「姫」とシンフォードが囁く。吐息の声は熱っぽく、心臓をわしづかみにされているような動悸を覚える。
「そのままで、聞いてほしい」
 息を呑み込み、首を縦にして応答する。シンフォードはエタニカの手を握りながら。
「ずっと考えていた。ジュール司教の言葉の意味を」
「は、い……」
 どっ、どっ、どっ。いつもより心臓の音が早く、高い。
「教会の石が光るという話は初めて聞いた。そのような石があるなら周知されてしかるべきだが、騎士たちも誰も聞いたことがなかったらしい。加えて、司教の具合が悪いそうだが、そんな様子は見受けられなかった。一方で、僧兵らしき男の目つきと姿勢の悪さが気になった」
 何の話を、しているのか。
「動かずに。人の気配がする」
 エタニカの背筋が伸びた。目だけを動かして前方を探る。
 大石が転がる影、木立の密集しているところ。茂る枝の上方。人が潜める場所は無数にある。
「つまり、司教様が知らせたいのは」
「この辺りにやつらの根城があり、教会にも巣食っている。司教は脅されていて、私たちに密かにそれを伝えようとしたということだ」
「……殿下。動かないでください。失礼します」
 くるりと向き直ったエタニカは、シンフォードの首に抱きついた。仰け反る形で抱きとめるシンフォードへ身体を密着させて、彼の背後を確認する。
 騎士たちの姿は見えない。他の者の姿もない。ということは、今監視の目を向けているのは最初から潜伏していた者だ。
「背後に異常なし。……どうしますか、殿下」
「…………」
「殿下?」
「……貴方の考えは、やはり読めない」
 足りない身長を補うために爪先立っていたエタニカを下ろす。何のことだろうかと首を傾げるエタニカを前からぐるりと腕の中に閉じ込めて、抱き合う形で言葉を交わす。
「あのような手紙を送りつけてきた時点で貴方がアンナ王女ではないと分かっているだろうに、それを脅迫してくる様子がない」
「怪しい僧兵は反応しませんでしたね」
「そう。だから、自分たちが捕らえているのがアンナ王女だとは知らず、人質の要求先が単に貴方だった、ということも有り得る。だから、目的は貴方自身の可能性がある」
 お互いにしか聞こえない声だが、触れるほど近付いていると聞き取りづらいことがない。声を発する度に振動が伝わり、聞き取りやすいくらいだ。
「ならば、私が囮になりましょう。相手の懐に潜り込んで、殿下に敵の数をお知らせします。その時の相手の動き方次第で、どこまで知っているかが分かると思います」
「危険だ」
「どちらにしろ、私が接触しなければなりません。目が私に向いている間に追い込みの準備をお願いいたします。殿下ならば気付かれない内に布陣でき…………あの、殿下。そう、きつく腕を回されると、動けないのですが……殿下? どうして私をさらに抱え込むのです? 後ろをもう一度確認しましょうか。それとも、声が聞き取りづらいですか?」
「ああ」
 どちらに肯定が返ったのか分からなかったので、えいやっと身体を寄せ、腕を回して彼の背後を確認した。彼は背が高いので、思い切って体重を預けないと後ろが見えないのだ。
「はい。どうでしょうか」
「心地いい」
「はい?」決して小さくないエタニカだが、シンフォードにかかると子どものように抱え込まれてしまう。すらりとしているように見えるが、意外と体格がよく、体温が柔らかくて安心する。こんな状況なのにほっとしそうで、慌ててシンフォードを呼んだ。
「あの、どういう……」
「なんでもない。口が滑った。もう少し何かないかと考えたいところだが、いいだろう。貴方に任せる」
 シンフォードがエタニカの後頭を軽く叩く。 
「明日正午までに連絡がなければ勝手に教会に踏み込む。だから自分の身は自分で守ってもらいたい。貴方はそれができる人だと信じる」
 任せる。信じる。それらの言葉がエタニカに力を与える。
「承知しました。必ず」
 散策に行ってみる、と、周りに聞こえるように言ってシンフォードから離れた。彼はあまり遠くへ行くなと言って、自分も辺りをぶらつきはじめる。婚約者から目を離したのだ。
 エタニカはわざときょろきょろしながら、採石場を越えて奥へと進んでいった。探査能力が高くなくともすぐに分かった。向こうの草が立っているのに、歩いている辺りのものは寝ている。何者かが定期的に踏んでいるのだ。
 木を見上げる。鳥を探すふりをしながら行くと、頭一つ分ほど高いところにある若木の枝が折れている。数本そんなものが見つかる。
(邪魔だから払ったのだな。後始末をしていないということは、気を配る者がいないということか)
 あまり賢くないようだ。バルト将軍も気付いているだろう。これなら、相手は警戒して動かないかもしれない。危険だと言われている場所でひとりうろついているエタニカは、囮としてはあからさますぎる。
 ならば探るまでと、更に踏み分けていく。
 風が吹き、ざわめきが押し寄せてくる。側をすり抜けて背後に続いていく風に、エタニカは鼻を鳴らした。
 嫌な匂いがする。
(金属のような……血か!?)
