旧和三年
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旧和三年。
乱世である。
すめらみことの御代が改まり元号を旧和とした緋の国であったが、世は相も変わらず、幻氏と比良氏が、みことの御座す都を中点に国を二分して久しくあった。
幻一族と比良一族、元は同じ血筋であるから業が深い。三百年ほどばかり前、一族の娘を妃として次々に送り出したことが台頭の始まりだったというが、この皇妃となる娘を選ぶ時点からして両氏の対立は避けられなかったという。
その頃の政は比良氏のものであった。比良の一族には女子が多かった。宮様方に女たちを縁付け、自らの娘を皇后にも推し、政情を掌握していった。対して幻氏もある宮様を旗頭に立ち上がったが敗残し、東へ、主立った男たちは鄙の地へと流刑に処されたという。天敵を追放した比良氏はますます勢力を伸ばしたが、そのすめらみことが諡したことによって乱が始まったのである。あらゆる臣従は己を武士と自称し、幻氏はその先頭に立った。
のちに曰く、東の幻氏、西の比良氏。
こうして、旧和三年である。
時子は、姓を幻といった。幻一族の血を引いているが、傍系も傍系、末も末、端も端の、幻姓を名乗ることで身を保っているような幻氏だった。齢六つにして二親はなく、叔父を頼ってその屋敷に上がり、童女として家人の世話をしていた。
叔父は奥方の実家の豪農に婿入りして大成したので、大層な大金持ちであった。才があると評判で、また気前も良かった。骨董に目がなくもあった。時子の父の死に際して家督を継ぎはしたものの一族の内で決して身分は高くはなく、なれど四季の折々や元旦などに艶やかな着物を贈ってくれることがあった。その奥方は時子のような親を亡くした血の繋がりのない縁戚を屋敷に置くことを許す寛容なお人であった。
しかしそれを無邪気に喜べたのは物の知らぬ幼子の時分だけで、じきに、己の仕事は家人の世話をすることで、家族として表へ出されることがないのだと理解すると、頼るもののないこの身はいざというときの肥やしでしかないのだと悟った。それは叔父夫婦の一人娘のおひいさまの可愛がられる様を見れば、ますます確信に近くあった。
しかして、斯様な田舎では幻氏と比良氏の諍いは遠く、年が明けて九つになった時子の日常はまあまあ平らかであった。
この日も、早朝の雪で茶を飲むとどんな味がするだろうとおひいさまが言いなさったので、時子が雪を集めるお役目を言いつかった。
「誰も踏んだことのない、まっしろの、まっさらな雪でないといやよ」
裏ではすでに朝餉をこしらえるために煮炊きが始まり、男衆も家の手入れや雪かきに歩き回っているため、家の周りで雪を集めることはできない。ゆえに時子は屋敷の裏手の林へ向かった。林にいるのは木こりか獣の類、少し奥へ行けば真新しい深雪が手に入る、日が昇ったのだから平気だわと、雪を踏みふみ、かじかむ手に息を吹きかけながら足を進めて行った。
白い山嶺は銀色を帯びた影になって見えた。鮮烈な陽光が山の縁をこがねに染め、霧のような雲が陽を透かして棚引いている。降り積もった雪は細やかに輝き、立ち尽くす木々の黒は冬の長さを告げていた。獣の足跡すらない林の奥は、時折、どささ、と枝雪の落ちる音がする。雪靴を履いた足がしとどに濡れる。吐く息は白く、擦り合わせる手はなかなか温もらない。
凍み雪の冷たさが感じられなくなる頃、ぽっかりと空いた木々の狭間を見つけた。ここならばよかろう。その白雪をせっせと革袋に詰めて、すぐに来た道を戻る。早く戻らねばおひいさまのご機嫌が悪うなってしまう。
は、は、と白い息を短く吐き出しながら進んでいたとき、ふと白銀に埋もれた南天の枝に気が付いた。
赤い実は、美しかった。母の持っていた簪の珊瑚、いや、血の珠のようだった。
ふらふらと誘われるように時子はその赤い実のなる枝を手折り、懐に入れた。ここまで来たのに自分の土産もないのは寂しいものだ。父の刀も母の簪ももう時子のもとにないのだから、なおさら。
枝を折った拍子に、実に葉に降り積もっていた雪が落ちた。
