第三章
蒼茫、恋を知らない
 

 フォルディア王女アンナ・シアは、グレドマリア王子シンフォードとの婚姻後、すぐに身籠った。二人は常に共に過ごし、政略婚らしからぬ仲睦まじさは、国内外の評判であった。



       *



 景色は、やがて山間の深い緑に埋め尽くされる。
 フォルディアとの境に当たる山は、両国の北部分を覆っている。夏の北方は、王都よりも涼しい。しかし季節は確実にこの場所に訪れ、強い日差しが降り注いでいた。蒸す車内を少しでも冷やすべく出窓を開けていると、細い風が、エタニカの前に座るルルのベールを泳がせる。
「確かに、私は王宮に上がっているのでそれなりの家の出身ですが、これでは本末転倒ではありませんか」
 ラメル村が近付いているというのに、まだ納得していない。薄緑色の女官服を脱ぎ、桃色のドレスを身に着けたルルは、エタニカがそうしていたように頭巾を被り、ベールをつけて顔を隠している。今は、彼女がアンナなのだ。
「私が姫様のお世話をしたいのに」
「そう言わずに。ほら、到着したようだよ」
 男装なこともあって、楽観的に言ったエタニカに、ルルはむうっと唇を尖らせ、窓の向こうの村を見遣った。
 北村の、三角屋根。積み木に似た正三角に、アンナの持っていた人形の家を思い出した。冬には雪が降るため、強い傾斜をつけて積もった雪が落ちるようにしてあるのだろう。ここより更に北に行けば、フォルディアの北部と同じく、降雪作業が追いつかないほど雪深い地域になる。また建物の様式も変わるはずだ。
 少し離れた、森の中に飛び出したひときわ大きな建物が、シンフォードの知人の邸だ。エタニカたちの身分は某貴族とその一行ということになっているが、シンフォード王子が婚約者を連れて婚前旅行に来たという噂は、すでに王都はおろか近隣に響き渡っているはずだった。
「いくら姫様の代わりとはいえ、シンフォード様と親密なふりをするのは気が重いです。いつも通りお小言を言うだけで終わりそう」
「親密なふり?」
「婚前旅行に出掛けるんですから、思いが通じ合っているのは間違いないでしょう? これからお世話になるノリス子爵様も、多分それを確かめようとなさると思います」
「そうか。なら注意しないと」
「……姫様。姫様がシンフォード様と過ごすのですよ? 一緒の部屋で、一緒に眠り、行動をともにして、人が見ていようが見ていなかろうが、常に引っ付いて甘い言葉を囁き合うのです」
 目を瞬かせる。
「どういうことだ? 『一緒に眠る』?」
「シンフォード様とアンナ王女様の仲はもう決定的なんです。これで仲が悪かったら、大勢の方々が不審に思ってしまうでしょう。姫様たちは、婚約者である二人は仲がいいと周囲に知らしめなくてはいけないのです。甘い恋人たちのように、いいえそれ以上、夫婦のように接しなければならないのですわ!」
 眉間に皺を寄せていたエタニカは、拳を握ったルルの主張にぽかんとしていった。ルルはこくりと力強く頷いた。
「私がシンフォード様にお願いしておきます。姫様は殿下にお任せすれば大丈夫ですわ!」
 くらくらした。自分が、嘘とはいえあの人と愛を囁き合う。
(想像できない……)
 何を考えているか分からない顔で目の前に立たれても、ともすれば嫌味に聞こえる正論でぐさりとやられると思って構えることしかできなさそうだ。もしくは、どちらが先を取るか拮抗する。その腰に剣がなくとも、殺伐とした空気が流れるところしか思い浮かばない。
 車が停まる。ノリス子爵邸に到着したのだ。
「と、とにかく先に降りるよ」
 逃げるように扉から滑り出ると、先導していたシンフォードの馬車と騎士たち、そしてスタンレイを始めとしたエタニカの部下数名が、邸から出てきた子爵邸の人々に迎えられるところだった。
「シン! 久しぶりだな!」
 使用人たちの後ろから飛び出してきた青年が、両手を広げてシンフォードを抱擁する。
 意外だ。そんな風に彼と親しくしている人がいるらしい。満面の笑みに、シンフォードもわずかに目元を緩めているようだ。
「久しいな、ロルフ。元気だったか」
「もちろんだとも。妻も子も元気だ。後で顔を見てやってくれ。だがそれよりも、お前の可愛いひとを紹介してくれよ。いったい何がどうなったら、婚前旅行なんてことになるんだ?」
 身代わりの当人であるエタニカはそれを聞いて動きが鈍くなる。果たして片棒を担いでいる彼がどのように反応するのだろうと窺っていたが、顔も声もいつも通りだ。
