「しっかし、本当にレトロ。静かだなあ……」
図書館は中央棟の一、二階部分にあった。一階の半円部分と、吹き抜けにした二階が館内だ。見えない半円部分は書庫。蔵書は文学と英語に特に力を入れているらしい。また、コンピューターやバーコードによる貸出は行われておらず、カード方式を採用していた。
書棚は時間を感じさせる深い色をして、有名作品もあれば、新しい本もあった。あまり触られていない本もあるようだが、佑子が掃除するまで間があったろうにさほど埃っぽくなっておらず、前任者は丁寧に仕事をしていたようだ。
学校司書については改めて勉強せねばならないところはあったが、これから学んでいくことを決める。カウンターにある日付スタンプのサビが愛おしく、いい仕事ができそうな気がした。
仕事は最後までやる。きちんとやる。失敗しても、きちんと謝り、同じ失敗は二度としない。それが会社勤めの三年間で覚えたことだ。例えコネで得た職でも、蔑ろにするつもりは毛頭ない。
時間が止まっているような、と表したいが、本の管理をするために冷房が動いており、蛍光灯が灯っているので、実に文明の恩恵を受けていると言える図書館はあまりにも快適なので、この調子だと、午後から眠くなってしまいそうだ。
「…………」
いけないと思ったけど、思ってしまった。――歌ったら、いい感じに響くだろう。
「……あー、あー」
こほんと一つ、咳払い。
息を吸い込んだ。
しかし物音がしたために勢いをそがれた。入り口に向かって設けられたカウンターからは、足下だけを壁で覆ったガラス張りになっている廊下を見ることができる。そこを誰かが通れば気付くはずだが、いつの間にか扉が開いており、どこから入ってきたのか蝶々が舞っていた。
(誰か入ってきたのかな)
歌わなくてよかった……と胸を撫で下ろしつつ、奥を覗く。しかし人の姿はないようだ。二階に上がったなら見えるはずだが、気のせいかなと傾げた首に、ふうっ、と冷たいものが触れた。
首を押さえ、背中に本棚を貼付けるようにして振り返ると、少年が一人、立っていた。
黒髪は肩に届くほど。黒々とした目は大きい。シャツは開襟で、黒のズボンの足が長い。生徒のはずだが、もっと老成した雰囲気があった。イメージが、夏場の書生なのだ。
「驚かせたね、すまない」
楽しげに少年は笑い、佑子は飛び跳ねた心臓を落ち着かせる。
「本当にびっくりした……。君は、森君?」
聞いていた生徒の名前を呼ぶと、彼はにこりとした。いいな、と思える人なつこく親しみを覚える顔だ。
生徒が一人、保健室登校ならぬ図書館登校をしているから気をつけてほしいと言われていた。新任が来ると伝えてくれたらしいが、うまくやれるだろうか。(自分がちょろくない高校生だったからなあ……)と鬱屈していた自分を思い出しながら。
「内藤佑子です。今日からここで司書をやるの。よろしくね」
「よろしく。黎明学院にようこそ。やっと来たんだね。待ちくたびれたよ」
(なんだか妙な口を利く子だなあ……?)