そのとき不意に過った思いはなんだったのか。
幾度となく思い返してみたがよく覚えていない。ただ、誰よりも早く、おひいさまよりも先に、雪の花の味を知らねばならぬと思ったのだ。
両の手で南天に積もった雪を受け止め、くん、と匂いを嗅いだ。鼻を刺す冷気は瑞々しい水の香と等しい。夜更けに降った新雪は赤くかじかんだ指先からさらさらと溶けゆき、細枝のような腕を伝っていく。その雫を舐めてから、手のひらの雪を口に含んだ。
真白く輝く雪ではあったが、やはり別段美味いものでもない。同じ白なら粥の方が好きだと思ったが、誰よりも早く清らな雪を食したのはたいへんに快いことだった。手首に残った雫を舐め取っていると、ざあぁと梢の雪が舞い落ちる音、そして静寂をどかどかと踏みつける蹄の音が響いた。
そうして目の前に真っ黒の塊のような青駒が現れた。手綱を強く引かれて馬が高く嘶いた。それを時子はおやまあと目を丸くして見ていた。
鼻息荒い馬の上から時子を見下ろしていたのは、なんとも雄々しい若武者であった。髪を一本に結い上げ、腰には三振りの刀を差し、銀鼠色の着物に毛皮の鎧を纏っていた。二十歳前だろうか、乱れた髪がぱらぱらと落ちかかる秀でた額には幼さが残っている。
「村の子か?」
不思議そうに問う声は野風のようだった。さっぱりとしてなにものにも囚われぬ自由の匂いがした。
時子が首を振ると、若者はますます訝しげに眉を跳ね上げた。
「では何故こんなところで雪を喰っている?」
どうやらこのお人は、幼い娘が貧しさゆえに雪を食っていたのだと考えたらしい。しげしげと覗き込むように身を乗り出してきたのがなんだかおかしかった。
「ただ雪を食しとうございました」
若者は馬を下りると、さっと屈んで目を合わせてきた。黒星のまなこにはちかちかと小さな火花が散って見えて、斯様に美しい目をしたお人がいるのかと時子は驚いた。
「お前、名は?」
「時子と申します」
「時子、送ってやろう。家はどこだ?」
素直に林向こうの丘の叔父の屋敷のことを告げると、彼は目を見張り、面白げに首を傾げた。
「俺の行き先も幻家の婿当主の屋敷だ。これも何かの縁であろう」
時子を鞍に押し上げた若者は自らも飛び乗ると、えいやっと馬を駆り、あっという間に林を抜けた。時子が難儀した雪を蹴散らし、一息に丘を駆け上がって屋敷の門前へと乗り付ける。急襲とも呼ぶべき来訪に家人が慌てて駆け寄ってきたが、彼は時子を下ろしながら叔父を訪ねてきたことを告げ、さっさと奥へ上がり込んでいってしまった。同乗させた女童のことなどもうすっかり忘れ去った風情であった。
おひいさまのもとへ雪を届けた時子だが、当然、遅いと叱られた。だが姫の不満もそう長くは続かなかった。客人に挨拶するようにと呼ばれて行ったからである。
さっきの若様だろうと思いつつ、時子は仕事に戻った。すべきことは山のようにある。おひいさまの部屋を掃除し、床を整え、紅白粉の残りを確かめ、装身具を磨く。茶菓子を用意し、いつでも熱い茶が飲めるようにしておく。それが終わったら女中たちに混じって家の仕事をせねばならない。ここで仕事しない者は食わせてもらえぬから。
年嵩の女中らはすでに客人の噂に夢中だった。あの若武者が幻氏頭領影喜の嫡男であること、影喜は幻氏ここにありと兵を挙げたもののふであること、この田舎の屋敷に来たのは恐らく次の戦のための援助を求めただろうこと。
幻一族が挙兵したことは時子も聞き及んでいた。西の比良氏は後ろ盾であった先のすめらみことが諡したことで勢いを弱めており、幻氏はその隙を突いたのだ。その幻一族の総大将が、影喜であった。
どうやらまだ戦は続くらしい。しかし傍系の末の端の時子には、あまりに遠い話だ。
しばらくしておひいさまに呼ばれた時子は、話し相手となりながら、客人が数日滞在することを知った。しかし退屈でほとんど話を聞いていなかった姫の話では、叔父が支援を渋ったのか、それとも何か別の思惑があって留め置こうとしているのかまではわからなかった。
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