終章 番の君
 

 目まぐるしい日々のうちに秋が過ぎ、気付けば遠く透き通るような冬空が広がるようになっていた。きっとロジエではもう雪が降っている。峻険な山々に被る銀雪を思い、それをもう一度見る日をコーディリアは楽しみにしていた。
 ――アルヴァ王国に風を吹かせた青姫。
 いつの間にかコーディリアがそのように呼ばれていると教えてくれたのはイオンだった。伯爵家の片付けに赴いたときに街の人々から声をかけられたと、支度を手伝いながら教えてくれる。
「青姫様がこの国を変える風を呼んでくれたのだって、みなさん感謝していらっしゃいました」
 王都にあったエルジュヴィタ伯爵家の屋敷は、荒らされていたものを片付けて修繕している最中だ。両親と、コーディリアの世話をしてくれるイオンを除いて、家の者たちは伯爵家に戻って街の人々たちの手を借りながら作業をしている。だがそれももうじき終わると聞いていた。
「屋敷にお戻りになるならひと目お会いできたかも、なんて言う方もいらっしゃいましたわ」
「まるでもう会えないような言い方ね」
 くすりと笑うと鏡向こうのイオンが「まあ」と目を釣り上げた。
「何を仰います、そうなるんですよ! これから人の世を離れて翼公のお側に上がるんですから」
「まだ婚約もしていないのに?」
 先日訪ねてきたレアスとカリトーもそうだった。
 アルグフェオスに命を受けて様々な仕事に飛び回っている彼らは、ようやくルジェーラ城に戻る予定が決まったらしい。城で留守番をしているアエルが、コーディリアが戻ってくるのを心待ちにしていると教えてくれた。
「衣装を合わせなければと張り切っておりました。早速アレクオルニスに布や糸を頼んだようなので付き合ってやってください」
「厨房の者は魚料理と肉料理を覚えたのでお味見をしていただきたいと申しておりました。もちろん甘味の類もです。楽しみですな!」
「まるで私がルジェーラ城で暮らすことが決まったような言い方ね」
 せっかちだこと、と笑うと二人は目を剥いた。
「違うのですか!?」
 声を揃えて叫ぶのでコーディリアは大笑いした。
 違うわけではないけれど、まるで決定事項のように言われたのでつい悪戯心を起こしてしまった。ひとしきり笑った後、アエルによろしく伝えてくれるよう頼むと、やっと彼らは安心してくれたのだ。
 思い出し笑いをしているとイオンがむくれた。
「もう、だったらこれは何のためのお支度なんですか? 今日、これから、婚約式をなさるんでしょう!」
「あははっ、嫌だわイオン、そんなに腰を締めないで。苦しい」
「ぎゅうっぎゅうに締め上げて差し上げます。翼公とご婚約する世界一美しいリア様を、私が作ってみせます!」
 翼公の番は、俗世と縁を切り、身分を捨てて身一つである必要がある。家族も友人も、その名以上のものではないと心得て別れを告げなければならない。屋敷に『帰る』『戻る』とはもう言えなくなる。
 花嫁姿のコーディリアを見るのが夢だったイオンだが、コーディリアが正式に翼公の番となるときに彼女がそこにいられるかはわからない。だからこれが、彼女がコーディリアの支度を手掛ける最後の機会になるかもしれないのだ。
 イオンは心血を注いで支度に集中し、コーディリアも黙って従った。そうしながら付き従ってくれた友が真剣に仕事をする姿を目に焼き付けた。
 コーディリアをきっかけとしたアルヴァ王国の混乱は、マリスの処遇が決まったことでようやく収束の兆しを見せた。
 国王は一時的に国政に携わることを禁じられ、魔法医の監督下で療養する。
 そして次期国王であったマリスは死刑に処されず、王位継承権を剥奪されて王族ではなくなった。仮の身分の男爵を名乗らされ、国内最北の雪深い地の守護代に随伴する。辺境伯が治める地に王宮から出向する者の部下として赴くのだが、逃げようにも協力者がいなければ困難な土地で、それゆえに住民たちの結束力は固く、これまでのように振る舞えば反感は必至。頼れるものは自分自身という環境で、変わらなければ生きていけない。そういう罰が下されたのだ。
 その刑罰もまた、コーディリアの噂を加速させるのに一役買ったらしいとイオンから聞いている。慈悲深い青姫などと呼ばれていると知ったときは失笑してしまった。
 コーディリアはただ、マリスに生きるよりも重い罪はないと思ってそれを望んだだけなのだ。これより先に彼が幸せになる可能性は限りなく低いと知っていて、生きろと言った。
 国王やマリスに限らず、政を恣にした貴族たちも厳罰に処された。国政を担う者がいなくなるので刑の執行は順次となっているが、この間の働きによっては減刑される可能性もあり、いまのところ王宮には穏やかな時間が流れている。そうして少しずつ、無実の罪で投獄されていた者や、処罰を受けて日陰の暮らしをしていた者たち、身を縮めて暗澹たる日々に心を閉ざしていた人々が解放されていくと、コーディリアにも王宮が、王都が、そしてこの国が変化していることがはっきりと感じられるようになった。
