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 時子は泥のような眠りから目覚め、土に同化しそうな重い身体を起こそうとした、その時に、頭上から冷たい水を浴びせられ、一瞬溺れそうになった。目鼻と喉が潰れたようになり、咳き込んで小さくなる。上からしわがれた怒鳴り声が落ちて来た。
「愚図。のろま。早くお起き!」
 長く伸びた髪がすっかり土にまみれて、汚れた水のせいで、家畜小屋のにおいが立ち上るのを感じながら、何かとても懐かしい夢を見た気がすると、ほんのり温かくある心を感じた。
 十二になった時子の一日は、日も昇りきらぬ朝早くに荘園の畑仕事を初め、その間に家畜の世話をし、また畑仕事に戻り、夜半を過ぎても手間ひまのかかる仕事をやり、朝方近くになって眠るというものだった。こうなって、もう二年近くなる。娘らしい装いといえば、長く伸ばした髪であり、薄汚れても桃のような唇くらいだった。決して着物は美しくはない。毎晩家畜小屋で眠らされれば、薄汚れるのは当然。顔を洗う暇もなく、汗水を垂らして仕事をし、疲れた果てに眠る。
 以前の召使い部屋を追い出され、家人以下の扱いを受けるようになった理由を、時子は知らなかった。ある日突然持っていたすべてを取り上げられ、馬や牛の糞尿のにおいのする小屋の片隅で眠るよう言いつけられた。表へ出ることは決してなく、のろのろと仕事をすればむち打たれた。働くだけと躾けられたような従順さを身につけなければならないと知った時、時子はもうひとあつかいされぬのだと悟るしかなかった。
 荘園の小作人たちは、口もきかぬし、笑いもしない。時子も同じようになった。世間に疎くなり、見るものが狭まった。考える暇は働く暇に変わった。十二の時子にとって、それがすべてだった。
 時子が耕すべき畑は、いつの間にか割当を超えていた。誰かが病に倒れた、死んだ、となった時、その引き継ぎが時子に振られるのだった。だから一番早く起きて仕事をし、一番遅く仕事を終えることになった。春は種まき、夏は田植え、秋は収穫。ただただ季節が苦痛だったと気付くのは、冬、果樹に蓑を巻いたり、薪割りをしている時だった。辛いと思ったのは、果樹の木立の中に、いつからそこにあったのか、南天の赤い実を見つけたときだった。その紅の実の汚れぬ艶やかさよ。初冬、まだ涙は凍らずに、時子の頬を一筋滑り落ちた。
 その年、その冬、雪を踏み荒らす蹄の音が、こだまするように聞こえた。荘園の小作人たちは、自らを決して人目に触れさせぬよう身を隠したり、この身は卑しいものと平伏したが、時子が膝をついたのは折しも南天の木の側であり、その朱色を目にした途端、時子ははっとして膝を浮かした。
 その刹那、疾駆する馬が時子の泥で固まった髪を浮かせ、風のようにして騎乗した姿を時子の眼に焼き付けさせた。初め時子は、氷柱のごとく凍り付いたまま、今見たものが何だったのかを考えようとした。考えようとすればするほど、かあっと頬が熱くなり何も考えられなくなった。
 小鬼のような囁き声が聞こえてきた。
「あれは幻氏の若君でないか?」
「比良の直孝を打ち倒した御方かえ?」
「直孝というと、比良当主の伯父だったな……」
 視線をめぐらせてようやく、それが声を一度も聞いたことのなかった小作人たちの声だと知った。身なりの貧しい者たちが、誰も咎める者がないのに声を潜めているのは、時子の姿を思い知らせた。自分とて、彼らと同じような姿であることに変わりはないのだ。
「何故このような辺境に……」
「あたしは知ってるよ。あの御方は数年前にもこの地へいらしたよ。ここに来て準備を整えなすったに違いない。今度は、もっと大きな戦をされるんだ」
 薄暗い興奮した口調でぼそぼそと言葉を交わし合う彼らの側で、時子はぼうっと、溶ける雪の感触を感じていた。じわりじわりと時子の足を濡らした白雪は、冷たさから次第に刺すような温かさに変わりつつあった。
