「っあ」
ドレスだということを忘れていた。構えた足が長裾にもつれ、ぐるりと視界が反転する。受け身を取ろうとしたが、肩や腰がいつものように動かなくて息を詰めた。
頭を打ってしまうと首を竦める。
しかし、そうはならなかった。背中が反る無理な姿勢で停止したのだ。
頭と腰を支えられ、ゆっくりと地面に下ろされる。何事もなく腰を下ろしたエタニカに、部屋の人々から安堵の息が漏れた。
「さすがシンフォード。愛しい姫の危機には素早い」
「お怪我はございませんか、王女殿下」
ロルフとバルトが王女を案じる。
「愛しい人は緊張のあまり足をもつれさせたらしい」
エタニカの答えは、しれっと言ってのけられた台詞のせいで不明瞭なものになった。シンフォードはさりげなく手を出してエタニカを立ち上がらせると、その指先を奇妙な動きで撫でながら、そっと持ち上げる。そして、そこに唇を寄せた。
がちっ、とエタニカのありとあらゆる関節が軋んだ音を立てる。
「何をそんなに固くなる」
無意識に腰に伸ばした手を止めようとしたせいだ。
剣を持っていなくて本当によかったが、今度は拳を握って格闘戦に持ち込もうとしてしまう自分がいて、冷や汗が止まらない。
「貴方はずいぶん恥ずかしがりのようだ」
(真顔で言われても!)
触れ合うほど近くとも、脅されていると言う方がしっくり来る。だから早く離れてほしい。
しかし、王女が強力なわけがないので、周りに分からない程度にしか胸を押し返せない。シンフォードの胸板は厚く、本気でないエタニカには決してびくともしなかった。
「そんな、蛇と蛙みたいに見つめ合っていないで、紹介してくれ」
「蛇と蛙はなかろう、ロルフ」
友人知人を放置していることを思い出しようやく離れてくれて、落ち着いて呼吸できる。
「そうだな。紹介しよう。ロルフ・ノリス。その夫人ウィノア。夫人の父であるバルト・レド将軍。バルト将軍は知っているな? 貴方の護衛をしたこともある」
「そ、その節は……ご挨拶できず、申し訳ありませんでした。皆様がいてくださったおかげで、無事到着することができました。ありがとうございました」
「なんの、姫を守るは騎士の務めなれば。私は本日休暇中でして、このようななりで申し訳ございません。どうぞ、ラメル村を楽しまれますよう。いやはや、しかし姉君に声がよく似ていらっしゃる」
本人なのだから聞き覚えがあって当然だ。笑って誤摩化した。
「将軍。アレムスを発つ前にこちらで無頼を働く者たちがいると聞いた。まだ被害はあるのか」
シンフォードが尋ねると将軍の目がきらりと光った。笑いながら顎を撫でる。
「私もそう聞いて意気揚々と休暇に来たのですが、近頃は大人しいらしいですな。住人たちは大きなことを仕出かしそうで恐ろしいと言っています。まあ、何かあっても私の伝手が何とかするので、それまで目を光らせることにいたしましょう」
「ということだ。安心してくれただろうか、王女」
ええと、とエタニカは素早く考えた。
つまり、バルト将軍は騒ぎを聞いて、休暇を口実にこの辺りの調査をしている。シンフォードがバルト将軍の滞在を知らなかったことから推測すると、将軍がラメルを訪れて数日も経っていない。ゆえに、捕縛に動ける騎士の数が揃っていないのだ。恐らく準備は始めていて、近辺に部下を潜ませている。
まずい。時間が経てば将軍たちが行動を開始する。こちらの動きを察知した悪徒どもが人質に危害を加える可能性があった。こちらの状況を知られることなく、かつ将軍たちより先んじてアンナを救出せねばならない。
「はい。よく分かりました。殿下」
「素直な人だ」と言ったのは皮肉だったのだろうか。話をするからと暗に退室を命じられ、疑いの種が増えることを避けるために、聞き分けよく部屋を後にする。閉じた扉の前で、声が漏れ聞こえないかと立っていたが、慎重なシンフォードと彼が信頼を置いている人々が外に響くような調子で話すわけがなかった。
部屋ではルルが待ち構えていた。
「情報を集めてきました。どうやら、ならず者は教会付近を根城にしているようです」
「どこからそんなことを」と目を丸くするエタニカに、ルルは不思議でもなんでもないと言う。
「結婚式が挙げられないとぼやく女中がいて、何故かと聞いただけですわ。辺りが騒がしいせいで司教様も具合が悪くていらっしゃるとか。村人は報復を恐れていますが、若い人たちはむしろ早く面倒が終わらないかと、血気盛んな者たちが武器を集め始めているくらいです」
「武器を集めている? 乗り込むつもりか!」
「領主も都も対応が遅いと息巻いているようです。殿下や将軍の滞在が広まれば、直談判に乗り込んでくるでしょうね。それに、彼らが熱くなっているのは、どうやら女性がいるらしいことにも理由があるようですわ。村人に女性の服や下着を用意させて、奪っていくそうです」
エタニカは拳を握った。女性が囚われている。手荒に扱われていないらしいことに幾分か安堵しそうになるが、本当に傷つけられていないと確認するまでは。
「傷一つつけてみろ……倍の数だけ叩き切ってやる」
