戻ってきたエタニカを待っていたのは、クエド外交官からの使いで、両国の食事会に出席せよという指示だった。出席するのは外交官とエタニカ、他にある程度の身分を持った騎士である。
 仕度を整えたエタニカは、食事前に人々が歓談する部屋に入室し、グレドマリアの人々の視線を一身に受けることになった。
 男性陣は眉をひそめ、女性たちは会話を止め、あからさまにひそひそと言葉を交わし合っている。エタニカは首元を押さえた。上着の鋲も、胴着の釦も、緩んでいない。結んでいる首布も曲がっていない。白いシャツに布を結び、胴着を身につけた上から上着を着て、脚衣と革靴という、公的な装いであるはずだ。髪もいつものように高く縛るだけではなく、編み込んでまとめてある。
 ゆえに、この不快感を表す視線が不可解だった。藍色の生地に金糸で刺繍を施したこの衣装は、よほど似合っていないということだろうか。
「失礼……エタニカ王女殿下でいらっしゃいますか?」
 笑いを堪えるようにして、しかつめらしい顔で見知らぬ男が訊く。グレドマリアの貴族だ。
「ええ。エタニカ・ルネです。あなたは?」
「バッシュ・タルル・クードと申します。どうぞお見知りおきを……。殿下のお姿に意表をつかれて、声をかけずにはいられませんでした。まさか、男装でいらっしゃるとは思いもしなかったもので」
 エタニカは目を見開き、そこかしこの忍び笑いにぐっと奥歯を噛み締めた。
 やはり、他国ではドレスを身に着けるべきだったかもしれない。
 しかしエタニカは王女としてこの国に来たわけではないのだ。恥じることはない。顔を上げようと拳を握ったときだった。
「公的な装いに変わりはない。そなたも女装してもいいのだが。クード伯?」
 わずかに掠れる低い声が響き、室内の人々が一斉に目を見張って頭を垂れた。
「シンフォード殿下」
 エタニカは背後を振り返った。
 黒い髪と、瞳。
 鋭い印象を与える眉目。高い鼻に、不機嫌さと厳しさに結ばれた唇。斜めに撫で付けられた髪は優雅で、衣装も身分にふさわしいものだが、体格と威圧感は、鎧と剣を手にしているのが正しいように感じられる。
 笑みを浮かべることが貴重だろう眼差しで一同を見回すと、その目はエタニカに向けられる。反射的に、目を逸らすために頭を下げていた。
 一瞬だけ合わさった目が焼き付いて、心臓を鳴らしている。
 シンフォード・スフィア・グレドマリア王子。
 その目が血の輝きを宿した戦場の黒瞳と重なり、きつく目を閉じた。
「殿下……そのような、ご冗談を申されるとは」
「私は本気で言った。次回は女装で出席するように」
 クード伯は青ざめ、一部の者が失笑した。クード伯は白い顔で己を侮辱した客と、原因であるシンフォードを交互に睨んだが、彼が不機嫌に眉をひそめると、慌てて面を伏せた。準備が整ったと侍従が声をかけなければ、冷や汗が止まらず気分を悪くして部屋の外へ転がり出ていたかもしれない。
 エタニカはぞっとした。王子の言葉が撤回されず、伯爵の憎悪が増したのが分かったからだ。
「食堂へ」の言葉で動き出した一同だったが、最後尾についたエタニカは、隣に並んだのがシンフォードだったので身体を強ばらせた。しかも、さりげなく腕を出されている。同伴するから掴まれと言っているのだ。
(アンナがいないから私を代わりにしている……のか?)
