「あっ!?」
完全に畳む暇がなく半開きになった状態で振った傘は、確かに相手に当たったものの、その手に掴まれてしまった。直後、エタニカは愕然とした。
「し、シンフォード殿下……」
冷たい目で見下ろす王太子は、傘を無理矢理下ろさせると、深々と呆れた息をついた。エタニカは蒼白になり、頭を下げるしかない。
「申し訳ありません! 侵入者かと……」
「不法侵入は間違いない。……なるほど、貴方が確かに剣の姫だと、よく分かった。失礼する」
「えっ、わ、あああ!?」
悲鳴を上げた。下からすくいあげられたからだ。足が宙に浮き、体重がおかしなところにかかる心もとなさにぎょっとする。馬に乗っているのとはまったく違う、水に浮いているかのようだ。
シンフォードはそのまま、エタニカが来た道を戻っていく。お茶会は、再び騒然とした。ジョージアナが真っ先に立ち上がると「シンフォード!」と驚いた声で呼びかけた。
「久しいな、ジョージアナ。元気そうで何よりだ」
「相変わらず心のこもっていない言い様。あなたもお元気そうで嬉しいですわ。でも……突然どうしたんです? 来るとは伺っていませんでしたけれど」
女性たちの視線が幾度となくシンフォードの腕の中のエタニカに向けられる。
「彼女を迎えにきた。自由に出歩かれては困る」
「あら、それは……」
ジョージアナとフリーアがくすくすと笑い始める。
「大切にされているのですね、アンナ様」
一体どんな関係が想像されているのか。エタニカは小さくなった。
「シンフォード。お誘いしたのはわたくしなのです。アンナ様、病み上がりなのに、無理にお越しいただいて申し訳ありませんでした。よろしかったら、またお誘いさせてくださいませ」
「こ、こちらこそ、せっかくの機会を、申し訳なく……」
しどろもどろに答えるエタニカはきらきらと光を放つ満面の笑顔で見送られて、乗ってきた馬車ではなくシンフォードの馬車に放り込まれた。何かを言う暇もなく動き出した箱の中で、エタニカが辛うじて言えたのは「ルルは」だった。
「後から来る。――貴方は、いったい、どういうつもりだ?」
静かな剣幕に、エタニカはたじろいだ。
「どう、……とは」
「不用意に姿をさらして、秘密が暴かれる可能性をどうして高める」
氷を押し当てられたかのような温度の声だ。
「こ、交流は必須です。ある程度姿を見せなければ怪しまれます」
「何故その相手を一人で決める。貴方はこの国の人々に詳しくないだろう。会うべき人間、会わなければならない人間を知らないはずだ。それに、勝手に他者との交流を深めれば、戻ってきた本物のアンナ王女が話の整合性を得られずに苦労するだろうとは考えないのか」
「それは……」
「アンナ王女が、話を合わせるなどの機転を持ち合わせる、思慮深い人物だとは思えない」
「アンナを侮辱しないでください!」
シンフォードは眉を上げた。
エタニカは頬や手をわなわなとさせて、ベールをむしり取る。目を吊り上げ、熱くさせて、言葉が出てこないながらも怒りを伝えようとした。
「あの子は、あの子は優しい子です。思慮は、足りないところがあるでしょう。いなくなってしまったのですから。ですが相手を傷つけぬよう言葉を選べる娘です。話してもいないのに、あの子を見下げないでください!」
目は逸らさなかった。視線を外せばやましいところがあると思われるだろう。妹への信頼を、愛情を訴えるには、自分の持つ言葉の力は弱い。だから、敵を見るように、意思を伝えなければならなかった。
シンフォードは、興味深いものを観察しているようだった。
「……なるほど」
呟いたかと思うと、視線を前へ戻してしまう。
競り合いに勝ったらしいが、そうとは思えずエタニカは、むっとして王太子の横顔を見続けていた。しかし「そろそろ顔を隠しなさい」と言われ、渋々ベールを被って座り直した。
馬車から降りた瞬間、爪先と足の裏に痛みが走った。中途半端に足を休めたから、また痛むのだ。