 裾を持ち上げて駆け出した。慣れない形と固さの靴は、地を踏みしめると頼りなくぐねぐねとする。下半身が重く、いつもより息が切れた。
 ばしゃっと水たまりを踏んだ音に立ち止まる。咄嗟に鼻と口を覆っていた。
 血溜まりに、倒れ伏した人の姿。
 視認できるだけで四人。三人は男で、もう一人は長い裾から女性だ。
 座り込んで動かない男は、前方から斜めに斬られている。木の幹に傷。剣が落ちている。応戦した形跡だ。服装は、汚れている。あまり身綺麗にしているとは言えない。手足に篭手を撒いていることから、長期間移動する立場の者だ。
 続いて、女性を検分する。逃げようし、背を向けたところを斬られていた。惨いと眉をひそめながら俯せていた身体を起こす。
「――何故」
 漏れた呟きは驚愕だった。
 死者を仰向けにし、息を確かめたところで、エタニカは血の気を失っていく頭を汚れた手で支えることしかできなかった。
「お前……ナラ、どうして」
 アンナ付きの女官は、かっと目を見開いた恐怖の最中に死の国へ突き落とされていた。
 呻いた。考えが追いつかない。容量を超えている。考えないようにしたいのに、嫌なものが足下から這い上がってくる。歯を食いしばり、息を吐いた。
 この冷たい闇に捕まってはならない。怯えは死神と同じ。動けなくなれば死が待っている。考えろ。動け。
「――っ!」
 があん! と鋼が打ち合う。
(鈍い!)
 咄嗟に拾い上げた他人の剣は重かった。手入れを怠っていたのがありありと分かる。それでも馴染まない柄を握りしめなおしたところで第二撃が来た。返す手で払い、距離を取る。
 襲撃者は三人。外套に仮面を被っている。隠密を担っていると一目で分かる姿だ。
 恐らく、彼らがナラたちを手にかけた。
「何者だ」
 答えがない。相手の体格、仕草を読み取ってみようとするが、外套の長い裾に隠れてほとんど分からない。靴の汚れすら見えない。辛うじて、身長と肩幅からそれなりに年を重ねた男性かもしれないというぐらいだ。
(剣を捨てるか? 降伏すれば相手を探れるかもしれないが……)
 そう考えたのは、三人組の挙動が静かだったせいだ。見られてはいけないものを見たというわけではないらしい。あくまで進路を塞ぐから排除する粛々としたものを感じる。だから余計に得体が知れず、警戒を強めた。
 ならず者を殺し、ナラを殺した。エタニカと敵対する意志がなく、かつ隠れて行動しなければならない派閥。
 思いつかない。ナラはあくまでフォルディアの上位貴族出身の行儀見習いの娘。何か秘密に手を染めているようには思えなかった。
(まさか、目的はアンナか?)
