旧和三年ノ二
旧和三年ノ二
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あの人は嫌い、と鈴の鳴るような声でおひいさまは言った。ぬばたまの髪を梳らせていた姫は、時子が目を丸くしているのに気付かず、菓子盆の干し栗を摘んでいる。
「あの人は嫌い。大きな声で笑うし、お父様にずけずけと物を言って無礼だし、何より目が怖いのだもの」
だから嫌いなのよ、と噛み締めるように繰り返す。おひいさまはすっかり印象を悪くしてしまったらしかった。
しかしそれは屋敷の者の大半にも言えることだった。着物が地味でいかんと文句をつけたとか、こんな食事では精がつかぬと言ったとか。ただし本当にそのようにしたかは定かでない。「この家で最も派手な着物はどれか」と尋ねたり、自身の食事を屋敷の犬猫に与えていたりしていたことは時子も知っている。洗濯女を部屋に呼んだとも聞いたが、噂をする女たちが声を潜めたので具体的に何があったのかはわからない。ただ呼びつけられた娘はその後他の女たちに妬ましげに睨まれている。
確かに、火花の散る不思議なまなこを持つお人であった。同様に、その自由な振る舞いにも苛烈な気性が滲んでいるというわけだった。
その後針仕事を教えに奥方様がいらしたが、姫が新雪で淹れた茶を飲んだと聞くと、なんと風雅なことところころと笑い、同じようにしてみようと仰せられ、時子に明日の朝雪を持ってくるよう命じた。承りましたという時子の返答を奥方様は聞いておられなかった。それ以外の答えは必要ないからだった。
夜になって家人が眠りにつくと、仕事を終えた使用人たちはようやく自分の時間を持つことができる。疲れて寝入る女たちを起こさぬよう足音を忍ばせて、時子は人知れず外へ出た。
冬の銀星が瞬く空に白く吐いた息が消えていく。
羽織ものなど持たない時子は、己が身を抱くようにしながら、庭の隅に雪を固めた塚を作り、懐に忍ばせてきた南天の枝を置いて手を合わせた。父母のために持参した小さな持仏はまとめて弔うから必要ないと叔父に取り上げられてしまっていたからだ。
(……父上、母上。今日もつつがなく過ごすことができました。明日も健やかな一日でありますよう、時子をお守りくださいませ……)
「南天は美味くないぞ」
不意に声がして、驚き、振り返った。誰何する前に腕を掴まれ、身体がふわりと宙に浮いていた。時子を軽々と抱え上げたその人は無邪気に笑いながら、時子、と名を呼んできた。
「おいで。菓子をやろう」
おいでも何も、抱えられているのだから逃れようもない。彼はしがみつく時子を抱えて大股に庭を横切ると、自身に当てがわれている客間の縁側に時子を座らせ、火鉢に綿入れに、菓子盆に茶器一式にとまめまめしく動き回った。
「雪見茶といこう」
茶碗から湯気が泳ぐ。促されるまま口をつけた香り高い茶は、びっくりするほど苦く、また時子の舌には痺れるほど熱かった。まじまじと隣を見るが、若君は平然としている。ふうふうと息を吹きかけても、冷めこそしたがやはり苦味は変わらず、ちびちびと口をつけた。
行灯の明かりがぽうっと周囲を照らし、時子と若君の影を庭に伸ばしていた。雪かきされた庭は地肌が見えて風情が良いとは言えなかったが、闇の中の南天の実は鮮やかで、空にある薄ぼけた月の光もなんとはなしに時子の心を鎮めた。
「南天を」
「ん?」
「食したことがあるのですか?」
「うん、その辺りに腐るほど生えていたのでな。しかし空きっ腹であっても食うものではないな。不味いし、そのうち吐き戻してしもうたわ。あれは飾るくらいでちょうどよかろう。お前なら髪に挿せばよい。きっとよく映える」
隣に座っても少しばかり高い位置にある顔を見上げていると、その大きな手のひらが前から被さり、頭を撫でられた。
「時子の親はここで働いているのか?」
「いいえ。六つのときに父母が亡くなったので、叔父を頼って参りました」
途端に彼は奇妙な顔で唸るように尋ねた。
「では、お前は幻氏か」
「はい、父母からそう聞いておりました。父は友明、母は香と申します」