ルルが慌てた顔でエタニカの前に立つ。
「で、ですが! お一人で動かないでくださいね。シンフォード様は、近々向こうから接触があるだろうと仰っていましたし!」
「ああ。その時はまた、ルルに身代わりを頼むことになると思うが……すまない」
ここですべきこと。それは、アンナが無事に戻ってくるよう、焦らず布陣することだ。そのためには情報を集め、確実な事柄を知らなければならない。最初は動きが鈍くて焦れるだろうが、戦いを始める前はいつもそうだ。
エタニカは右手を押さえた。手首を覆う白く繊細な飾り編みが、まるで小さく悲鳴を上げるように肌を突き刺してくる。殺気を放つわけにはいかない。今は、アンナ王女として、慎ましく愛らしくしていなければ。
こつこつと音がし「私だ」と響いた声はシンフォードだ。招き入れられた彼は、エタニカを見るなり足を止め、不審そうな目つきをした。
「何を考えている?」
薄布越しで捉えられないはずなのに、この人は先ほどまでエタニカが何を考え、どんな顔をしているか分かってしまうらしかった。
「お話は終わったのですか?」
「貴方に尋ねたのだが」
そう言って、別のところに視線を投げた。エタニカも同じく目を向ける。
ため息をつき、両手を広げたルルがいる。呆れている、のだろうか。
「……何を考えていた。単独行動は謹んでもらいたい。貴方の懸念は理解できるが、手助けできるものもできなくなる事態は、貴方も避けたいだろう?」
「そういう言い方も不正解です、殿下」
シンフォードは目を見張った、ように見えた。エタニカは、改めてルルに驚いた。ずいぶん気安い主従だと思っていたが、彼女の口調も腕を組んで半目になる態度も、弟にするようなものだ。そして驚くべきは、シンフォードがそれに対して叱責の一言もなく、不愉快そうな態度も見せないことだった。
「では何と言えばいい」
「もう少し優しい言い方で、事務的にならず、恋人にするように接してくださいませ。なるべく自分がどう思っているかも交えると、『何を考えているか分からない』と言われることはないと思いますわ」
「貴方は、私が何を考えているか分からないか?」
「は、わ、私ですか!?」
水を向けられてエタニカは慌てふためいた。じっと眼差しを注がれ、頬が熱くなる。これは、下手に言い逃れしてはいけない。
「その……お考えがまったく分からないというわけでは、ないです。どのような意図があるか疑問に思うことはありますが、殿下が何も考えていないわけがないと知っていますから。殿下の言葉は、殿下の一部です。分からないのは、共に過ごした時間が短いからではないでしょうか。少なくとも私は、殿下は決して軽薄な方ではないことを知りました」
最後はきっぱりと言ったのに、どうしてシンフォードは目を丸くしているのだろう。先ほどよりはっきりと驚きを露にしているので、エタニカの方がびっくりしてしまう。何か間違ったことを言ってしまったのかもしれない。
「でもあの、その、お考えをお聞かせ願えるなら大変ありがたく、更に殿下に対する理解を深めることができると思います!」
しっとルルが指を立てて、エタニカは口を押さえる。
廊下に響いていないかと焦っていると、呻くような声でシンフォードが言った。
「……私は、貴方の考えていることがさっぱり分からない」
問う前に、扉の向こうから「馬車の準備が整いました」とスタンレイが告げる。
「どこかへお出掛けになるのですか?」
「教会へ視察に行く。貴方も同行するだろう?」
行かない理由はない。もちろんだと答え、ルルから聞いたことを報告した。ルルもまた同じことを説明し、シンフォードは把握したと頷く。
「取引がしたいなら、要求を言ってくるはずだ。騎士を村に置いてきた。私のことを吹聴させているから、そのうち接触があるだろう」
ここでも彼はぬかりない。エタニカも部下を村にやっているが、明らかに武装した人間をうろつかせるのは警戒心を煽るだけかもしれない。そう考えているとシンフォードが言った。
「武装を解いて、旅行者などを装って村から離れたところをうろつかせるのは止めておくように。バルト将軍の者たちもいる。余所者ばかりが歩き回っていると、更に警戒されるだろう。山狩りをするのは相手の出方が予測できるようになり、こちらの手勢が充分揃ってからだ」
エタニカは項垂れた。アンナは無事でいるのか。不安がって、泣いていないか。フォルディアから離れ、更に逃げ回って一週間以上。不慣れな生活に、身体も心も傷ついてしまっていないだろうか。不安が、更に何も出来ない己をじりじりと苛んだ。
「できれば、アンナの状態だけでも知りたいのです」
「乗り込もうなどと考えていないだろうな?」
可能ならば潜り込んで探りたいくらいだと考えていたので、まっすぐに撥ね除けられたエタニカは、ますます視線を落とした。
(私の考えなんて、きっとこの人には余分なものでしかないのだ)
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