(部屋に戻ったら、まず靴を脱ごう)
前から輿がやってきた。誰か気分でも悪くしたのだろうか。しかし、到着したのはエタニカたちだけだ。
「何をしている。乗りなさい」
「えっ! わ、私のための輿なのですか?」
「靴が合わなくて足が痛むのだろう」
見抜かれていたのかと驚くと同時に、敬服する。よく人を見ている。差配も素早い。
立ち尽くしたのは数秒もなかったはずなのに、シンフォードは眉間に皺を寄せて言った。
「乗らないのなら、私が抱えていく」
「と、と、とんでもない! 乗らせていただきます」
おぼつかない足取りで、恐る恐る輿に座る。見たことはあるし、供をしたこともあるが、自分が乗ると思ったことがなかった代物だ。座椅子は柔らかい。だが、比重が人の肩にかかっているため不安定で、申し訳ない気持ちが先立ち、あまり好ましい乗り物ではない。
どちらかというと、シンフォードの腕の中の方が安堵するものだった。しっかりと身体を抱きかかえていたし、足下もふらつかなかったし、暖かくて。
(ど、どうして、私なんかを……?)
胸を押さえた。何を考えているのだ。シンフォードの腕の中の感触を思い返してほっとしているなんて。思い出すだけで顔が熱くなり、じっと座っていられなくなる。心地よかった、なんて、兵士のエタニカは口が裂けても言えないけれどでも。
(心臓が、優しい音でとくとくしている……)
部屋に戻ってスタンレイたちにアンナ王女は面会謝絶だと言い置き、まず靴を脱いだ。ルルが水の入った盥と清潔な布を持ってきてくれる。腫れ上がり、靴擦れで皮がめくれ、水ぶくれまで出来てしまっている足を見て、彼女は顔をしかめた。
「こんなになるまで我慢なさるなんて。殿下がいらしてくださってよかった」
「もしかして、あなたが知らせてくれたのか?」
ルルは肩を竦めた。
「でもシンフォード様ったら、あんな言い方では、心配して来たんだと分かりませんわ。一人で背負い込んで大変だろうと仰っていたくせに、まるで迷惑だと言わんばかりのお顔で」
「……本当に迷惑がられていると思うんだが……」
「何を考えているかおっしゃらない方ですから。分からないことはお聞きになってみればいいんです。きちんと答えてくださいますわ」
質問することすら恐ろしいのだ。淡々とした受け答えと、嫌みなほどの正論と、答えた瞬間に自らの失態を理解する問いかけの数々が、エタニカの心を突き刺していく。間違ったことはしていないが、考えが足りないことを思い知らされる。
そして恐らく、シンフォードはそういう類いの人間が嫌いだ。
「ルル。あなたから見たシンフォード殿下は、どういう方なんだ?」
「だんまりやの、けだものです」
きょとんとした。死神だとか、戦鬼だとか、薄情、恐ろしいとは言われていたようだが、まったく、聞いたこともない表現だったのだ。
「ずいぶん親しいとは思っていたけれど……」
「乳兄弟ですから。でも想像とは違うと思いますわ。シンフォード様は黙っているせいで人に怖がられていることもあって、生真面目で自制的な方ですけれども、恐い男ですわ。人の温もりに飢えていることに気付いていない、けだものです。お気をつけ遊ばせ。優しくするのは、誰かに触れたいと無自覚に思っているからですわよ」
「ふふ、分かった。気をつける」
ルルは半目になって睨んだ。
「もう。私はちゃんと忠告しましたからね。無自覚も恐いですし、自覚的になるともっと恐いんですのよ」
残念ながら、彼女の忠告は意味がなさそうだ。シンフォードがエタニカに優しくするのは義務だし、そういう協力関係だからだ。何より、エタニカは彼のそういう対象になり得ない。
(私は、シンフォード殿下に好かれていない。好かれる要素がない)
熱を持ち、傷口にじくじくと染みる傷を拭いながらため息をついた。
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