第一章 結婚なんてしません

「結婚してもらいます」
 というのが、第一声だった。
 とある市街のホテル。地元民に愛される老舗ホテルの、待機に使われる部屋の派手すぎるくらい明るい照明は、佑子の肌の荒れを明らかにするものでしかなかった。二十五歳。毎日終電ぎりぎりに帰宅、化粧も落とせずに眠りに落ちていたら、あっという間に肌はぼろぼろになった。高校生の従妹が羨ましい。頬も足も健康的ではりがあって眩しいのだ。
 じーわじーわと、迫り来るように蝉が鳴いている。
「………………もう一度お願いします」
「結婚してもらうよ。羽宮さんと」
 誰だ。
 というか、どういうことだ。
 祖母を見ていると、天然の岩を思い出す。山奥の岩壁そのものだ。毎日、どんな暑い日もどんな寒い日も和服で過ごし、婿養子の夫を仕事に出しながら、自ら家を回していた女傑は、佑子にとって挑んでも挑んでも決してほころんだりしない鉄壁だった。
「……あのー、ばあさま?」
「仕事、なくなったんだろう?」
 容赦なく突いてくるところはスズメバチもかくや。女傑の振るう言葉の薙刀は、相当に痛い。寒いくらいに空調が利いている中、ブラウスの下でじわりと汗を掻く。
 あの時はいやな予感がしていたのだ、と佑子はつい三日前を思い出す。

 部屋干ししていた洗濯物が圧迫する中で起床したら、時計は出勤時間をもう一時間も過ぎていた。当然、遅刻である。
 大急ぎで着替えたらシャツに牛乳を零した。折しも洗濯物が溜まっている時期。しっとり湿ってにおうシャツを泣く泣く着る。
 走って出たら傘を忘れた。降られた。薄曇りがどしゃ降りになった。急いだら、側溝のふたに踵を取られてヒールが外れた。
 げっそりと電車に乗ったら学生が痴漢に遭っている。思わず痴漢の手首を捻り上げて駅員に突き出したのだが、更に遅れることになってしまい、出勤したら理由も聞いてくれなかった上司にこれでもかと怒られた。
 ぼろぼろの服装を一瞥したお局に嫌味を言われたのはまだよしとしよう。理不尽な思いを噛み締めながら仕事をしていたら、後輩のミスを見つけて青ざめた。二人で上司に報告し謝罪に行けば、うんざりした顔でまた怒られた。悔し涙をトイレで拭い、残業でカバーして、零時を回る頃、帰宅した。
 帰宅した部屋が、空き巣に遭っていた。
 玄関の明かりのスイッチを押した途端、部屋を逆さまに振ったのかという状態が照らし出されたものだから、一瞬理解が追い付かなかった。しかし箪笥の肥やしになっていた若気の至りで買った洋服まで放り出されていたら異常事態だろう。
 佑子の最初の行動は。
「わははははははははははは!!」
 時間をはばからない大爆笑だった。
 お腹を抱え、または背中を反らし、喉が痛くなり表情筋が引き攣って涙が出るくらい笑った。午前零時。犬が遠吠えをした。
 そして、がっくりと地面に崩れ落ちた。
「…………まじか……」
 警察に電話したり大家に連絡を取ったりといった処置を終え、満身創痍の身体を休めたと思ったら、次の日、佑子は朝からけたたましく鳴り響く運命の電話を取った。
『大変、内藤!』
「なに。どうした京野、何かトラブル?」
『トラブルもトラブルよ! もうパニクっててわけわかんないわ!』
 後ろで怒号が飛び交っている。異常事態を察知して佑子は眠気を吹き飛ばし、電話の後ろで怒鳴り返す同僚に、だからどうしたと尋ねると、大きく息を吸い込む気配があって。
『会社、潰れちゃった!』
 そんなあっさりとした言葉で、佑子は職を失った。小さな、でも就職できたらバンザイできる、きちんとした文具メーカーだった。
 社長が逃げなければ、の話だが。
 内藤家、女当主の長女の娘で、何故か家を継ぐことが当然と思われていた佑子の小さな自由が、そこで失われたのだった。

