ルルが部屋にある手袋や傘や帽子を車に詰め込む。会話がないまま、邸を出た。
 前の席に座ったシンフォードも口を開かず、夏の緑の森をなんとなしに眺めているようだった。金色を帯びた若緑の木々は確かに美しかったが、心は晴れない。
 この気詰まりな空気が嫌いだ。シンフォードと交流するようになって、エタニカは何度も自分の思いを飲み込んでいる。彼は恐ろしいくらい潔く人の気負いをくじく。その理由はやはり、この人の能力の高さと、何を考えているか分からないと言われる、顔つき、声の質、雰囲気や佇まいだろう。なのにエタニカのことが『さっぱり分からない』とはどういうことだ。
(私の考えていることなんて、この人には明らかすぎるだろうに)
 それとも、何故かと問うているのだろうか。エタニカがアンナを必死になって探す理由。守ろうと考えるわけ。
 ラメル村の教会が見えてきた。司教がいるというそれは、思ったよりも質素で、言ってしまえば、美しくはない、崩れ落ちる前と錯覚しそうな小さな御堂だった。尖塔はなく、四角く積み上げただけの屋根。石は古く、白く乾いてひび割れている。冬はさぞ凍えるだろう。
 先に馬車を降りたシンフォードが手を出す。婚約者にするなら当然の振る舞いだ。小さく礼を言って気に留めないと決めたが、触れた時にはかすかに手が泳いでしまった。相手の顔を見ないよう、建物に意識をやる。
 この近隣をまとめているだけあって敷地は広い。奥には住居があるようだ。裏からも人が出入りできるのだろう。向こうがどうなっているか確かめなければならない。道があるのなら把握しておくに限る。
 厳格な黒鉄の扉を開けると、思ったよりも明るい。その理由は、正面にある薔薇窓の光だ。
 放射状に光と影、色彩が組合わさり、大輪の花を描いている。まるで別の世界を覗き見ているようだ。青は青だけでなく、赤は赤ではなく、透明で鮮やかな複数の色が綿密に配置されることによって、色彩の印象を変化させている。入り口に立ってこの窓を見れば、青の窓というよりも、様々な宝石を散りばめた宝冠のようだった。ここで駆け落ち婚をするのも頷ける。この下で愛を誓えば祝福された気持ちになるかもしれない。
 物音がして、人が現れた。だが、すぐに奥へ戻ってしまう。そうして、慌てた様子で初老の男性がやってきた。斜めにかけたたすきは、黒地に銀の薔薇紋。司教の位を持つ人物だ。後ろに、どうやら弟子らしき聖職者が控えている。妙に眼光が鋭い。武器を持つことを許された僧兵なのかもしれない。
「彼方より光がありますように。ごきげんよう。礼拝ですか?」
「彼方から光があるように。私はグレドマリア王太子シンフォード。彼女は婚約者のアンナ・シア王女。国内を見聞する予定でこちらに立ち寄りました」
「これは……! ようこそ、両殿下。この教会を任されております、司教のジュールです。お二人でご旅行とは仲睦まじくていらっしゃいますね。グレドマリア、フォルディア二国の平和を、光教会は心より歓迎いたします」
 ありがとう、と鷹揚に頷いて、シンフォードは薔薇窓を見遣った。
「見事な窓だ。確か、この教会は以前、修道院だったか」
「はい。当時グレドマリア王女であった聖女フレドリカ様が、王女の位を剥奪されて後、修道女となって暮らされるために、父君の国王陛下によって建てられた教会です。フレドリカ様の逸話は『運命の鍵と姫』と物語にもなっております」
 視線を受けてエタニカは記憶を掘り起こしてみた。聖女フレドリカの行いは、教会に通ったことがあれば他の聖者と一緒にした列伝を学ぶ。寝物語に聞いた覚えがあるそれだろうか。
「……この世のありとあらゆる扉を開くことができる、魔法の鍵の話でしょうか」
「そうです。現在はグレドマリア国の国宝になっているものです」
 その昔、といってもさほど遠くない頃。王女には光り物を集める習癖があった。金銀宝石、果ては銅や鋼の武器にまで目を輝かせる変わり者であったそれがたたり、王女は反逆の疑いをかけられた。武器を収集していることが叛乱を想起させたのだ。
 城を追われるその日、すべてのものを手放さなくてはならなかった王女だが、一つだけ持っていくことを許された。選んだのは、太陽の光、月の光、星や水や宝石が宿す光すべてを閉じ込めたような、明るく輝く美しい鍵だったという。
 しばらくして後、国王の居城から火の手が上がった。王女に罪を着せた者が反旗を翻したのだった。窮地に陥った王だったが、どこからか現れた修道女が手を貸し、城から脱出することに成功した。この修道女こそ、追われた王女フレドリカ。王を救ったのは、彼女の持っていた宝物の鍵。その鍵は、あらゆる扉を開き、道を作る魔法だったのだ。
