終章 愚者と求愛者
 

 アルヴァ王国を含むルジェーラと呼ばれる圏域の魔力の流れが少しずつ増しているのを感じる日々に、翼公となったアルグフェオスは安堵の息を吐いた。
 魔力を探っていた感覚を閉じ、周囲を見れば、国を象徴する王宮の景色が目に入る。
 よく見れば建物は老朽化し、汚れが溜まり、絵画や花瓶などの飾り物は長く手入れを怠っていた。王宮を歩き回ることができるアルグフェオスは知っている。古さや汚れ、怠慢はいわゆる外だけのこと。国王や王子など権力者の目に留まる部分だけが美しく保たれ、繕われていた。
「あるじ様」
「来たか」
 はい、とレアスが頷き、アルグフェオスは目的の部屋に向かう。
 後ろに付き従いながら何か言いたげにしている羽子に歩きながら声をかけた。
「まだ反対しているのか、レアス」
「反対、というより、ご不快な思いをされるに違いないと案じております。何故わざわざあのような……」
 賛成していないのだから反対と言ってもいいだろうに、アルグフェオスはくつりと笑った。
「そんなにおかしいことかな。私の番の、元婚約者に会おうというのは」
 レアスのため息がすべてを物語っていたが、アルグフェオスはそれを颯爽と聞こえないものとして聞き流した。
 正式な婚約してはいないが思いを通じ合わせたコーディリア。アルヴァ王国では魔力を持つ人間と結婚するのが王族の慣例であり、彼女は次期国王である王太子マリスと幼少期から婚約させられていた。だがその関係が決して良好と呼べなかったことは、この国の誰でも、来訪者であるアルグフェオスらも知るところだ。
 ただ、それだけではないのだろう、とは思っている。それを確かめるために会う必要があった。
 マリス・アクア・アルヴァはすでにその部屋で待っていた。傍らにはカリトーとアレクオルニスの聖職者が一人、そしてアルヴァ王国の侍従長が付き添っていたが、アルグフェオスの来訪に全員直立して頭を下げた。
 唯一マリスだけが何も感じていないような顔で座っている。王族らしい服装ではなく地味な公人の制服だ。
「先立っては翼公のマリス様へのご厚情を賜り、誠にありがとうございました」
 マリスに苦々しく呆れた視線を一瞬だけ向けてから侍従長が告げる。
 先日行われた裁判の結果、マリスは北部の辺境伯領に官人として赴任することが決まった。もちろん役職はない。元王族として優遇することないよう、関係者には厳命している。生きるよりも重い罪はないというコーディリアの考えを尊重した結果だ。
 傲慢な王族であったマリスに何の権限もない官人として扱われるのは屈辱的だろうが、こちらを見もしない態度はそれを不服としているのがありありとわかる。
「助命を嘆願した者がいた、それに配慮した結果だ。感謝するならコーディリアにするといい」
「…………」
 その名を聞いたマリスの肩がかすかに揺れた。
 やはりか、と思いながらアルグフェオスは集う者たちに言う。
「少し外してほしい。彼と二人で話がしたい」
 レアスがため息を吐いてカリトーが苦笑いする。聖職者は困惑顔で、侍従長に至ってはどうしたものか視線を彷徨わせている。だがアルグフェオスが微笑んでいると、付き合いの長い羽子たちは早々に諦め「参りましょう」と他の者たちを促した。
 扉が閉まる音がして気配が遠ざかると、アルグフェオスは微笑みを消してマリスを見下ろした。
 視線に気付いてマリスは顔を上げる。
 強い憎悪と怒りがぎらついた紫の瞳に、アルグフェオスは小さく笑みを吐くと椅子を引き寄せて彼の正面に腰を下ろした。
「人払いしたので、不敬だと騒ぐ者もいない。好きに話すがいい」
 それでもしばらくマリスは動かなかった。睨む目を見つめ返しながら、まるで先に目を逸らしたら負けだと思っているようだと思う。
「……何を、しに来た」
 微かすぎる声。最初に言うのがそれかとつい笑ってしまいそうになる。
「君と話をしようと思って」
「貴様と話すことなどない」
「私にはある。コーディリアのことだ」
 マリスははっきり顔を歪めた。婚約者だったマリスと、これから番を誓おうというアルグフェオスが揃って話すことといえばコーディリアにおいて他にはない。
「あの、女の……」
「コーディリアに関する君の行動に疑問を覚えたので、それを確かめようと思ってね。コーディリアに置かれていた状況についてはもう説明する必要はないだろう。幼少期から君の言動に振り回され、従順に、要求に応えようと努力していた。君はさらに不可能な要求を突きつけ、彼女が困る様を楽しみ、蔑んで笑っていた」
「従順?」
 マリスが鼻で笑う。
「あの女のどこか従順だ? 困った振りで仕方がないと微笑みながら、腹の底では俺の無能を笑っていた。俺には何もできないと、だから自分がやって『あげよう』などと恩着せがましい偽善をいつも、いつもいつも振りかざしていた女だ!」