 握っているとすれば、アンナが逃亡したという事実。命を奪うなら、最も可能性が高いのは口封じだ。
「お前たち。……王女を手に入れたのか」
 鋭い一閃。突きの攻撃を打ち払う。
 呼吸を読んでの突撃だ。相当な手練だった。焦りに乱れた足取りを整えつつあしらう。他の二人は動かない。それが幸いだと思うより前に、エタニカは必死に応戦しなければならなくなっていた。
 高い音が鳴り響いたのはその時だった。はっと双方同時に息を呑む。
 誰かが警笛を吹いている。射抜くようにつんざいた音に、襲撃者は素早く身を翻す。
「待て!」
 追いすがるエタニカの剣を男は鮮やかに払ってみせた。名手の大振りな受け流しに翻弄され、体勢を崩す。
「追え! 逃がすな!」
 エタニカの怒声に恐らく味方である男たちが動く。落ちていたならず者の剣を投げつけた。と同時に疾駆する。肉薄したと思ったが、エタニカはぎくりと動きを止めてしまった。
 木立の向こうに、驚愕に棒立ちになる壮年の男性の姿。
(バルト将軍!)
 鈍ったエタニカの剣をひらりとかわして、三人組はあっという間に駆け去る。包囲が追いつかない。追尾した者が数名いるが、恐らく取り逃がしてしまうだろう。エタニカは自身も地面を蹴ったが、その前にバルト将軍に腕を掴まれてしまった。
 歯を食いしばる。将軍の憤怒はもっともだった。
「これは一体、どういうことなのですか」
「将軍」
 それでも表情ほどの厳しいものでないのはこの人の自制のなせるわざだ。周囲を慮って低めた声で問いかけられ、エタニカの良心が痛む。
「お離しください。お話ならば、後ほど」
「逃げるのですか!」
「そんなことよりも、司教様の身が危険なのです! 彼らは無頼者たちを始末した。奴らの根城になっていた教会の人間の口を封じようとするかもしれない!」
 逆に腕を掴み返した。驚いた様子でバルト将軍は口を閉ざした。
「きちんと、ご説明申し上げます。ですから今は」
「……信じております。姫君」
 森を駆ける。何重にもなっている衣装の裾が広がり、あちこちに引っかかってしまう。振り切っていくと、布の破れる音が響く。そんなものに構っていられないが自然と速度が落ち、バルト将軍が隣に並び、追い越していく。
「先導します、失礼を!」
 お願いします、と口惜しい思いで見送る。
(シンフォード様はご無事だろうか……!)
 教会の裏手にようやく到着した。エタニカが見たのは交戦の痕跡だ。土を蹴った跡、血痕。離れたとこから剣戟が聞こえる。教会の裏手の扉が外れているのを見つけ、中に入る。
 廊下を進み、閉ざされた扉を横目に角を曲がる。長い廊下が続いているはずだが、曲がってすぐに開け放された扉が揺れていた。
 飛び込むと、今まさに戦いの最中だった。
 のしかかるように迫った相手を、シンフォードが受け止めていた。司教が青ざめた顔でへたり込んでいる。
 この襲撃者も、仮面と外套で姿を隠した者だ。エタニカの姿を認めると素早く飛び離れた。剣をかわして、これもまた走り去る。
「追うな!」とシンフォードがきつく呼び止めた。
「統制の取れた刺客だ。このまま追うと貴方の身が危ない。密かに追わせて捕らえさせる」
「殿下、怪我を!?」
 シンフォードは左腕を庇っている。
「問題ない。きちんと動く。身体が鈍っていたせいでかわせなかっただけだ。それよりも貴方は無事だったか」
「……申し訳ありません。どうやら、一歩遅かったようでした」
 口封じされたであろうナラと、ならず者たちの死体を見たことを説明する。恐らくアンナの身柄も確保されたのではないかとも伝えた。シンフォードは深く息を吐いた。
「追っ手をかけたが……危険な相手のようだ」
「いったい、誰がこんなことをしたのでしょうか。相当力のある相手だと思うのですが……」
 言いながら、エタニカは負傷した彼の腕が気がかりで仕方がない。傷が視界に入らないように押さえているが、袖に血が滲んでいる。数を相手にしたのか全身汚れてもいた。
「…………」
「殿下? 傷が痛むのですか」
 いや、とシンフォードは首を振った。けれど何かを考えているのだ。
「何か気付かれたことがあるのですか? 教えてください」
「過ぎた憶測で不安を煽りたくない。しばらく調べて、確信できるようになれば伝える」
 拒絶したシンフォードは、呼び声に顔を向ける。バルト将軍はまっすぐエタニカを目指しており、エタニカはシンフォードの背中の裾をそっと握った。
「すみません。……知られてしまいました」
 囁いた言葉に、シンフォードは頷いた。



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