 荘園を管理する家人の怒声が響き、仕事に戻った時子たちだったが、すぐさま泡を食ったようにその家人が舞い戻り、これから決して口も聞いていけなければ顔を上げることもままならぬ。出来うるかぎりどこかの影でうずくまり、己を人前にさらすなと、そうお達しがあった。時子が選んだのは南天の影で、そこならば何かが自分を守ってくれそうな気がしたのだった。
 その内、鳥の鳴き声が聞こえてきた。かと思うと、それは軽やかな笑い声になった。どくりと胸が鳴ったのは、それがすっかり聞き覚えてしまった少女の声が、すっかり艶やかに華やかになった女声だったからだった。彼女こそ、時子の従姉妹である姫君だった。
 声は雲雀のようでいて、夏に弾けるような若々しく、瑞々しい声だった。声が聞こえたのは一瞬で、恐らく誰かに何か答えた時に響いたものだろう。華やかではあったが、決して下品でないのは、叔父叔母の教育のためであったのかもしれない。それでも、心無しか、媚を売ったように甘くも思えた。僻みであっても、そう思わずにはいられなかった。
「それにしても、姫は美しくなられた」
 氷が割れるような音がした。その音に飛び立つ小鳥のように、時子は顔を上げかけたが、ぐっとこらえ、恐る恐る声の主を盗み見た。精悍な横顔。太刀を佩いた姿。粗野で気ままに見えても無邪気な声には、いつしか時子に時間を感じさせる深みがあった。
「姫の顔は雪のように白い」
 まあ、と彼女は口元を隠した。はにかんだ姫は、馬上でそのまま楚々と衣の裾を摘み、梢に白い顔を向ける。梢から降る光を受けた従姉妹は、確かに名のある家の娘にふさわしい美しさである。
「雪はお好きでいらっしゃいますの?」
 いつしか、あの人は嫌いと言った口で、楽しげに彼女は口にする。
「雪は好ましい。特に、誰も踏まぬ白雪が」
「白雪と姫、どちらがお好き?」
「それは難しい。今の合わせもよい、先程の青の重ねの姫もよいが、小山の上で見る照り輝く白雪も美しい。それと同じこと」
「照り輝く白雪? いつご覧になりましたの?」
「随分昔に。この辺りを案内した者に見せてもらった」
 時子の心の臓は、はち切れんばかりに鳴った。
 それはわたくしです。あなたに手を握ってもらった、時子です。
「雪を食したことはおありか?」
「いいえ」
「では一度ご賞味あれ……と言うと、主殿に叱られるな」
 雪を食したのは私。あなたに菓子をもらったのも。漆器を、蜻蛉玉を、おはじきを、かんざしを、帯留めを、櫛を、錦を、もらったのは私。そこで笑い声を立てる少女に成り代わりたいと、時子は強く雪を握りしめた。冷たいが心を冷やしてはくれず、目頭がただ熱かった。
 しかし、その時、黒々とした眼が時子をとらえた。時子はまばたきした瞬間、曇っていた視界が少しばかり晴れたときに、それを知った。確かに、彼と時子は目を交わした。
(時子です。あなたと短くも過ごした、時子にございます)
 声は紙でも詰まったように出てこなかった。指も伸ばすことができなかった。あの時抱き上げてくれたように、手を伸ばしてくれることを望んだ。目で訴え、叫んだ。
 けれども、彼は目を逸らし、姫の乗る馬の口を引いて歩み去った。時子は呆然とし、そしてそこで初めて声を取り戻したが、出てくるのは苦しい呻きばかりだった。己が身を痛感した。薄汚れた娘を見るべき者ではないと思うくらいには、彼が幻氏の中核であることを思うのだった。
 時子の縮めた指の背に、小さな実が一つ。実を飾るものは何もなく、深緑と紅が濃いそれは、時子が手に出来る唯一の色彩であったのかもしれない。おもむろに手を伸ばし、手折る。いつしか父母に手を合わせることも忘れて時を過ごしていたことを思い、あの人が若君に相応しい姿を手に入れ、己が貧しい身なりとなっていることを悔やんだ。それでもすでに遅かった。彼の傍らには、すでに姫がいたのだった。

