その場で問いただす前に、すべきことを優先したシンフォードとバルトは、散々な姿になったエタニカをまずノリス邸へ帰した。『アンナ王女』の手当と保護をせねば不自然だったからだ。現場の検証を含む諸々からエタニカは遠ざけられた。
 もちろん、ルルにさんざん叱られた。あれほど無茶をするなと言ったのにどういうことだと泣かれ、シンフォードは何をしていたのだと彼を詰った。エタニカの怪我は走った際に草や枝でつけた軽いもので済んでいたが、剣の傷でも作っていればしばらくお説教だったに違いない。
「でも、ルル。シンフォード様は私を気遣ってくださったよ」
「当たり前です。そういう風にお育てしたんですから。だから姫様も十分に甘えてよろしいんですわ。もちろん、私にも!」
 そう言って髪をとかしてくれる彼女の優しさが嬉しかった。騒ぎを聞いたノリス子爵夫人までが、自身も不安だろうに王女を励ましにやってきてくれる。どうやら、王女はならず者たちとの戦いに巻き込まれたということになっているらしい。
「大丈夫ですか? さぞ恐ろしい思いをなさったでしょう」
「皆様が助けてくださいましたから」
 何があったのか詳細に話すわけにはいかず、曖昧にごまかしたことが思い出したくないのだと捉えられたのか、ウィノアは「お可哀想に」とエタニカを抱きしめてくれた。
「気丈に振る舞い続けなくていいのですよ。けれど、そんなアンナ様を尊敬いたします。困ったことがあったら私どもを頼ってくださいね」
 一方で思うのは、アンナにそうしていた女官が犠牲になったことだ。気位の高いところがあったが、よく仕えてくれた娘だった。政略結婚への同行も、アンナのように泣くことなくしっかりと支えてくれていたのに。そう思うと、無力感で唇を噛んでいた。
 アンナが戻ってこない以上、ナラの死は、彼女の家族に知らせてやることができない。知らせたとしても、本当の死因は話せない。死が訪れると思っていなかった凄まじい表情で絶命したナラが哀れで、梳かしてもらった頭を掻きむしりたい衝動に駆られる。
「皆様、私を甘やかしてくださる」
 いい歳をして年上の女性に抱きしめ撫でられて、切ない痛みを覚える。ウィノアは花のように甘い石鹸の香りがした。その胸は暖かくて心が安らいだけれど、居心地の悪さも感じた。
(私は、アンナではない。今の私に向けられる思いは、あの子のものだ)
 日が暮れ、出ていた人々が戻ってきたらしいと知ったエタニカは、話を聞くためにシンフォードを訪ねることにした。
 ノリス子爵はあまり使用人を置いていないらしい。近隣の村からの通いなのかもしれない。廊下は静かだが、外ではいくつも松明が見える。陰惨な殺戮が行われたことは夢ではない。
「アンナ姫」
 影が見えると思ったら、ノリス子爵だった。
「シンフォードのところへ行くんですね」
「はい。皆様お戻りになられたのですね。何か分かりましたか?」
 彼は眉を下げた。
「勝手に話すとあなたの婚約者に叱られます。自分が話すからと釘を刺されてしまっているので。ああ、もしよかったら、ついでに彼の傷の手当をお願いしてもいいですか? 大丈夫だからと撥ね付けて動き回っていたんですよ。あの馬鹿」
 苦笑いしながらの人称は、普段から歯に衣着せぬ物言いをしていることを感じさせる。
 彼の持っていた薬箱を受け取ろうとしたが、部屋まで持っていくからと軽くあしらわれてしまう。等間隔に燭台の灯火が明るく照らしている廊下を一度曲がるだけの短い距離だったが、問いかけてみることにした。
「子爵は、シンフォード殿下とずいぶん親しくしていらっしゃるのですね」
「ロルフと呼んでください。同門の友なんですよ。義父殿が師です。ちょっとした儀礼みたいなものなんですが、この国の王侯貴族の子どもは、ある程度の年齢になると将軍の元にやられて、見込みがあると弟子にしてもらえるんです。僕はシンが弟子になってよかったと思ったな。国王と仰ぐ人が、先達に見込みありと認めてもらえるとほっとするものです。……こういう喋り方は気に障りませんか?」
「とんでもない。殿下に心許せる友人がいて、嬉しいです」
 ロルフのような友人がいることは意外で、けれど、なんだか我がことのように心が弾む。好かれていると分かるし、彼もまた心を許せる存在があるのだ。一人で何でも出来る人だけに、周りを拒絶してしまうことになれば悲しい。
「子爵のような方に見ていただけていれば、きっと殿下は大丈夫ですね」
「……ふむ」
 ロルフは唸って、まじまじとエタニカを見下ろした。きょとんとしていると、にかりと笑いかけられる。
「シンがあなたを大事にする理由が少し分かった気がします。あなたの言うように、僕らがすぐ近くにいて見守っているのだと、彼がいつも知っていてくれるといいんですがね。さて」
 目の前にある扉を叩く。
「シンフォード。僕だ」
「入ってくれ」
 ほとんど返事の前に扉が開いていた。その状態で、シンフォードはエタニカとばっちりと目を合わせた。そうして、向こうが硬直した。珍しく目を見開いて。
 彼は裸だった。上半身に何も身に付けていない。受けたばかりの左腕の傷から血がにじんでいたが、それよりももっと痛々しく見えたのは、白く残る無数の傷跡だった。