 国が開かれれば誤った知識は改められ、近い将来、魔力持ちたちは正しい力の使い方を知り、目や身体の痛みを感じながら魔法を用いることはなくなるだろう。外国の人々の訪れが新たな思想や感性となり、魔力の有無による差別が古い価値観だと嫌悪する世代が現れる日が来る。
 もう青い瞳の子どもが王家に未来を奪われることはない。
 ――コーディリアとマリスも正式に婚約を解消した。
 それを見守っていたアルグフェオスも機が熟したのだと思ったのだろう。婚約したいと打診があり、長らく持っていた指輪を嵌める今日この日を迎えた。
「御髪はいかがしましょう?」
 服を着付けたイオンに尋ねられ、コーディリアは背筋を伸ばして返す。
「髪は結わずに、流して、髪飾りをつけたいわ」
 口にして、笑みが零れた。イオンも笑っていた。
 薄く化粧をし、髪を梳いてもらって髪飾りをつける。そのとき、こちらを、とイオンが恭しく箱を差し出してきた。
「ご主人様と奥様より、リア様に」
 布張りの箱の中には銀細工の小さな宝冠が収められていた。植物の蔓が絡む花冠を思わせるもので、慎ましく可憐なそれを準備した両親の思いを感じた。着けられるのはこれ一度きりと知っていても、娘に贈る心からの餞。
 感謝の涙を浮かべる目を伏せ、イオンに頼んで宝冠を着けて着替えを終える。
 立ち襟の首元や鎖骨、袖にかけてレースに覆われた白いドレスだ。レースの内に大輪の薔薇が開き、胴回りまで続く。腰から下は雰囲気が変わり、装飾のない純白の布が流れて落ちるだけ。しかしよく見ればささやかな金剛石の粒が虹色の光を弾く。
 花嫁衣装を思わせるドレスを感慨深げに眺めたイオンは大きく息を吐き、裾を摘んで膝を折った。
「青姫の呼び名にふさわしいお姿です。本当にお美しゅうございます、コーディリア様」
「ありがとう、イオン。まるで鳥になったようだわ。どこまでも飛んで行けてしまいそう」
 布の質感を活かす軽やかなドレスはいまや主流となり、裾を短くした意匠もちらほら見かけるようになった。身軽になると心まで軽くなる。これからは宮中を颯爽と歩く女性たちが見られることだろう。
「飛んで……行ってください。どこまでも」
 イオンが恥じたように面を伏せる。コーディリアは両手を広げて彼女を抱きしめた。
「もう二度と会えないわけじゃない。帰ることはなくなってもあの屋敷は私の家、何かの用で立ち寄ることがないとは言えないし、ここではないどこかで私を見かけることもあるかもしれないでしょう。それに俗世を捨てたところで私は私だもの」
 銀の髪青い瞳の魔力持ち。伯爵家に生まれ、強い魔力を持っていたことからこの国の次期国王の婚約者に選ばれた。
 それが銀と青と魔力を持つただのコーディリアになるだけ。
「身分があり、主従の関係があった。だからこの言葉は真実だと思ってもらえないかもしれないけれど……」
 いま気付く。それを告げるのがずっと怖かったこと。マリスや王宮で接する人々のように、何かの瞬間に壊れてしまいそうな関係ではないかと怯えていた。だから言えずにいたそれを、やっと伝えられる。
「あなたはずっと私の大切な友人。これからもきっとあなたと越えた日々を思い出す。あなたに支えられ、飛び立つこの日を忘れない。あなたにしてあげられることは決して多くはなかったけれど、あなたが苦しみ、悩み、生きる希望を失う日が来るのなら、私は必ず力になる。決して大きくはない小さな翼だけれど、あなたを包み、守ることはできるはずだから」
 リア様、と嗚咽混じりに呟いたイオンが自らも両手を回して抱き返してくれる。
「私も、使用人の身ながらリア様を友人のようだと思っておりました。しっかりしているようで脆いところがあって、絶えず努力するリア様を尊敬して、少しでもふさわしい人間になりたいと、思って……ああ、もう、だめです。離してください。せっかくのご衣装が私のせいで汚れてしまいます……」
 止まらない涙を拭いながらイオンはコーディリアから離れる。ぽろぽろと柔らかな涙を溢れさせながらイオンは満面の笑みを浮かべた。
「どうかお幸せに。私の、コーディリア様」
 イオンとの別れを終えたコーディリアをレアスとカリトーが迎えに来た。伴われた両親はコーディリアの姿に心震えた様子で、溢れる涙を止められないでいる。
「お父様、お母様。いままでありがとうございました。お二人の思いに守られ、いまここに立てることに深く感謝申し上げます」
 母は首を振る。父は万感の思いを込めてコーディリアの肩を撫でた。