 冬場は、少しだけ早く眠ることができる。ふらふらと屋敷の方へ向かうと、すでに明かりも落ち、月が白々と輝いていた。降りた霜を踏む音がし、ただ時子は立ち尽くした。母屋へと、抱き上げて連れていかれた記憶がしとどに心を濡らす。ここから進んで、何をしようというのだろうと自問した。身一つしかない時子は、何をしてもどうともならないと思った。そのまま寝床へ戻り、実を縮めて眠った。凍えるようだった。

 夜明けとともに家人が起き出し、時子は眠れなかった身体を起こし、いつものように仕事に向かおうとした。水汲み、薪割り、洗濯、家畜の世話。やることは、時子に山ほど与えられている。
 汲んだ水を運びに屋敷の裏へ回ると、においに顔をしかめられ、いつもの残飯を貰い受けて隅で食べる。大根の葉の切れ端。芋の皮。何度も繰り返し噛んだ。そうこうしている内に呼ばれて、仕事を言いつけられる。きっと堆肥でも捨ててこいと言われるのだと思ったら、思いもがけないことを言われた。
「表へ回るんだよ。そこで仕事を貰いな」
 表に行くことなど滅多になく、それでも立ち止まっていれば叱られるので急いで向かう。そこには下男と見知らぬ男がいて、にやにやと笑いながら時子を呼んだ。
「これか?」
「見てくれはあれだが洗えばいい」
「ふうん。まあいい。仕事さえできれば」
 何か小袋が二人の間で受け渡される。中身を確かめた時、ちゃらちゃらと音が鳴った。下男を見た。だが、男が腕を取った。
「行くぞ」
 身売りされたのだった。どうして、と細い悲鳴のように訊くと、表から姫が現れた。その目を見て、知ってしまった。
 あの林の中で姫は気付いていないわけではなかったのだ。時子が目を上げていたことに気付き、何かを悟り、こうなるよう仕向けた。傍らの若君の前で売られていく、その悲しみを味わえと、そういうことだった。
 若君は気付いていない。声を上げることすら思いつかなかった。ひたすらに胸の内に名前を呼んだが、彼に呼びかける名前を時子は知らない。気付いてほしいと思うのに、見られたくないと思う己もおり、前へのめっては引きずられ、足を踏ん張っては引きずられた。
 その拍子に袂から零れ落ちた、南天の小枝。たった一つの飾りを拾い上げようとするも、腕は伸び切らず、空を掻く。ああそれすらも失われるのかと唇を噛み締めた時、指先に触れるか触れないかの場所で、何者かの手。
 顔を上げた刹那に、時子は宙を飛んでいた。腹に触れる位置に、輝く瞳があった。
「どこへ行く。時子」
 時子の呼んで止まなかったひとはそう尋ね、時子は呆然と、あやすように揺さぶられるがままになる。
「うん、どこへ行く。挨拶はなしか。先日、俺を無視したろう」
「……名を……」
「ん? 覚えていたかと? 当然だろう。美しゅうなったな、時子。しかし、少々、痩せ過ぎだ。これでは抱き心地がよくないぞ」
 呆気に取られる周囲も、何も見えなかった。時子は涙まじりに何かを言おうとし、結局は何も言えずに顔を覆った。それを何と思ったのか、「あれを妬いたのか?」と彼は尋ねた。「あれはただ資金を引き出すための追従だ。嘘も方便と言おう」とこっそり耳打ちする。
「時子。迎えに来た」
 そう彼は朗々と言った。
「俺と来い、時子。否やは言わせぬぞ。俺は、ずっと待っていたのだから」
 時子はただ彼の抱えられた腕の中で、小さな身体を精一杯震わせて頷いた。

 旧和六年。
 その暮れも、乱世である。
 比良氏当主の伯父直孝を討った幻氏は、これよりしばらく戦を繰り返し、ついに東を平定、のちに中央に台頭していくことになる。幻氏当主、これを影喜と言い、その息子を影朝という。
 今しばらく戦乱の影はあるも、影朝と歩み出す時子の時間は、これより春の訪れを待つばかりであった。時子、十二歳の冬である。



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