旧和六年
旧和六年
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泥のような眠りから目覚めた身体は、いまにも土と同化してしまいそうなほどに重かった。
そこに頭上から氷のような水を浴びせられて、一瞬溺れそうになる。目鼻と喉が潰れ、苦しさのあまり激しく咳き込んで身体を縮めていると、しわがれた怒鳴り声と蹴りがやってきた。
「愚図。のろま。さっさとお起き!」
苛立った雑色女の声に、懐かしい夢を見ていたのだと知る。汚れた水と土に塗れた髪を洗い濯ぐことができぬまま、時子は家畜の鶏らとともに寝床である小屋を出た。
十二になった時子の一日は、日の出より前に起き出して家畜の世話をし、畑仕事に出て、夜半過ぎまで屋敷の使用人の使い走りをし、疲れ果てて眠る、というものだった。櫛も持たぬゆえ髪はざんばら、唇は乾いてひび割れ、手はいつも荒れていた。家畜小屋で眠るゆえに着物は薄汚れ、汗水垂らして仕事をする顔を洗う間はなく、しかしそれらを気にすることもできぬほど、日々くたびれていた。
女中部屋を追い出され、雑人の扱いを受けるようになった理由を、時子は知らぬ。ある日唐突にすべてを取り上げられ、家畜の糞尿の臭いのする小屋で眠るよう言いつけられたのだ。おひいさまのお世話どころか屋敷に上がることすら許されず、仕事をともにしていた女中たちは汚らしいものにするように時子を扱い、同じ雑色は自身よりも時子を下に見て、にやにやと笑いながら食事や水を奪っていった。もとより薄い身体はますます薄くなり、手足は衰え、なおも這うように働けど、うすのろ、怠けるなと鞭打たれた。
時子の仕事は、いつの間にか当初の割り当てを超えていた。誰かが病だ、死んだとなったとき、それらの仕事がすべて時子に振られるがゆえのことだった。眠るため、鞭打たれぬために、誰よりも早く起きて仕事をし、最も遅く仕事を終えた。雑色たちは口も利かず笑いもしない。時の流れとともに時子もそうなった。人と関わらぬせいで世に疎くなり、常に俯くせいで視界が狭まった。考える暇より働く時間が必要だった。
言いなりになって動き、思考を捨て、命令に従順であることだけを望まれているのだと知ったとき、時子はもう人として扱われることはないのだと悟った。
しかし林の枝打ちの最中、南天を見つけたときは、人の心が痛みに疼いた。鮮やかな紅の実の輝きよ。初冬、涙は凍らず時子の頬を一筋滑り落ちた。それが、十二の時子であった。
その年、雪を踏み荒らす蹄の音が冬枯れの林にこだました。屋敷の雑色たちは常のように身を隠し、あるいは卑しいものであることを示して平伏したが、時子が伏せたのは折しも南天の枝の側であった。
はっと身を浮かせた。その刹那、傍らを美しい青駒が走り抜ける。目にしたものが信じられず、氷中のごとく凍りついていた時子の耳に囁き声が聞こえてきた。
「あれは幻氏の若殿ではないか?」
「比良との戦に勝った、あの?」
「そうだ、比良当主の伯父を討ち取った……」
声らしい声を聞いたことのない雑色たちが忙しなく噂をしている。途端に時子の頬がかあっと熱を持った。みすぼらしい身なりの者たちは、時子自身だ。あの頃とは違うのだということをはっきり思い知る。
雑色たちはなおも薄暗く興奮した調子でぼそぼそと言葉を交わしている。
「何故こんなところに……」
「あたしは知ってるよ。あの御方は以前にもこの地にいらして、戦の準備を整えなすったんだよ。だから今度はもっと大きな戦をするおつもりに違いないよ」
「お前たち、誰が休んでいいと言った!?」
そこへまとめ役の雑人の怒声が響いた。雑色たちは口を噤み、速やかに仕事に戻った。時子も無心で手を動かしていたつもりだったが、足元で溶けた雪のじわじわと染みる冷たくもぬるい感触に思わず顔を歪めていた。