 内藤家は明治時代、佑子の曾祖父である内藤竜之介が貿易商として財を成したことから一気に裕福になった家だ。現在はただ土地を守っているだけの家だが、それでも親戚は多く、有力者の知り合いも多い。しかし何故か女系の血筋で、これは曾祖母の美弥子の血のせいもあると言われていた。先祖の名前が言えるのは幼い頃からの祖母たちの教育の賜物である。まだかくしゃくとしている祖母は、そこから更にさかのぼれるはずだ。
 母の弟が長男であるはずだが、祖母は昔から、何故か佑子を後継者に選んでいた。平凡で、本が好きだからという甘い理由で文学部に進み、大学で得たものといえば司書の資格を取ったことだけの、ごくごくありふれた孫にだ。
 ついにボケたか……と祖母の様子を見守っていると。
「誰がボケたって? 失礼な子だね」
 心を読まれてしまい反射的に背筋を伸ばした。が、へらっと笑ってみせる。
「ばあさま、冗談よしてよ。相手には不自由してません」
「そっちこそ嘘は止めるんだね。お前に何年も恋人がいないことくらいお見通しだよ」
(くっ、口の減らないばあさんめ……!)
 再び振るわれた薙刀が枯れた部分を滅多刺しにしていった。確かに、この数年彼氏と呼べる相手はいない。いなくて悪いか、という気分だ。いないだけで負け組認定してくる世間一般は間違っている。
「それでも、私は結婚なんてしません」
「ごちゃごちゃとうるさいね。もう決まったんだよ。由美、治子」
 長男と次男の妻たちはすぐに来た。
「佑子を見張っておくこと。逃がすんじゃないよ」
 義理の叔母たちは「はい」と従順に頷いて、藤色の着物の裾を乱すことなく歩いていく祖母を見送っていった。
 祖母が去ると、空気が和らいだ。ほっと息をつき、小学生のいとこたちは大きな声で話しかけてきて、叔母たちがそれをいなしながら猫なで声で次々に言葉をかけてきた。
「ねーゲームしよー」
「こんやくってなに、おしえてえ」
「はいはい。後でね。おばあさま、ずっと心配されていたものね」
「ええ。本当にもったいないお話よお。こんな高級ホテルで顔合わせなんてできる方だもの」
「叔母さま方、本当に、そう思ってます?」
 じろっと睨みつけると、彼女たちは愛想笑いをしつつ視線をそらした。
 食事に行く、と佑子は母に言われたのだ。ホテルで食事をするから、正装していらっしゃいね、と。そうして自宅から直接ホテルに赴いたところ、こうして祖母の手先となった内藤家の嫁たちに拉致されてしまったのだ。実行犯は祖母だが、親戚一同が計画に乗ったのは、服装を見れば分かった。カジュアルだがちゃんとしたレディーススーツに身を包み、年下のいとこたちもお出掛け着と言われるような服を着ている。
「佑子ちゃん、元はいいのにねえ」
「なんていうか、地味な子よね」
 その部分は甘んじて受け入れるしかなかった。佑子は、これも正装だろう、と堂々と会食にリクルートスーツを着る女なのである。叔母たちの首に下がった、ちらちら光って感に触るパールやダイヤモンドを見て顔が引きつった。不動産業を営む長男叔父や、小さな会社を持っている次男叔父の妻たちには、佑子は宝石もろくに持たない地味好みのぱっとしない姪で、二十五にもなって浮いた話のない嫁き遅れ予備軍なのだ。
(ちくしょー)と歯を噛む。こんなことをしている時間があるなら、早く職安に行きたい。
 そんな佑子の様子を見ていた由美叔母が諭すように言った。
「佑子ちゃんは内藤家の、道子さんのひとり娘なんだから、ちゃんとしたお相手を選ばないと。内藤家は女系一族なのよ。おばあさまだって、佑子ちゃんに跡を継いでもらおうと考えていらっしゃるんだから」
 知るか余計タチ悪いわ! と叫びたかったが、さすがに年長者相手にその言葉ははばかられた。常識のある自分が悲しい。だからといって、言いなりになるわけにはいかない。
「佑子ちゃん、どこへ行くの?」
「お手洗いに行ってきます」

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