第6章 愛を求め愛を得る
 

 アルグフェオスに連れられたコーディリアを見たアントラエルが、その姿形を伯爵家の人々に話して聞かせ、エルジュヴィタ伯爵令嬢であると確信を得るに至ったこと。
 コーディリアに側付きの打診をして断られたことを話すときは懐かしそうに苦い微笑みを浮かべたが、彼はそのとき翼公としてアルヴァ王国への積極的な介入と粛正を決意していたという。
 だが一方で未だコーディリアの行方が知れないことに業を煮やしたマリスも行動を起こしていた。仲は冷え切っていても幼少期から付き合いのある元婚約者の慈悲深さや罪の意識に付け込む形で街に火を放つという凶行に出たのだった。
「あの頃のマリスは『コーディリアは翼公のもとにいる』という考えに取り憑かれていたようだ。君への執着心と私への対抗心が生んだ妄想だが、当たらずとも遠からずだったね」
 そういえばそんなようなことを言っていた気がする。コーディリアと翼公の接触を阻止していたマリスだから、己の最も望まない状況になっている可能性に取り憑かれて、我慢ができなかったのだろう。
「あの人は本当に、私が幸せになることが許せないのね。自分の手から離れた途端に所有物であることを主張する。近くにいたとしても、気まぐれに痛めつけてすぐ飽きて忘れる。あんな人を私は、どうして……」
 愛されたいなんて。愚かなことを願った。
 打ち砕かれた思いはいまも血を流し、胸を赤く染めている気がする。どれほど素直に幸福を求めても、神鳥の風を感じ、アルグフェオスの翼に守られても『愛されたかった』という傷はきっと永遠にコーディリアを苛むのだろう。
「コーディリア。マリスは……」
 どこか切迫したように呼ばれたが、アルグフェオスはそれきり口を閉ざしてしまった。何か言いあぐねて、じっとコーディリアに視線を注いでいる。
「どうか、した?」
 いや、と言い、アルグフェオスはコーディリアの、まだ指輪を結えた左手を取ると、薬指の付け根にそっと唇を落とした。
 びくりとしたが手を引くことができず不自然なほど硬くなっているコーディリアをアルグフェオスの青い瞳が捉える。そこに映る自分がどのように見えるのか、知りたいような、知りたくないような複雑な気持ちで視線を彷徨わせると、戸惑いすら受け止めようとする彼の胸に抱き寄せられる。
 人の温もり。誰かに守られ、支えられているという実感にまた泣きそうになる。
「コーディリア」
 コーディリアはそろりと目を上げ、真剣な顔をしたアルグフェオスを見つめた。
「……もう十分すぎるほど理解できてしまっただろうけれど、神鳥の一族や翼公は決して万能でも自由でもない。様々な制約や掟に縛られて思いを遂げることすら困難を伴うときがある。私たちは強制できない。自らのしきたりと人の世界の法に照らし合わせた搦手を用いるのが精一杯だ」
 この手を、とコーディリアの左手を捧げ持ちながら。
「この手に触れられたいと願ったとき、君がそれに応えるか否か。隣にいて欲しいと望んで、君が頷くかどうか。言葉を尽くし環境を整えることはできても、最後の選択は常に君に委ねられる」
 指輪もそうだ、と彼は言う。指輪を渡してコーディリアが受け取らなかった場合、あるいはどこかの段階で捨てられた、または何者かに奪い去られたとき。コーディリアが所有権を主張しなければ、アルグフェオスはマリスに告げた四つ目の罪の――伴侶と定めた翼公の身内であるという宣言ができなかった。
 いくつもの偶然で生まれたどこかで吹いた風が、いくつも連鎖して大きな風を生んだ。この国の淀みを吹き飛ばす大風は、誰かが諦めたり行動を起こしたりしなければ消えてしまっていた。
 奇跡。神鳥に等しい力を、人はそう呼ぶのだ。
「君を守り抜くと誓えても、君が嫌悪する者の排除はできない。たとえ番となって翼公の片翼と見做されても同じ権限を与えることはない。むしろこれまでのすべてを捨ててもらわなければならないんだ。家族も家名も身分も、国すらも置いて、ただのコーディリアにならなければ、私は君を諦めなければならない。求めてばかりなんだ、私たちは」