 上目で窺うが、シンフォードはこちらを見ない。こうすることが当然だという態度で待っている。
 震えてしまった。さわれない。触れれば、自分が傷ついてしまいそうだと、アンナのようなことを考えて動けない。右手があるはずのない剣を探ってしまいそうだ。武器を手にしていないと、今にも斬り殺されてしまうのではないか。
 戦場の丘で、剣を閃かせ、敗残者を踏みにじったシンフォード。地に這いつくばって、エタニカは血と泥を味わった。あの黒い目を、何者も映さない瞳をエタニカは覚えている。
(他の誰も憎くないのに、何故かこの方だけは忘れられない……)
 そうこうしている内に、シンフォードが顔を向けた。視線を受けて仰け反ったエタニカをしばらく見つめる。目を合わせたのはほんの数秒だったが、頭が真っ白になったエタニカには時間の感覚すらなかった。
「……なるほど」とシンフォードは言った。
「貴方は、我が国に思うところがあるらしい」
 エタニカは、先に行く王子の背中を見ながら、揺れる視界を留めるために頭を押さえる。目眩は止まず、汗が伝う。先ほどのクード伯と同じように、早くこの場を立ち去りたい。まずい対応をした自覚があるだけに、この先シンフォードの態度がアンナに影響したらどうしようと青くなる。
(しっかり、しなければ……)
 呼吸を整え、食事会に臨むべく、足を踏み出した。
 白布が敷かれた長机に、多量の大皿料理が並んでいる。肉料理も魚料理も、塩や酢など様々な味付けのものが置かれている。果物は山になっていた。旬の果実である葡萄と桃が、甘い香りを漂わせている。
 その会で拝謁することになったグレドマリア国王スタンは、少し猫背で眉が下がっている男だった。王としての威厳を保ちつつも、フォルディア側をもてなそうと考えているらしい。
「女性ながら武勇で名を馳せておられ、うらやましいかぎり」
「そんなことは……お褒めに預かり光栄です」
 ふんとどこかから鼻で笑う声がした。
「しかしながら、アンナ王女殿下とは正反対でございますな」
 嘲笑が混じったどこそこの貴族の一言で、エタニカが気分を害していないかとスタン国王の挙動が落ち着かなくなる。
 この様子だと、この国王の治世に、王太后クリスタの影響が強いという噂は本当らしい。普段表立って政に口を出すことはないが、重要な決裁はクリスタの意見が仰がれると聞いている。今日ここに姿はないが、いずれ目通りすることもあるかもしれない。もちろん、エタニカではなくアンナがだ。
 エタニカは微笑んだ。
「当然です。アンナ王女はフォルディアの王族。私はただの兵士に過ぎません」
 そもそも比べることが間違っている。王族として生まれたアンナと、庶子であり駒として育ったエタニカでは、生き方がまるで違う。王族として認められていない部分のあるエタニカは、ふいの事故がないかぎり、アンナと同じように他国に嫁ぐことはない。同じ父の血が流れていても、価値は限りなく低いのだ。
 動揺など欠片も見せなかったエタニカに、鼻白んだ目を向けて、瞳を交わし合うグレドマリアの貴族たち。エタニカを煙たく思うこともあるフォルディアの外交官たちは、自国を侮られて忌々しい顔をしている。空気を読み取ったスタン国王は客人が怒りを表さなかったのでほっとため息し、さりげなく周囲に飲み物を勧めていた。
「病で臥せった女官に、アンナ殿下がお手紙とお花を贈られたこともございました」
「心優しい方ですわね」
「そのように大人びているかと思えば、花を摘む際に飛び出した青虫に悲鳴を上げられることもあり、まことに愛らしい方でいらっしゃる。アンナ殿下の魅力は、エタニカ様が一番よくご存知かと思いますが」
 囁きが掠めた。
「――どこまで真実なものか」
(……?)