 口火を切って止まらなくなったマリスは歪んだ笑みでコーディリアを卑しめる。
「あの綺麗な顔で、美しい所作で、自分が恵まれた立場にいることを自覚して、己の義務を果たす。自己を犠牲にすることに酔いしれ、それ以外の方法を知らぬ愚か者。人助けや弱者の庇護が使命と言いながら、胸底に渦巻く己の欲望を口にもできない臆病者だ!」
「君は」
 黙って聞いていたアルグフェオスの一言に、マリスははっと大きく揺れた。
 それを青い視線で縛りながら、確信を持って告げる。
「君は、本当はコーディリアを理解している。それほど彼女をよく見ていた」
 婚約者の言動に振り回され、要求を叶えようとし、王太子に代わって様々な仕事をしていた。自身の立場を知り、持てる者の義務を果たす。そして自身を殺すことが当たり前になって、傷付いている自覚がない。
 貶める言葉ではあるが、それらはコーディリアを知っていなければ出てこない評価だった。
「君から見たコーディリアは完璧なほど立派に映った。魔力はもちろん、立ち居振る舞いや日頃の行い、人々から慕われるところ、君が欲するものを彼女は持っていた。だから攻撃せずにはいられなかった。羨ましいと言えず、彼女の行動に習うには自尊心が邪魔をして、コーディリアの優位に立たなければ自己を保つことができなかった」
 王族の一員として、次期国王として誰にも劣ってはならないという意識が、周囲を貶めることで自らの立場を高めるという誤った行動を引き起こし続けた。それはコーディリアに対しても例外ではない。
 マリスの表情から感情が抜けていく。
 アルグフェオスは確信を持って告げた。
「君は、ずっとコーディリアを愛していたんだ」
 ――がぁんっ! と、倒れた椅子が激しい音を立てる。
 勢いよく立ち上がったマリスは目を赤く充血させ、肩を揺らすように大きく喘いでいる。いまにも飛びかかってくる獣のようだ。
(あるじ様。いかがなさいましたか)
(椅子が倒れただけだ、レアス。カリトーにもそう言っておいてくれ)
 優れた聴覚を有する羽子の呼びかけに応じて、アルグフェオスは魔力を操って椅子を元の位置に戻す。
「……何、が……お前に……」
「かけなさい、マリス」
「お前に何がわかる!?」
 そう叫ぶ己が最もわからないでいる、そんな悲痛な声だった。
「わからないはずがない」
 アルグフェオスはそんな惨めな男を青い瞳で静かに見返す。
「コーディリアの逃亡後、君は愛人と見做されていた女性と縁を切っている。そしてその後情を交わした人物はいない。その理由が想像できるからだ」
 いつもなら罵詈雑言を並ベ立てることで相手を卑しめて自分を慰めていたのだろうに、しかしこの指摘には反論の言葉が見つからず、マリスは力を失って椅子に崩れ落ちるとくしゃくしゃに歪めた顔を両手で覆った。
 虐げ、嘲笑っていたコーディリアを結局遠ざけられず、逃亡した彼女に執着して追い続けた理由が、歪んだ愛情だったなどと思いもしなかった、哀れな男がそこにいた。
「婚約しているからと、いつまでも側にいて当然だと、そう思っていたのだろう。いくら暴言を吐いても他の女性と浮名を流しても離れていかないことに安堵していた。傷付かないわけがないというのに心が離れていくことすら許さなかった君は、どこまでも自己中心的で愚かに過ぎる」
 立ち上がったアルグフェオスはマリスに言葉の礫を降らせる。
 自覚がないなら自覚させるまで。自分がどれほどコーディリアの愛と献身に恵まれ、それを無碍にし、憎まれていたか。
「愛していたなら初めからそのように接していればよかった。そうすれば彼女は純粋な愛を返してくれただろうに」
「それほど俺を罪したいか」
 顔を覆ったままマリスは呻いた。
「過ちを認め、後悔し、許しを乞えと」
「私が君に望むことは一つ。改めて正式にコーディリアとの婚約を破棄することだけだ」
 マリスは何も言わない。だが彼が応じるほかないと知っているアルグフェオスは、魔法で声を飛ばしてレアスとカリトーを呼び寄せると踵を返す。やがてやってきた羽子たちと関係者と入れ替わりに出て行こうとし、最後にもう一度、腹立たしいほど悲痛な男に言葉をかけた。
「いままでコーディリアを愛してくれて、ありがとう」
 真の言葉だが痛烈な皮肉に、その場に居合わせた者たちがぎょっと目を剥くが構わなかった。
 アルグフェオスは恋敵にもならなかった男に背を向け、その姿も名も封じるかのように扉を閉めた後は、もう二度と振り返ることはなかった。



 

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