「では、姫。後は頼みました。じゃあシンフォード、また後で」
 薬箱を寄越してロルフは颯爽と立ち去った。背後で扉の閉まる音を聞く。動けない。目がそらせない。鍛え上げられた半身、無数の傷。シンフォードの裸身に目が引き寄せられる。思ったよりも、濃い色の肌だ。
 なんとか、礼儀として反転した背に、シンフォードのため息が聞こえた。
「すまない。みっともないものを晒した」
「いえ! お知らせしなかった私が悪いのです。申し訳ありません」
 騒ぐ胸を押さえる。仕事柄、着替えや手当で男性の裸は見慣れているのだが、それがシンフォードだと、おかしいくらいに顔が火照る。
(すごい。傷だらけで、鍛えられている)
 衣服で隠れる胴体だけではない。腕にも、肩にも。かなり古い傷だった。盛り上がった新しいものはなく、白く引きつった跡になっていた。すぐに見て取れるということは深く大きな傷だったということだ。彼ほどの人が傷を負うなんて、どれだけの戦いがあったのだろう。
「気にすることはない。もう塞がっている」
 思考を読んだようにシンフォードが言った。
「気を遣わせるからあまり肌を晒したくなくてな。年頃の娘のようだが」
 戯けて言ったのが分かってエタニカは笑みをこぼした。
「傷を誇るよりも、見た相手の気持ちを考えて隠される殿下は、お優しい」
「己が無力を見せるようで体裁が悪いだけだ。可哀想だと言われるが、それは誤りだ。本当に哀れなのは塞ぐことのない傷を負った者たちだろう」
 ええ、とエタニカは頷いた。彼ならきっとそうだろう。
「憐れまれるよりも、感謝され労われる方が安心する。そして触れられれば、もっと嬉しい」
 ふっと吐息がかかったように思えて、エタニカは振り向こうとした。だが、それよりも早く目前にある扉に後ろから手が置かれる。だん、と強い音にびくりとすると、耳元で声がした。
「――触れられたことが?」
「は、あ、あの……医師が『よく頑張った。よく耐えた』と労いながら手当てしてくれるので、それがちょっと、嬉しいというか」
 シンフォードが指を取った。
 振り向かされ、エタニカはぎしりと固まる。
「ど……どうしてまだ何も身に付けてないんですか!?」
「実感してみたい。感謝して、触れてほしい。貴方が普段どのように感じているか、知りたいのだが」
 手を引かれるままに座らされ、並んで腰を下ろす。膝に置いた薬箱の重みをぼうっと感じていたエタニカは、はっと我に返って急いで傷薬と包帯を取り出した。
 放置されていた左腕の傷は、一部が瘡蓋になって固まっている。動き続けていたために完全に塞がっておらず、引きつって痛むだろうに、シンフォードは顔をしかめない。まず清潔な布で汚れを拭い、軟膏を塗布する。
 触れると、かすかに筋が動く。エタニカの心臓は跳ねた。呼吸が細く喘いでしまうことが気取られないように、わざと大きく息を吸った。シンフォードが緩く微笑んでいることには気付かない。
「くすぐったいですか? すみません」
「さすが、貴方は手慣れている」
 怪我が絶えないので、重さを問わず応急処置はこなれてくる。「怪我がないのが一番なのですが」と言いながら包帯を巻いていく。
 シンフォードの素肌は、暖かい。引き締まって固いのは、鍛錬を怠っていないからだ。戦う人の身体だった。
 だが、エタニカは自分がおかしいことに気付いた。奇妙なことに身体の動きがぎこちない。自身の違和感に首を傾げる。顔が火照るし、特に気にしたことはない異性の裸なのに、目がうろうろしてしまっている。胸の奥がざわついて意味もなく動き回ってしまいそうだ。
「あの……申し訳ありませんでした。もう怪我をするような情勢ではないのに」
 言うと、さっと熱が引いた。
 自分たちのことがなければ、あのような犠牲も、この傷もないのかと思うと、たまらない。それらを胸に抱くのが戦う者の宿命だと言っても、シンフォードの負傷は辛かったのだ。
「私が未熟だっただけだ。気にしないでいい。結局は役得になった。こうして貴方と過ごすことができる」
 はた、と目を合わせた。
 シンフォードは、少し笑っているように思える。
 エタニカは、こくりと頷いた。
「そうですね。ノリス子爵様にも、殿下とアンナ王女の仲が親しいものだと認識していただけたようですし、こうしてお話する時間も自然と取れて…………殿下、どうして向こうを向くのですか?」
「く……」
「震えて……? もしかして傷が痛むのですか!? すみません、きつく巻きすぎました!」
 早急に包帯を巻き直す。やはり何も考えないうちに行った方がいつも通り手際よく出来るらしい。これでどうですか、と窺うと、シンフォードは言った。
「貴方は、大変、面白い」
 面白いとは。問う前に「手当をありがとう」と言って着替えを始められてしまったので、薬箱を片付けながら視線をそらし、心持ち背を向けるようにする。バルト将軍の来訪が告げられたのはその時だった。
 夜分遅く、と言葉少なに来訪を詫びた彼は、シンフォードとエタニカを交互に見遣り、扉を閉ざした。人払いは済ませてあると言われ、エタニカは背筋を伸ばした。



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