旧和九年
旧和九年
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赤子の手のひらのような、紅葉。銀杏の黄金の扇。光を吸った茶色の桜葉がひらりひらりと舞い、遠くの山のいずこかで鹿が恋しげに鳴いていた。
城下の家々には朝餉の支度をする煙が立ち、井戸端では挨拶を交わす者たちの姿、大通りを馬で駆け抜けていく武者たちはさて如何な命令を受けたものか。
「ひいさま、姫。そのようにむくれなさいますな」
城下の庭の椿の茂み、うずくまるは蝶の打掛。膨らませた頬と唇はほのかに紅く、肌は宮中の姫に負けず劣らず白い。年頃の娘がこのように座り込んでふてくされていることは決して褒められたものではないが、それを許される風情が、つんと尖らせた口と黒々と輝く瞳にはあった。
老女も困ったように眉を下げて笑い、子どもにするように、姫と呼んだ時子の髪を撫で下ろした。
「おやまあ、可愛いお顔が台無し」
「だって、ばあや。影朝様は昨晩ようやっとお戻りになったと思ったら、今朝また行ってしまわれたのよ。ご挨拶をすることもお顔を拝見することも叶わなかった。時子のことなどきっとお忘れになったのだわ」
「まあまあ。季節ごとの新しい衣も、舶来の菓子も、庭の花木も、すべて若様が姫様のために用意したものですよ。それに若様はどこへ何をしに行っても必ず姫様に土産を持ち帰ってくださいましょう? お部屋を二つ物置にするくらいですのに、何を仰いますやら」
時子はしょんぼりと地面に目を落とした。冬越えの支度をする蟻がぞろぞろと列をなして行くそれは、時子の知らぬ行軍というものに似ているのだろうと思った。
旧和九年、秋。
幻氏、比良氏との戦に勝ち、東国を収める。これを憂慮した比良氏、朝廷を責付くも、巣を脅かされた蜂兵とはならず。これに先んじて幻氏頭領影喜はすめらみことに拝謁、忠誠を示し、中央を挟んで幻子比良氏の対立はますます激しくなる。しかしそれは朝廷に縁ある比良氏、朝敵幻氏成敗を掲げて東へと進軍。これに幻氏が対抗して開戦。未だ火花を散らし合い、あっという間に旧和九年であった。
影朝は幻氏の御曹司として自らも戦場へ向かい、数度の遠征と帰還を繰り返して、城主として東明城に長く腰を据えたことはなかった。
一方、時子は影朝によって城に連れられ、客人として遇されて、手習いと礼儀作法の毎日であった。しかしその立場は曖昧極まりなかった。辿れば幻氏の娘とはいえ、拾い物のように連れてこられ、守り役を付けられて過ごす日々。時子が何者か、影朝がはっきりと示すことがなければ終の終までただの食客でしかなくなってしまうのだから。
手習いをすれば「流麗な筆致。これぞもののふの奥方」と言われ。句を作れば「平易ですがよろしい。正室になるには教養は必須」と訳知り顔で頷かれ。茶を立てれば、結構な御点前で、と言った者が一言。
「いつ影朝様にお輿入れとなっても申し分ない」
影朝の思惑はともかく、東明の城の者たちにとって時子はそのような位置にいるのだった。
(影朝様はどのようにお考えなのだろう)
いつか贈られた櫛で髪を梳きながら、時子は考える。城に来てまもなく、時子のもとには影朝から下された懐かしいあの櫛や簪が顔を揃えていた。如何にしてあの叔父叔母や従姉から取り返したものか。しかしどうしたのかという問いに影朝は答えず、気に入らなんだら新しいものをやると言ったが、これがいい、これ以外は要らぬと、時子は手にしたそれらを渡すまいと必死に握りしめた。そんな時子の幼い仕草を影朝は笑い、後日、新しい櫛のみならず紅や衣を贈ってくれた。そうして今宵も時子が髪を梳るのは古くも愛おしい櫛である。
寝支度に灯りの始末にと動き回るばあやが忍び笑っている。顔を上げて眉をひそめると、老女は肩を竦めて白状した。
「城に参られたときはまあ土蜘蛛の子かと思いましたのに、ほんに姫は美しゅうなられました。それこそが恋情の証だというのに……ああ、ばあやは口が過ぎますね。そのように睨まれますな」
「いいえ。いいの、本当のことだもの」
櫛の傷をなぞって呟く。時子の手元から離れた間についていた、見知らぬ細かな傷。