鳥の声が聞こえていた。かと思うと、それはいつしか軽やかな娘の笑い声になっていた。時子の胸がどくりと鳴ったのは、聞き知った声が、艶やかな色を帯びた女声に変じていることに気が付いたからだった。他の者がそうするように時子はその場に蹲り、己が身を隠して、声の主が通り過ぎるのを待った。そうして南天の実に祈るように目を閉じた。
「少し見ぬうちに姫は大きゅうなられた」
ぱきん、と氷が割れるような音がした。音に驚き飛び立つ小鳥のように、時子の胸も激しく打ち、顔を上げそうになるのをぐっと堪え、恐る恐るやってくる者たちを盗み見た。
果たして、火花を秘めた瞳をしたかの人の姿があった。太刀を佩く厚みを増した姿。荒々しく気ままなれど無邪気な声の底に、時子の知らぬ時間を否応なしに知らせる深みがあった。
「若君も、ますます凛々しくなられましたこと」
娘の声は跳ね回る雲雀の囀り、橙の実の瑞々しさ。叔父叔母の教育の賜物か、華やかさに品が滲んでいた。しかし時子には心なしか媚を売っているように感じられた。僻みとわかっていてもそう思わずにはいられなかった。彼女こそ、時子の従姉妹である姫君である。自身の乗る馬を若君に引かせ、楚々と雪の下の襲の袖に白い手を隠し、冬の木漏れ日を受けて輝く姿は、一家の姫の立場にふさわしい美しさであった。
「人は変わるが、この地の雪は変わらず白い」
「雪がお好き?」
「雪は好ましい。特に、誰も踏まぬ白雪が」
「白雪と姫、どちらがお好き?」
いつか「あの人は嫌い」と言ったのと同じ口で姫が言う。
「それは難しい。その襲も良い、先ほどの若草色もよかったが、椿の襲もよかろう」
まあ、と姫は口元を隠し、あからさまに返答を避けた若君をくすくすと笑った。それに若君もからかう声音でやり返した。
「姫は、雪を食したことはおありか?」
時子の心の臓が軋むような音を立てた。
それはわたくし。雪を食したわたくしを、あなたが見つけた。
菓子をもらったのも。漆器を、簪を、帯留めを。根付けや錦を。いまなお心を温める記憶をあなたからいただいた。そこで笑う少女に成り代わることができたならと、時子は強く手を握り締めた。手の中の雪は氷の礫に変じて指先を凍えさせるが、時子のまなこは熱くなるばかりだった。
「いいえ」と答えた姫は、時子に雪を取ってくるよう命じ、茶を淹れさせたことを覚えてもいないらしかった。
「では一度ご賞味あれ……と言うと、主殿に叱られるかな」
そのとき、眩い瞳が時子を捉えた。曇り行く視界をまばたきで晴らして、時子はそれを知った。二つの視線が交わった瞬間であった。
(時子です。ひとときあなた様のお側にいた、時子にございます)
声は、押し潰されたように出てこなかった。指ひとつ動かすこともできず、あのとき抱え上げてくれたように手が伸ばされることを望んでいた。どうか、どうかと、時子は声なき声で訴えた。
しかれども若君は目を逸らし、姫の乗る馬を引いて歩み去っていった。
それを時子は呆然と見送り、見えなくなってようやく声を取り戻したが、発せられるのは獣めいた呻き声ばかりであった。せめてもと、目に入った南天の枝を手折ったものの、虚しさに涙が溢れた。身を飾るものもなく、いつしか父母に手を合わせることもなくなった日々を悔やんだ。それすらもすでに遅かった。
幻氏の御曹司に、薄汚れた娘は映らなかったのだ。
冬は日が落ちるのが早く、少しだけ早く休むことができる。月が白々と輝く夜を、時子はふらふらと霜を踏んで歩いた。
思い出がしとどに心を濡らす。
気付けば母屋の方へと足を向けていた時子は我に返ると、己の愚かさに顔を歪めた。近寄ることを禁じられた屋敷に立ち入って、何をしようというのか。会ってどうなるものか。どうにもならぬ、と思った。時子にできるのは身を翻し、鶏小屋の隅で身を縮めて眠ることだった。誰の心を騒がせることのないように。凍えるような夜であった。