途端に若君は天を仰ぎ、ぴしゃりと額を叩いてむうと唸った。そうして無造作に胡座を組んだ上に肘をつき、遠くを睨むようにして何事か考えているようだった。こういうときは静かに下がるべきだと屋敷に来てから躾けられていた時子は、その場を離れるために一声かけようとして、風を切るように素早く差し出された菓子盆に目を丸くした。
「食え」
ほとんど命令であった。押し付けられた菓子盆を受け取り、蓋を開けてみると、ふっくらとした大福が現れた。白餅など滅多に口にできるものではない。若君の顔を窺うとしっかりと頷かれたので、いそいそと手に取った。伸びる餅も砂糖たっぷりの餡も極上の甘さで、思わず頬が緩む。それを見た若君が「年相応の顔もできるのだな」と笑った。
「ほら、もっと食え」
「いいえ、もう十分いただきました」
ありがとうございました、美味しゅうございました、と頭を下げる。
「若殿様もお疲れでございましょう。もうお休みください」
「別に疲れてはいないが、お前が言うならそうしよう。時子、お前は明日からこちらに来い。当主殿には俺が言っておく」
叔父が許すだろうか、おひいさまのご機嫌を損ねると思うが、と頭の隅で考えたが、高貴な客人に無礼を働くわけにはいかず「ご命令に従います」と首肯した。
部屋まで送ってやろうと言われたが、丁重に断り、茶と菓子の礼を言って別れた。若君はたとえ黙っていても空気の方が勝手に騒ぐようなお人だ。女中部屋に近付けば誰かしらが目を覚まして大騒ぎになるに違いなかった。
忍び戻った部屋で薄い布団に包まりながら、時子は若君の真っ直ぐな笑顔を思い出した。そして、あの方のお世話をするのは楽しかろうな、と考えた。何が起こるかわからないけれど、きっと思いがけないことが起こるだろうけれども、一生忘れないようなものに出会う、そんな気がしたのだった。
使用人とは、夜明け前の一番鶏よりも早く目を覚まし、深更の頃に眠りにつくもの。時子も六つの頃からそのように暮らしていた。髪を梳る時間は両親の庇護のもとにあった頃とは比べものにならぬほど短く、指先は毎日の水仕事で固くひび割れ、なかなか湯を使うことができないために身体のどこかしらが汚れていた。
井戸から水を汲んだ桶を、えいやっと下げて歩き出す。よたよたと戻った台所では朝餉の支度が行われている。大瓶に水を注ぐ時子を「遅い」「うすのろ」と台所番が叱る。
常ならばこの後は食事だが、時子が水汲みを終えたのを見計らって台所番がいやらしく顔を歪めながら言った。
「姫様がお呼びだよ。さっさとお行き」
急いで姫のもとへ向かうと、おひいさまに「遅い」と枕を投げつけられた。近くにはいつも支度を手伝っている女中らが揃っているが、どうやら姫は時子が来るまで頑として動かないでいたらしかった。
姫に髪を梳けと言われ、女中たちからはおひいさまの機嫌を損ねたことへの非難の視線を浴びながら、いつもの櫛を手に取った。そこかしこに雫が零れるような気がする見事な緑の黒髪である。父母が在れば自分のこのように美しい髪をしていたのだろうかと考えながら、無心に櫛を当てた。
そこへ叔父からの伝言を携えた女中がやってきた。そして不機嫌な姫がだんまりでいるのも構わず、何故か、時子に用があると言い出した。ままならぬと知った姫は、きっ、ときつく女中を睨み据えたが、父上様の命にございますという言葉にいっそうむくれて、ぷいと顔を背けてしまった。
早く行けと目で促す女中に頷いた時子は姫の御前を辞すと、叔父の部屋を目指した。今日はよく走る日であった。
「遅い。呼ばれたときにはもっと早く来なさい」
はい、と叔父に応じる声は掠れてしまった。忙しなく呼吸をしているとそうなってしまう。
「今日からお客人の世話をしなさい。くれぐれも、粗相のないように」
行け、と顎で示されて、下がったその足で客人のもとへ行く。
時子が参じたときには、若君はすでに身なりを整えて文机に向かっていた。傍らには昨夜飲んだものと同じような渋茶がある。ではこの方は着替えも茶を淹れるのもすべてご自分でなさってしまわれたのだ、と時子は小さくなった。誰に「遅い」と言われてもそうかとしか思わなんだが、このときだけはそれが悔やまれてならなかった。
少しでもお役に立たねばならぬと思い、部屋の隅にじっと控えていると、筆を置いた若君が大きく伸びをし、気配を感じたのか振り返って、おお、と声を漏らした。
