顔を見合わせる叔母たちを振り切る勢いで、佑子は女子トイレに駆け込んだ。水汚れもない乳白色の大理石の洗面台に手をついた、青ざめた女が鏡に映る。この数週間に五キロほど体重が落ちたから、頬がげっそり削げていた。標準体重より軽くて嬉しい、などと言っている場合ではない。体重の減りは、体力の減退だ。そういう歳なのだった。
 こんな女でも嫁に迎えようという男がいるのだろうか。
「こっちから願い下げだもんね」
 べ、と舌を出して呟くと、佑子はトイレの入り口をそっと窺った。治子が入り口側の壁際で、佑子が出てくるのを待っている。
 一度中に戻ると、佑子は一番奥の個室に入り、鍵をかけてから壁を越えて隣の個室に入った。もうなりふり構っていられないのだ。天然石のストラップを引き出してポケットから取り出したるは携帯電話。治子の電話番号を呼び出してコールする。古い携帯電話そのままの着信音がぴこぴこと鳴り響き、治子が「佑子ちゃん?」と呼ぶ声が、リアルと受話器から同時に聞こえる。
 佑子は、敢えて黙った。「佑子ちゃん? どうしたの?」と不安そうな呼びかけをして、治子はトイレにやってきた。鍵のかかった個室に向かう治子の足が見えた瞬間、佑子は扉を勢いよく開けて飛び出した。
「佑子ちゃん!?」
「私、結婚する気ないですから!」
 ひときわ高く叫ぶと、一気に走り出す。就職活動用のパンプスのヒールが柔らかく感じられる勢いで非常階段を駆け下り、ホテルの側面に出た。むわりと夏のいきれが息苦しいくらいに顔に吹き付けるも、怯むことなく速度を上げる。
 駐車場方向へ向かうと、竹を組み合わせた壁が見えた。佑子は地図を頭に描き、ここを斜めに突っ切れば駐車場に一直線できると判断し、その意外にも頑丈な壁に挑む。
 ジャンプして一番上に飛びつくと、熱された金属部分が手のひらを焼くようだった。それを思いっきり握りしめると、腕と足の力でもって這い上がる。片足をあげ、後は身体を乗り越えさせるだけというとき。
「――!!」
 こちらをぽかんと見ている、少年の姿。
「……う、うわああああ!?」
 驚いた拍子に重たいお尻がずり落ちる。
 どすん! と衝撃があった。
「…………?」
 思った痛みはなかった。衝撃で詰まった息を吐き、恐る恐る状況を確認する。自分の右手がまたいでいるのは人間の足、膝だ。横へ転んだ佑子を身体の前、上に載せる形で誰かが座り込んでいるのだ。
「大丈夫!?」
 綺麗な男の子は、佑子の下敷きになって目をしばたたかせていた。
「ごめんね、不注意で! 大丈夫、どこか打ってない? うわ、ごめん、本当にごめんなさい!」
 見ず知らずの少年を巻き込んでしまったことに青ざめてまくしたてる。彼は静かに答えた。
「いいえ」
 佑子が差し出した手に掴まって立ち上がった彼はすらりとして、頭一つ分は背が高い。冷静に上等なスーツの埃を払い、襟を正している。
「ごめんなさい!」
「もう結構です」と冷たく大人のような声で彼は言った。さざなみのような苛立ちが感じられ、その温度に、叱られたように肩を小さくする。年下の男の子にこういう風に言われるのは初めてだったが、佑子が悪い。
 しかし、とても綺麗な男の子だった。汗を掻くような大気の中、清水のような澄んだ気配を感じる。高校生だろうか。指が骨張って長いので大人っぽく見えるのかもしれないが、顔の作りは線が細くてまだ幼い。髪の毛が細いのかきらきらしている。モデルやアイドルのように世間に見られることを目的としない、自然と好ましく思えるような容姿だった。
「何ですか?」
 じっと見ていることに気分を害したように、彼は目を細めた。
 きゅーん。胸が締め付けられた。態度の冷たさが、容姿に反してアンバランスでやけにかっこよかったからだ。けれど不快にさせてしまったことを知り慌てて手をふる。
「あ、ごめんなさい! えっと、あの……受け止めてくれてありがとう。それじゃ!」
 その場を後にするべく、別方向の壁に挑む。ぶらさがった佑子の背後で少年がぎょっとした声を出した。
「それじゃ、って……どこへ……!?」
 その時、声が響いた。
「常磐! そんなところにおったのか……ってなんだ!?」
 さすがに佑子も振り向いた。
「あ……あの、その」
 壁に飛びついてぶら下がったままの不審者そのものの状態で、佑子は仕方なく笑った。現れた白髪頭の男性は目を瞬かせ、次に仏頂面で「降りなさい」と言った。
 佑子は従った。肩を落とし、うなだれる。
「常磐。この人は」
「知らない方です。さきほど初めてお会いしました」
「……本当か?」
 見つめられ、佑子は首を縦に振った。それでもしつこく睨みつけるように見てくるその人に、真っすぐな視線で対するが、内心は少し怯んでもいた。
 少年の知り合いらしき男は、白髪をサイドに残して禿げた、丸鼻で少し頬がふっくらしたお年寄りだ。一目見て分かるのは、ネクタイに輝くタイピンで、ここでもきらきらっと、しかし叔母とは比べ物にもならない大粒の宝石が輝いている。いかにも、ワンマンっぽい。あんまり相手にはしたくないタイプだ。
 こういう人物には何も言わないか、適当に受け流すのがよい。ただ胸を張って、表情を浮かべずに相手を見ていると、納得したような、しないような曖昧な声を出して、彼は「まあいい」と言った。
「常磐、来い。当主殿直々にご挨拶を下さるそうだ。孫殿も連れてきているということだから、顔を合わせて気に入られてこい」
 横柄な言い方は、勤めていた会社でも何度も耳にしたものだった。だからいつものように佑子がちょっとの反発と、心配を覚えて少年を見る。しかし、常磐と呼ばれた彼は自然に「はい」と答えて、何も感じていない風だった。二人はそのまま佑子など見向きもせずに去っていき、なんだか複雑になりながらも佑子はもう一度壁に挑んで、やっぱり気になって振り返ってみた。
 ホテルに併設されている、料亭の庭だ。少年と男性が平屋の建物に向かって歩いていく。
 あの子、なんだかロボットみたい。少し俯きがちに、下の方に目を向けているらしいのが見える。顔も動きも綺麗だから余計だ。可哀想に、と見当はずれだろう同情をして、壁に足をかけて。
「佑子!」
 声が上がり、少年と男性がすごい勢いで振り返った。佑子もよじ上ろうとした壁に張り付きながら飛び上がった。
 いるはずのない祖母がいた。
 あの岩壁を、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。
 常ならば今にも怒鳴りつけるべきだろうが祖母は意に介さず、まずそこですべきことをした。にこやかに、舞うような優雅な手つきで、スカートを履いているにもかかわらず壁の上に片膝を載せている佑子を示したのだ。
「あれが孫の佑子です。佑子、こちらは羽宮さん」
 佑子がこわごわ見つめた先で、少年と男性は、驚きで目を見張っている。しかし、少年は、すぐに冷静な表情を取り戻し、ゆっくりと頭を下げた。
 佑子も、足を下ろした。それ以外に何が出来ただろうか。
 つまり、彼こそ佑子の婚約相手なのだった。
「……こっ」
 高校生じゃないかー! という叫びは、常識と理性に阻まれてしまった。

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