「時子が男の子であったらよかった」
ばあやが大きくため息を吐いた。
「やれ、若様にも困ったこと。若さ故とはいえ、戦に狩りにと駆け回ってばかりで、まったく落ち着く様子がない。姫をご覧になれば、育った花の芳しさにお気付きでしょうに」
ほとんど独り言のようにぶつぶつと漏らして、ばあやは灯りを手に下がっていった。ばあやも頭が痛いのだろう。いずれ幻氏を背負って立つ身だというのに剣を振り回してばかりで、と口癖のように侍女たちに溢しているのだ。
もそもそと寝具に包まり、虫の交わす声を聴きながら思う。
(時子が男の子であったなら……)
太刀を佩き、鎧兜を身に付けて、馬を駆る。そうして敵を斬れば、側に置いてもらえるのかもしれない。西には怨敵比良氏が巣食い、性懲りもなく東国に攻め入らんとしている。そのために影朝が行くのであれば、時子もまたそれを追って駆けて行けばよい。ひとところに留まれぬというのならどこまでも行けばよい。影朝の側にいるためならば、時子はこの世の果てまで行けるだろう。
白雲のたなびくまほろば、花の咲く桃源郷、舞い散る花びらはいつか見た白雪の色。
夢現に見た景色は、雨戸の開ける音で消え去った。もぞりと身動ぐと、おやおやとばあやの笑う声。
「姫様が寝坊とは、良い夢でもご覧になりましたか」
以前の暮らしの習いで、時子はいまでも夜明け頃に起き出して、部屋を掃除し、日の出を迎えて明るくなると針仕事や経を書写する手習いをして、ばあやや侍女の訪いを待っている。だからこのように寝具の中でばあやを迎えるのは珍しい。若君のことを考えていたらよく眠れなかったせいだ。
「それでは、一度で目が覚める呪文を唱えて差し上げましょう。いますぐ身支度なさいませ。若様がお戻りですよ」
途端に眠気が吹き飛んだ。嵐の勢いで支度をし、飛ぶように駆けつけたが、時子を迎えたのは近習の「若殿様はお出掛けになりました」という申し訳なさそうな顔だった。すぐさま取って返すも、とうとう裾を絡げた姿を侍女たちに見つかって、時子の足取りは飛べない鳩の足捌き。じれったさに呼吸を乱しながらようやく至った表には城の若衆が集まっており、時子を知る者が挨拶の声をかけてきた。そのうちの一人を捕まえ、時子は息も絶え絶えに尋ねた。
「皆様、どこへおいでですか」
「明山に。若殿様の狩りにお供いたします」
「私も行きたい」
「姫は本当に若殿様がお好きでいらっしゃる」
くつくつと若衆らが忍び笑った。この者らには時子が童に見えているのだ。確かに彼らが持つ太刀も馬も、時子の手には余る。呼吸はままならず、望みを伝える声も幼い。しかし。なれども。握る拳の強さを、震えを、笑う若者たちは気付かない。困ったような微笑ましいような顔で主を呼ばわる。
「ああ時子」と呼ばれてきた若君のなんでもない顔が、たいそう憎らしい。
「時子も行きとうございます」
「馬に乗る」
「乗れずとも、お連れください」
軋む音のする胸を握りしめて時子は訴えた。
「それとも、男の子でなければいけませぬか。女の子では、影朝様のお側にはおれませぬか」
駄々を捏ねている、とわかっていた。幼いと笑われても仕方がない。可愛らしいものを前にしたような公達の中、唯一、影朝だけが表情を消して、瞳の白く鋭い光でもって時子を見ていた。
「わかった」
その顔で短く答え、周りの者に家人を呼ぶように言い、時子の支度をさせるように命じた。気迫めいた静かな態度に、ひととき、その場がしんとなる。
そうして見上げるばかりの時子の頭を大きな手で撫ぜて、影朝は少し笑っていた。温かみの滲む仕草に時子はつかの間惚け、そのようなことでは誤魔化されないと目を釣り上げた。途端に影朝の笑い声が弾けた。秋の朝にふさわしい軽やかな声だった。
影朝の狩りを、時子はその馬の背に揺られながら見た。狩りと称してはいたが、彼らは積極的に獲物を追うことはしなかった。これまで獣ではないものを追い立てていたからかもしれぬし、なおも血生臭いことをする気が起きなかったからかもしれない。誰も彼も穏やかな顔つきでのんびりと馬を歩かせていた。
