていくであろう彼ら彼女らに、残してやれるのがこんな国だとは。
 かつん、と道行く先に石が投げられた。かつん、ごつ、がん。小石もあれば瓦礫らしき塊も、塵もある。
 衝突する前に魔力の壁にぶつかって落下するが、無数の礫はコーディリアの身の安全と引き換えに空気を震わすような恐怖となって押し寄せた。
「ま、魔女……これが……!」
「逃げろ、見られただけで殺される!」
 瞳には魔力が宿ると信じられている通り、視線から逃れようとする人々を見ないようにコーディリアは空を仰ぐ。
(……ああ……なんて綺麗な青空なんだろう……)
 奪い取られなかった、奪われることを己から拒んだ指輪を意識する。
 どこにいるのかわからない家族も、ロジエにいるグウェンとウルスラ、そして彼も、その従者たちもこの空の下にいるのだと思う、それがコーディリアの冷たく傷付いた足を進める力になってくれる。



 

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