「なんだ、いたのか。時子」
おいでと言われ、わずかににじり寄ると「何をしている」と苦笑される。
「もっと、近う」
膝を突き合わせるほどに近付くと、途端にそのお顔を見ることができなくなった。肩を縮め「申し訳ござりませぬ」と言う。
「遅くなりまして……」
「構わぬ。時子は働き者なのだとよくわかった」
若君はからりと笑って時子の俯いた頭を撫でる。そのように触れられるのはいつぶりか。亡母を思い出すが、母はこのような荒々しい手つきも愛嬌のある撫で方もしなかった。こうして後で髪を梳いて整える必要もなかったが、これはこれで不思議と心地よいものだと知った。
「俺はこの地に来たばかりゆえ、お前に案内を頼みたい」
「承りました」
破顔一笑した若君は時子を連れ、屋敷を出た。「さあどこへ行く?」とわくわくと光る目が里の子と変わらぬことをおかしく思いながら、時子は少し考え、雪里の向こうの山を指し示した。
客人はたいそう案内しがいのある御仁であった。この道は里人がよく使うのか、夏はどのような花が咲くのかという問いかけから、里には田畑がどれくらいあるのか、何を作っているのか、どれほどの人が住み、里の外の人間がやってくることはあるのかなど、よく尋ね、相槌し、よく笑った。時子もわからぬことはわからぬと言い、知っていることを素直に答えた。里人でなければ知り得ぬことを聞きたがっていると察したからである。
やがて時子たちは雪でまろみを帯びた山の上に至った。向こうはどこまでも続く真白の山並み、振り返れば人里と丘の上の屋敷を見下ろせた。
銀と鈍色の山嶺は、どこか獣の背に似ていた。手でなぞれば、毛皮のように固く温かく感じられるような気さえした。ぬくもりを帯びた夢想は、時子の右手を握っている若君の存在ゆえだったのだろうと思う。父母はなく、他に頼れる者もなく、恐らく骨を埋めるこの地がせめて暖かくあればという望みもあったのかもしれない。
けれどいまは。
傍らに立つ人の、白く照り輝く精悍な横顔を、忘れないでいようと心に決めていた。
時子、とき、とき、と若君は子犬を呼ぶように時子を呼ばわった。時子は、はい、はい、と返事をし、言いつけられた仕事をこなし、ときには菓子を振る舞われ、またあるときには無用のものだからと細々した品を下げ渡された。
漆塗りの椀、鼈甲の簪、白貝の小花と兎の帯留め、蜻蛉玉の根付け。無造作に手のひらに載せられるそれらが高価な品だと一目でわかり、幾度となく固辞したが、要らぬなら捨ててしまえと言われ、仕方なしに受け取ることが続いた。
しかし臆する気持ちを払拭するほどにそれらは時子の手の内で親しげに輝いていて、いつしか、ああこれはきっと私に出会うためにやってきたのだ、と思えるようになっていた。そのような品を若君が選んでいることを悟ったゆえ、不必要に断ることは控え、受け取るときは心からの感謝を伝えるようにした。しかしこのような無駄遣いはよろしくないと諫めると、若君は「その歳で口うるさいのはどうかと思うぞ」と呆れ、「時子は笑っていた方が良い」とどこからともなく取り出した菓子を時子の口に放り込むのだった。
雪が緩み始めたある日、新たな客人がやってきた。
叔父が応対し、その後すぐに若君が呼ばれた。若君は心なしか険しい顔つきで時子に下がっているよう命じた。何かにつけて、とき、時子、と側に寄せるにもかかわらず、このときの若君は声をかけることすら躊躇われるほど張り詰めており、まるで別人であった。もやもやとした、先の見えないような気持ちが時子の内で膨らんでいった。
いつしか屋敷中が糸を張り巡らせたような緊張感に包まれていた。戦が、という声がどこからともなく聞こえてきた。
会合は夜更けにまで及んだ。戻ってきた若君は部屋の隅に座っていた時子に驚いた顔をし、どかりと腰を下ろすと「長居した」と端的に呟いた。時子は黙って目を伏せた。
翌朝「世話になった」と言い置いて、若君は颪のごとく去っていった。
客人の去った部屋を開け放ち、掃除をしながら、時子はかの人の名を一度も呼ぶことがなかったことを思い返した。吹き込む風は強く、春疾風と呼ばれるものになっていた。
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