「私たちの願いが、そうであれと祈り育てたことが長くお前を苦しめたこと、本当にすまなかった。間違っているのではないかと後悔したこともあったが、お前がお前らしくあることがこの未来を導いたことを誇りに思う。私たちの想像以上にお前は素晴らしい人間になってくれた。だから遠く離れたとしても必ず幸せになると信じているよ」
 父と母と抱擁し、視線を交わして微笑み合う。
 マリスと婚約したとき、家族が別れる日は必ず来ると決まっていた。その婚約が破棄されたことで早々に訪れた別離だけれど、不幸になるとわかっているものでなくてよかったと、心から思う。
 後ろに父母を連れ、レアスとカリトーに案内されて奥庭に足を踏み入れる。
 晴れた秋空、心地よい風が芳しい木の葉と薔薇の香りを運んでくる。揺れるのはコスモスの花。薄紅色、白、赤と咲き群れてまるで花の海だ。海を渡るように小道を進んでいった先に、立会人の聖職者と、グウェンとウルスラ、青い髪を揺らす濃紺の装束をまとったアルグフェオスが待っている。
 襟を合わせる一族の衣装は、今日は肩に銀と青糸で織った華やかな短い羽織りもので肩幅を強調し、腰は目にも鮮やかな幅広の帯を締める形だ。大きく開いた袖口から覗く腕は白い襯衣に包まれている。黒い革靴にも銀の刺繍が施され、今日のアルグフェオスも思わずため息が出るほど凛々しく美しい。
 彼の前に立ったコーディリアは思わず膝を折りそうになって、肩を支えて止められた。
「跪く必要はない」
「でも」
「むしろ膝を折るのは私の方だよ」
 そうして本当に跪こうとしたのでコーディリアも慌てて制止する。せっかく綺麗に粧ったのにちょっと汗をかいてしまったが、膝を折った翼公に嫌な汗が止まらなくなる方がもっと嫌だ。そんな一幕を見守る人々は微笑ましそうに笑みをこぼしている。
 両手を取られて改めて向き直ると、間近で見るアルグフェオスの青い眼差しの柔らかさに胸をくすぐられて正視できなくなってしまう。熱を感じる頬は頬紅よりも赤くコーディリアを彩っていることだろう。
「コーディリア。私の思いが君を縛ると知っていても、なお望まずにはいられない。君の翼を私に与えてほしい。寄り添い、支えてほしい。もしも応えてくれるなら私の翼が君を包み、守るだろう。その身も心も凍えることがないように」
 愛されない、名ばかりの婚約者だった。
 何を言っても届かない。忠告は跳ね除けられ、優しくすれば媚を売ると嘲笑された。婚約しているのに他の女性と睦み合うところを見せつけられ、無実の罪で投獄され、一方的に婚約破棄を告げられた挙句に道具にされそうになった。
 逃亡して、復讐の機会を伺った。もし己の欲望のために人々を虐げるような真似をすれば絶対に邪魔をしてやろうと思っていた。もう二度と誰かを愛したいとも愛されたいとも思わないだろうと考えながら。
 そうして、いま。
 風が吹いた。神鳥ではない、いまコーディリアの手を取るこの人が、倦んだものを吹き払って世界を開いてくれた。
「……あ」
 自然と溢れた涙に驚いて声を上げてしまったが、コーディリアは一度目を伏せるとアルグフェオスに微笑みを向けた。
「あなたは、私の翼。飛ぶことを忘れた私に吹いた風。あなたがいるから、私はこの世界を愛おしむことができる」
 預け返していた指輪を、宝石台を捧げ持ったカリトーが恭しく差し出す。
 アルグフェオスはそれをそっとコーディリアの左薬指に嵌めた。
 一度も指を通したことのないはずなのにぴたりと添う不思議な指輪だった。
「君は私の片翼、君がいなければ私は飛ぶことができない」
 威厳のために感情を抑えた声だったけれどはっきりわかるほど喜びが滲んでいた。幸せで笑いたいのに震えてしまうコーディリアの唇に、アルグフェオスが口付けを落とす。「愛している」と囁かれ、「私も」と小さく呟いた。
「対の翼を見つけられましたこと、心よりお祝い申し上げます」
「我ら御羽を与えられし一同、青き神の鳥の祝福がお二人に永久に吹きますようお祈り申し上げます」
 カリトーとレアスが跪く。
「アレクオルニスからもお祝い申し上げます。神鳥の一族の裔とその翼の幸いが、青き風とともにあらんことを」
 神殿島の聖職者が寿ぐと、グウェンとウルスラ、そしてエルジュヴィタ伯爵夫妻が追従するように膝を折った。
 コーディリアを見つめる優しい人々の慈しみの視線。そして愛を伝える、唯一の人の青い青い瞳。
「行こうか」
「はい」
 指輪を得た左手を取られたコーディリアは美しく温かい魔力に包まれて、アルグフェオスとともに新しい世界へと飛び立った。



 

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