 黙々と食事を続けているシンフォードをエタニカはなんとなしに見て、首をひねった。彼が何か言ったように思ったのだが。
 口角が上がっているように見えたのは、燭台の火が揺れたせいだったのかもしれない。笑われるようなことをした覚えもないから、気のせいだろう。
 シンフォードは、花嫁についての話題を振られても、言葉少なに応じているだけだった。興味がないのか、それとも不用意に私心を出さないようにしているのか。男性としては魅力的な造作をしているだけに、王女がどれほど美しいと賛辞されても、聞き流すことに慣れているのかもしれなかった。

 話題は終始、花嫁となるアンナのことばかりで、一方でシンフォードは己のことを必要以上に明かさず、一応、和やかに夕食会は閉じられた。
 王子妃の私室の隣に部屋があるエタニカは、警備の者たちにアンナはもう休んでいると聞き、自身も休息を得ることにした。堅苦しい正装を脱ぎ、髪をほどく。黒髪が背中を打つ感触に一息ついた後、アンナの様子を見ることにする。
 鍵はかけられていなかった。ナラが出てくるかと思ったが、彼女も休んでいるらしい。内は暗いが夜目が利くので支障ない。足音を立てないようそっと寝台に近付き、アンナの寝顔を見ようとした。
「……?」
 寝台に膨らみがない。エタニカは眉を寄せ、平坦な上掛けをめくってみた。
 いない。
「アンナ……?」
 密やかな呼びかけは、闇に包まれた部屋に反響しない。エタニカはぞっと肌を泡立てた。
 収納を開け、寝台の下を覗き込み、露台への窓扉を開けて辺りを見回す。女中部屋も同じように確かめ、次に荒らされた形跡がないかを確認したが、どこも使われていないかのように綺麗なままだ。
(まさか、そんな。アンナ!)
 震える息を吐いたエタニカは、青ざめながら、クエド外交官を呼ぶように言った。また、部屋にいるはずのアンナがいないこと、どうやら抜け出したらしいこと、ナラの姿が見えないことを告げ、ひとまずは秘密裏に聞き込みをし、捜索するように命じた。
 クエドはすぐに来た。白い顔でエタニカを怒鳴りつけた。
「あなたがついていながら、何故このような事態になるのです!?」
「面目ございません……」
「しかし、まだ逃げたというわけでは」
 スタンレイの取りなしに、クエドは目を吊り上げた。
「逃亡したに決まっている。あの姫が我らの目をかいくぐれるわけがない。支援者がいるのだ。ナラがいないということは、あの女が手引きしたに違いない」
「クエド殿、迂闊なことを仰らないでいただきたい」
「よく言えたものですな、エタニカ様。これはあなたの失態なのです」
 クエドの目がぎらぎらと光っていた。
「よいですか。アンナ殿下は病に臥せったなどと理由を付けて、秘密裏に捜索し連れ戻すのです。女二人では遠くまで行けますまい。万が一見つからなかった場合、あなたが、両国にこの事態をご説明申し上げるのです」
「それならば、早々に陛下にご報告申し上げねば」
「いけません。誰にも知られるわけにはいきません。せっかくの和平、フォルディアがグレドマリアを侮っていると取られかねない。決して、誰にも明かしてはなりません。陛下にもです」
 恥を恐れぬ、国を侮る所業を口にされ、エタニカはかっとなって叫ぶ。
「隠匿すれば、取り返しのつかないことになるかもしれないのだぞ!」
「ならば身代わりを置けばよいのです。幸いにもアンナ殿下のお姿はほとんど誰の目にも触れていない。その上で、アンナ殿下を連れ戻し、元通りにしておけば、グレドマリアも文句を付ける理由がなくなります」
「だが」
「エタニカ様」
 両国の平和に、あなたはひびを入れたいのですか?
 低く囁かれたそれに、頷けるわけがなかった。エタニカはわき上がる恐れと怯えをぐっと堪え、極秘にアンナを捜索するように命じた。自身に何度も、焦げ尽きるまで言い聞かせて。
(すぐに見つかる。あの子は、自国はおろか、一人で旅など出来ないのだから……)



 しかしその期待を裏切り、一週間を経過してなお、アンナ王女は見つからなかったのである。



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