「愛しい人にこの国を見せようと気が逸った」
 空気が止まる。
 魔法でもかかったかのように誰もが静止し、頭の中を真っ白にし、すべきことを忘れたらしかった。
 ノリス子爵の見事な笑顔が奇妙に思えるほど、シンフォードは落ち着き払っている。
「迷惑をかけてしまうが、すまない」
「……アンナ王女は、よっぽど素晴らしい人なんだなあ……」
(難易度が上がっていく!)
 エタニカはおののいた。
 立ち話もなんだからとロルフが客人を邸内へ招く。シンフォードが視線を投げたので、エタニカは慌てて頷き、打ち合わせ通りにすると目配せした。それから微笑みを投げるロルフに会釈する。
「お前の大事な人はいいのか?」
「今は姉君にお任せする。あの細指に触れる機会が一つ減ったのは口惜しいが」
 一瞬の後、弾けた笑い声が内に消える。
 いつの間にかルルが馬車から降りて、深々と満足げに頷いていた。
「よかった。シンフォード様は問題なさそうですね」
 何が問題ないのか、考えたくないエタニカだった。
 支度するからとアンナについては挨拶を先延ばしにし、先に邸の主人たちが集まる部屋に足を踏み入れたエタニカは、もう一人、大柄な男性が立ち上がったのを見て目を丸くした。
「バルト将軍!」
「エタニカ様。ようこそ、ラメル村へ。歓迎いたしますぞ」
 さりげなくシンフォードを見る。まさか最初から分かっていたのかと眉をひそめそうになったが、エタニカの顔を知り話したことがある人間が、入れ替わりの最中に長期間接触するのは好ましくない。そう考えると、恐らくこれは彼にとっても不測の事態のはずだ。
「エタニカ殿下は我が義理の父と面識があったのですね」と子爵が言ったのが、バルトがここにいる理由だった。彼の側には慎ましく微笑む華奢な女性がいる。緑の瞳で柔らかい雰囲気をまとっている。ノリス子爵夫人ウィノアだった。
「父が大変お世話になっております」
「こちらこそ。将軍には目をかけていただいております。こんなにお美しいお嬢様がいらっしゃるなら、もう少し気の利いた格好をしてくるべきでした。ノリス子爵様も、このような無骨な装いで申し訳ありません」
「噂の剣の姫にお会いできて嬉しく思いますよ。並の男なんて目じゃないほど凛々しい貴公子ぶりだ」
 嫌悪を抱くどころか楽しげに褒め言葉を口にするロルフには決して及ばない。揶揄ではない純粋な感嘆に、胸がほっと温かくなると同時に後ろめたさを覚えた。
「せっかく機会をいただいたのに、私はこれからアレムスに戻らねばなりません。名残惜しいですが、これでお別れとさせていただきます。王女は残りますので、よろしく迎えてやってください」
 と、見せかけて、この後からアンナを演じなければならない。内心不安でたまらなかったが、その困った顔が親しいと取られたのか、ウィノアが「是非またいらしてくださいね」と両手を握って言ってくれた。
「またアレムスでお会いしましょう」
「はい、将軍。またお目にかかれますように」
 見送るという人々にここで構わないと告げて別れた。一人で表に来て馬車に乗り込んだ。
 だがすぐに反対の扉から出ると、再び子爵邸に舞い戻る。邸の使用人たちに見つからぬよう、そっと入り込むと、すぐさまルルが出てきてエタニカを部屋に引き入れた。
 窓から、空の馬車が去っていくのが見えた。
 持ってきていた衣装を素早く身に付ける。急いでいたため、いつものように腰の周りの微調整ができず、肋骨と肺が上に持ち上げられて苦しかったが、胸を張ることで堪える。髪は最初からまとめてあったため、被り物をして仕上げだ。
 その時ちょうど、子爵邸の女中が様子を見にきた。ルルはにっこりした。
「今から窺いますとお伝え願えますか?」
「かしこまりました」
 女中が下がると、同時にため息が出た。せっかく白粉を叩いた額にうっすら汗が浮かぶ。
「さあ、頑張りましょうね、姫様!」
「ああ」
 励まし合い、付き添われて、先ほど後にした部屋をもう一度、別人として訪れる。ノリス子爵夫妻が頭を垂れ、バルト将軍は目元を和ませ、胸に手を当てて騎士の礼をした。
 だがエタニカは、シンフォードがずんずんと近付いてくるのにぎょっとして後じさった。



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