 アルグフェオスは苦く、わずかな嫌悪と諦観を滲ませて微笑する。
「そう、愛する人に無力になれと乞うんだ。自由に羽ばたいていたはずの鳥を自らの元に繋いで、ともに飛んでくれと言う」
「アルグフェオス……」
「君には自由でいてほしい、でも、私は君が欲しいんだ。コーディリア、君を愛を、どうか私に」
 コーディリアの瞳から涙が一粒、零れ落ちた。
 初めてマリスと出会ったときのこと、王太子の婚約者としての不遇の日々、いくつもの別れ、悲しみ、決定的な断裂に、逃亡先での日々、恐れ、憎しみ、王都の方面の空を見て思ったこと、いくつもいくつも瞬間的な一枚絵となったそれが凝った透明な雫。
 頬を一筋濡らしたまま、コーディリアは不思議と穏やかな気持ちで微笑んでいた。
「――あなたの求めるままに。私もあなたの側にいたい。あなたを、愛したい」
 そっと伸ばした手を頬に添えて、唇を寄せた。
 重なったそれはかすかに震えていた。コーディリアの心のように。
「コーディリア?」
 だが次の瞬間青白いほどだったコーディリアの頬は果実のように真っ赤に染まり、一気に脱力感が襲って、姿勢を保てなくなった。
「大丈夫かい?」
「ご、ごめんなさい、あの。……自分からこうするのは、その…………初めてだったから……」
 さらに言えば異性と口付けしたのもアルグフェオスが初めてだ。マリスとはあくまで婚約関係、公の場での挨拶が精々だったから、自分から唇を寄せるなんてことも一度もなかった。
「初めて。……初めて……」
「繰り返さないで!」
「いや、ちゃんと覚えておこうと思って。きっと思い出すだけでしばらく幸せな気持ちに浸れるだろうから」
 大真面目に言われて余計にたまらなかったが、これ以上浸られると今度は羞恥心で真っ赤になりそうだった。
「ねえ。一つだけ、お願いしてもいい?」
「ん、何だろう?」
「呼び方のこと。あなたのことを『アルグス』と呼びたいんだけれど、いい?」
 そんなこと、とアルグフェオスは笑った。
「ずっと律儀に呼んでくれるとは思っていたけれど。もちろん、好きに呼んで構わない」
「ありがとう! ええと……アルグス」
 口に乗せた名は甘く、砂糖菓子を食べる子どものようにコーディリアははにかんだ。響きを味わうように小さく、声に出さずに繰り返してから改めて呼んでみる。
「……アルグス?」
「なんだい、コーディリア?」
 喜びに胸をくすぐられてコーディリアのくすくす笑いはなかなか止まらない。だからつい恥ずかしい本音を口にしてしまっていた。
「アントラエル様が呼んでいたのを聞いて、ずっと羨ましかったの。呼んでみたいけれど呼べるわけがないと思っていたから、いまとても、嬉しい」
 薄紅に染まる頬、震える銀の睫毛と潤む青の瞳。月明かりに光る銀の髪と白い肌は物語の乙女のように美しいが、いまにも歌い出しそうな喜びがふわふわとした輝きでコーディリアを彩っている。
 しかし鏡のないこの場でコーディリアが自身を見ることはない。アルグフェオスが泣きたいような叫び出したいような、昂る愛おしさに胸を熱くしているとも気付いていなかった。
 だから突然の口付けに、息ができなくなった。
「アルグ、ぅ」
 鳥が啄むような口付けが唇に、瞼に、頬にこめかみに、何度も繰り返される。身を竦ませるだけにコーディリアをアルグフェオスは唇を寄せる合間に笑う。どこまでも愛おしげに。いとけないものを慈しむように。
「私の番であることが君を苦しめ、選択を迫るとしても、覚えていて。私は君を愛している。君が君である限り、持てるすべてで君を愛していると」
 その意味を、いつか心が傷付くほどに思い知る日が来るのかもしれない。
 けれど口付けられているいまは、そんな瞬間が絶対に訪れることはないと信じてしまえそうだった。
 それでも、彼とともに在る幸福のためにはまだやらなければならないことがあった。



 

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