朝まだき、冬空には白々と輝く月星。眠れずとも一日は始まる。水汲み、薪割り、家畜の世話、畑仕事。山ほど与えられている仕事をこなすうちに夜が明ける。
汲んだ水を運び入れ、不愉快そうに顔をしかめる女中から残飯をもらい受けて裏庭へ行き、他の雑色たちから少し離れた場所に座り込んで食べる。大根の葉の切れ端と芋の皮を煮たものを、味がしなくなるまで噛んでから飲み込んだ。そうでもしなければ腹は満ちない。
薄ぼんやりとしていた時子を、珍しく女中が呼びつけた。堆肥でも捨ててこいと言われるのだろうと思ったら、何故か表へ回るよう言いつけられた。人目につくところに現れるなと厳命されているのになんだろうと思ったが、どうでもよいことだと考えることを止め、指示された通りに表玄関へ行く。
そこには下男と見知らぬ男がいた。旅の者だろうか、顔は真っ黒に焼けていて、鋭い眼光は不吉なものを感じさせた。
「これか?」
「見てくれはあれだが洗えばいい」
「そうだな。若いだけで十分値はつく」
二人の間で小袋が受け渡される。じゃらりと音を聞いて、時子は愕然として下男を見た。下男は立ち尽くす時子ににやりと笑うと、中身を改めた小袋からいくらかの銭を取り出して懐に入れた。
「一度ならず二度までもご主人様の機嫌を損ねるなんて、まぬけなやつだ」
どうして、と細い悲鳴を上げた時子に与えられた答えが、それだった。
身売りされた。逃げ出すよりも早く人買いが時子の腕を掴んだ。足を踏ん張って抵抗し拒絶したが聞き入れられるわけがない。行き着く先がこれなのか。胸に浮かぶのは激しいまなこを持つかの人の姿。しかし呼ぶべき名を持たぬ時子はただ家畜のように引きずられていく。
その拍子に襟元から零れ落ちた、南天の小枝。
とっさに拾い上げようとするも、汚れた手は空を掻く。たった一つの飾りすら失われるのかと唇を噛み締め、しかし諦めきれず渾身の力で人買いを突き飛ばした。逃げられないことはわかっていた。それでも南天の枝だけは。あの鮮やかな赤い実を失うことは己の誇りを捨てることと同義だった。泥に塗れた枝を拾い、誰にも奪われまいと胸元に抱いて、そして。
気付けば時子の身体は宙にあった。呆然と見下ろしたところに、火花の瞳。
「時子。どこへ行く」
まなこの輝きに対して呼ばわる声は温かく、時子をしっかと抱き上げた腕は力強く優しい。あやすように揺さぶられながら時子が発したのは「どうして」という戸惑いだった。
「何故と尋ねたいのは俺の方だ。挨拶もなしにどこへ行く? それに俺を無視したろう」
「……名を……私を、覚えて……」
「ん? 当然、覚えていたぞ。美しゅうなったな、時子。しかし少々痩せすぎだ。これでは抱き心地が悪くてならん」
騒ぎに気付いた者たちが屋敷の内外から現れていたが、時子の目には映らぬも同然だった。みすぼらしい己を抱いて愉快そうに笑う人だけがすべてであった。ずっと見ていたいという願いは、溢れる涙に阻まれる。顔を覆って嗚咽を殺すのをなんと思ったのか、若君は「妬いたのか?」とばつが悪そうに言った。そして「あれは金子を引き出すための世辞だ。嘘も方便と言おう?」とこそりと耳打ちした。
「時子。迎えにきた」
そう、若君は朗々と告げた。
「俺と来い、時子。否やは言わせぬぞ。俺は、ずっと待っていたのだから」
時子は抱え上げられた腕の中で小さな身体を震わせながら、しっかり、幾度も、頷いた。
旧和六年。
その初めも、乱世である。
比良氏当主の伯父直孝を討った幻氏は戦という戦に大勝を重ね、ついに東を平定、中央に至り、朝廷にまで台頭していくことになる。幻氏頭領、影喜。その息子を影朝という。
影朝と歩み出す時子は十二歳、戦の気配は絶えずとも、新しい春の訪れを待つばかりであった。
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