木の葉が舞い、降り積もった枝葉を踏む音がする。遠からず冬が来るだろう。赤々とした紅葉も、輝く銀杏も、豊かな色の木の実も、そこに在ったことを消してしまうような冬だ。影朝の胸に背を預けていた時子はわけもわからず悲しくなってきた。どんなに美しい季節も必ず終わる。次に巡ったとして、それが同じものであるはずがない。この世に春の花が、夏の光、秋の実りと冬の白が必ず来たることを誰が断言できようか。
「時子」
息を飲んだ拍子に落ちた涙を拭って、時子は振り返った。
ひらりひらりと木の葉が舞っていた。梢の向こうには秋空があり、きらりきらきらと日が射していた。供をしていた若衆は姿を消し、移ろいゆく秋の中に時子と影朝は二人きりだった。
「何を泣く。誰ぞにいじめられたか」
首を振る。影朝の威光に守られた暮らしになんの不満があろうか。取るに足りない噂話も値踏みする目も、人買いに売られてもうどこにも行けぬと思ったあのときに比べれば笑ってしまうほど平穏だ。
「時子は幸せです。でも、このままでいるのは、辛い」
どこからともなく鹿の鳴く声がした。
じっと影朝は耳を澄ませている。時子は考え、考え、ようやっと言葉を紡ぐ。
「時子は、影朝様のお側にいたい。でもこのままでは城を追い出されてしまう」
「誰がそんなことを」
「誰も。けれどもわかります。時子は、影朝様の御嫁にならねば。それができなければ城に置く意味がない。放逐されても仕方がない。しかし追い出されてはもうどこにも行けぬ。時子は、影朝様がなくては、生きてはいけぬ。でも、でも、影朝様は、時子を」
取り留めのない言葉と流れ落ちる涙は美しさの欠片もない。菓子が欲しいと泣く子のようで、まとわりついては鬱陶しがられる類のものだ。それとわかる分別がつく歳だった。
みっともない涙を拭い、申し訳ござりませぬ、帰りましょうと顔を上げた、そのときだった。
唇が触れ合った。
我が身の起こった出来事に理解が及ばず、呆然と瞬きを繰り返す時子のまなじりで涙の粒が光る。顔を離した影朝のまなこの火花がすぐそこにあった。いまなら触れられるかもしれぬと伸ばした手を握り、「あいわかった」と影朝は言った。
「では祝言を挙げよう」
今度こそ言葉を失った時子を、影朝は笑う。
「俺は最初からそのつもりだったが、お前は幼かったし、他に好いた男ができるやもしれぬからと、胸の内が決まるのを待っていたのだ。待つだけというのは性に合わんゆえだいぶ苦しかったがな」
その気になったようで何より、と影朝はどこまでも晴々としていた。
「だが待った甲斐があった。俺がなくては生きていけぬというのは、俺が至上ということだろう?」
かくして、時子は影朝と祝言を挙げた。城に連れ来られてからのすべてが影朝の妻となるためのものであったことを時子は実感した。それ以外に道はないことは時子にとって幸いであった。
祝言の日は幻氏頭領である影喜への目通りともなった。亡き父母のことを影喜は覚えており、不在の二人の分まで婚姻を寿ぐと、すぐに西へと発っていった。
家臣たちに見守られながら、時子と影朝は盃を交わした。
誇りを、と影朝は言った。
「時子、誇りを持て。この影朝の妻として誇りを持ち、誇り高い子を産み、育てよ。誇りを持つことこそ生きることと心得よ」
婚礼の床で時子は頷いた。これが唯一無二の喜びになることを十五の時子は強く確信していた。武士の妻として。幻氏の女として。そして何より、影朝の正室として。影朝に選ばれ、己もまた影朝を選んだこと。それが時子の誇りであった。男の子のように太刀を持たぬなら、せめて気高き志を抱いて影朝と在れる刃になろう。唇を吸われながら潜り込むのは、愛した男の胸の中。
「影朝様の妻は時子にございます。ただ一人、時子にございます。それをどうか誇ってくださいませ」
影朝は顔を綻ばせ、それでこそ我が妻よと囁いた。
紅もみじに黄金銀杏、鮮やかに輝く秋に、時子はのちの幻氏頭領となる影朝の妻となった。旧和九年。嵐と無風が交互に来るこのときも、乱世であった。
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