「フレドリカ様は『果たすべきことは果たした』とおっしゃられ、炎に包まれる城に舞い戻ると、反逆者たちをその鍵で閉じ込めました。そうして炎が消え、焼け崩れた城には、ただ『運命の鍵』だけが輝きを損なわれることなくそこにあったと言われています」
 エタニカは窓を見上げた。
 午後の光が、惜しみなくまっすぐに差し込んできている。
「最後まで、フレドリカ様はグレドマリアの守護者でいらっしゃったのですね」
 この輝きを彼女は愛した。父への愛情を忘れず、父王が作らせたこの窓の光を浴びて、修道女となっても、最後までグレドマリアの王女としての心を失わなかった。
 羨ましく思います、と零していた。光を求め、日陰にやられながら、彼女は光を見つめ続けて、己の立場や誇りを見失うことはなかった。
「そのような王妃におなりください」
 呼びかけられ、エタニカは一瞬ぽかんとした。
 慌てて頷く。忘れかけていた。今の自分は、未来のグレドマリア王妃アンナ・シアだ。
 どくどくと鼓動する心臓を押さえ、笑顔を貼り付ける。ジュール司教がアンナとエタニカの顔を知っていると思わなかったが、ばれてしまわないかと冷や汗が伝った。隣に立つシンフォードから、後できっと釘を刺されるだろう。
「司教様はお疲れです。お客人方」
 苛立った声で控えていた僧兵に言われて、エタニカもシンフォードも驚いた。
 司教が応対しているのに割って入ったかと思えば、刺々しい声で暗に出て行けという。ジュール司教も顔を白くさせて「なんてことを」と呟いている。
「司教様は身体の具合がよくありませんので」
「そうだったのですか。それは、長居をして申し訳ありませんでした」
 そういえばルルからもそう聞いていた。謝罪を口にすると、司教は微笑んで首を振った。
「いえ……こちらこそ、申し訳ありません。……ああ、最後にもう一つ。この教会そのものにも、フレドリカ様のための工夫を施しております。特殊な石を使っていて、この石は、時々、暗がりで輝くものがあるのです。御堂の裏手に採石場があるのですが、よろしければ足を運んでみてください。運がよければ、フレドリカ様の御業を秘めた石を見つけることができるかもしれません」
 礼を言って教会を出る。扉のところで振り返ると、僧兵が司教の元に駆けつけるところだった。姿勢が悪いこともなく、喋り方もはっきりしていたから気付かなかったが、やはり具合がよくなかったらしい。付き添われた司教は、エタニカたちにかすかに微笑んで目礼した。
「採石場に行ってみますか?」
 地形の把握のためにも、とまで言わなかったが、考えるところは同じだろう。シンフォードは付き添いの騎士たちにある程度距離を取ってついてくるよう言うと、エタニカと連れ立って森の道を歩き出した。
 ずいぶん年季の入った森で、最下の枝はずいぶん高いところにある。欅と楡、どちらがどちらなのか実はエタニカはあまり分かっていない。同じような葉の形をしている椋木なら分かるし、今も目につくのだが、その理由は実が食べられるからなのだから、我ながら食い意地が張っている。
 周りを羽虫が飛んでいる。わずかに甘い香りがするのは、木々や花が放つものだ。今ならばきっとつつじの蜜が甘い。息を吸い込めば、瑞々しい緑の空気が身体を巡り、清められるような気がする。夜には虫の声が満ちるだろう、豊かな森だ。
 しかし考えることはこの森と周辺の村を攻略するならばどこに拠点を置くかだった。エタニカは周囲を観察した。それなりに利用されているのか、ドレス姿でも散策できる程度に拓かれている。教会の付近は、村にも近く、森の入り口にも当たるようだ。
「あの時の返答は、貴方の本音か?」
 不意にシンフォードが口を開いたので、飛び退きそうになる。わずかに乱れた呼吸を整えながら、恥じ入った。
「はい、その……立場を忘れて申し訳ありませんでした」
「問題ないだろう。疑いをかけられたわけではなかった」
 司教が少しでも妙な顔をしたなら説教だったとほのめかされ、どきどきするエタニカだ。
「ふ……」
 空耳か。鳥の鳴き声だろうか。喉を震わせるような音が近くで聞こえた。何とはなしにシンフォードの横顔を見上げる。いつも通りの、麗しく、表情に乏しい顔だ。
「いくつか質問したいことがあるのだが、いいか」
「はい」
「アンナ王女が消えた時、別の者を嫁がせればいいとは考えなかったのか。例えば――貴方自身が婚姻するとは」



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