思っても口には出さない。仕事は何事も笑顔が基本だ。笑顔で頷いた。
「仕事は八月終わりから始めてるんだよ。でも君に会うのは初めてだね。まあ、好きにしてて。私、仕事してるから」
「学院の秘密を知っているかい?」
テンポがいまいち噛み合わない。戸惑って彼の顔を見た。にこにこと、本当に楽しそうに笑っている。からかっているのだろうかと顔をしかめそうだったが、でも仲良くしたいので、乗ってみようと首を振る。
「この学院は伝説があることで有名なんだ」
「伝説?」
「なかなかロマンがあるだろう?」
悪戯っぽく笑うので、冗談か、と佑子は力を抜いたが、彼にはお気に召さなかったようだ。首を振られた。
「確かな『伝説』だよ。伝統的な学院にはあるべきものだね」
「たとえば?」
「学院には幻の書があるんだ」
秘密めかしたささやき声。
「血を滴らせたような色の本だよ。その本を手にしたとき、封印された力が解放されるという……その本の名は……」
期待させるなあと思いながら身を乗り出した、そのとき、何か胸の底にあった記憶が、ちらっと輝いて何かを主張した。
『楊貴妃の腕輪というのはね……』
ばたん! とドアが開けられる音がして、気がつくと、生徒が二人入ってきていた。
慌てて「おはよう!」と声をかける。だが、雰囲気が妙だった。彼らは佑子を気にもとめず、もっと言えば暴力的なぎらつき方をして目で図書館を見回し、掃除したばかりの本棚から本を引き出し始めたのだ。
どごん、どだん、と重い本が床や棚にぶつかる音が響く。本は角からぶつかり、投げられた拍子にページがしなり、折れ、あるいは伏せた状態になっているものもある。
「あったか?」
「普通の百科事典ばかりだ」
「こっちも、新しい本があるようにはみえない」
そう言うと、こちらに向かってくる。佑子ははっとして、慌てて司書室の扉を身体で塞いだ。ドアに背を打ちながらも、背の高い二人を睨みつける。一人は厳つい体育会系の少年で、もう一人は髪を結わえている少年だ。髪の長い少年の方は興奮のためか頬が上気していて、子どもっぽくも見目麗しい顔立ちをしていたが、今の佑子には彼に『わがまま王子』のレッテルを貼る準備があった。
「お前が、内藤佑子か?」
「そう。新しい司書だよ。君たちは?」
嫌味な笑い方をしたのは長髪の方だった。
「内藤だったら調べはついてるんだろう?」
(『内藤だったら』?)
乱暴に手首を掴まれる。
「お前が持っている本はどこだ?」
「本? 私物なんて持ち込んでないけど」
「しらばっくれるな! 持ってるんだろう、『暁の書』だ!」
「『あかつきのしょ』?」
少年の白い整った顔に青筋が浮かんだ。異様な雰囲気に、佑子はぐっと構える。
彼は手を離し、命じた。
「尾野辺、やれ」
もう一人が手を伸ばしてくる。それを押しのけようとし、空いた手を振り上げようとしたが、止めた。いけない、彼らは生徒だ。問題を起こして仕事をなくしたくない。
「ちょっと……止めなさい……!」
声は震えてしまった。怯えていると思ったのだろうか、一転して猫なで声で言う。
「大人しく出せばこんなことされずに済むんだぞ?」
「だからっ、なんのことか分かんないって……!」
両腕を押さえつけられた。痛みをこらえ、足を踏ん張る。
(痛い! こいつら、手加減も知らないの!?)
小学生でも知ってるぞ! 親戚のちびたちを思うことで気を紛らわそうとしたが無駄だった。痛い、と言っては負ける。これがセクハラ親父なら、思う存分蹴飛ばすことができるのに。
「言うことを聞かないと、痛い目を見るぞ」
どうする、と腕を組んで悠々とした優しい声が言う。佑子は図書館の惨状を見た。
噛み締めていた唇を開き、言った。
「司書室は、関係者以外、立ち入り禁止!」
少年の顔が能面のようになった。カウンターのペン立てからさっとはさみを取ると、しゃきん、と鳴らす。
(げえっ!?)
しかし腕が自由にならず、髪にはさみが当てられ。
そのとき走った閃光で、動きを止めることになった。
カウンターの上に、カメラを構えた小柄な生徒が一人。
「スクープ! 『新任司書を襲う風紀副委員長・香芝、真昼の男子生徒の欲望』、ってね!」
「槙野!」
「嵯峨会長が喜ぶねえ。今の時期、君が騒ぎを起こしたら」
香芝と呼ばれた長髪少年は青ざめ、髪とブラウスを乱した佑子を見下ろし、慌てて飛び離れた。
「槙野、お前、写真をばらまいたらどうなるか分かってるんだろうな!」
「香芝こそ分かってるよね?」
香芝は顔を真っ赤にして震え出した。
「この前、君に没収された携帯ゲーム機、あれないと退屈でさあ」
これ見よがしにわざとらしい言い方をする槙野を押しのけ、香芝は出て行く。尾野辺もあとを追っていき、その背中に槙野は「よろしくね!」と追い討ちをかけた。
そしてようやく図書館には静寂が戻る。はあ……と深くため息をついた佑子に、またカメラのフラッシュが光った。
「君!」
「セクシーでいいねえ。新聞部発行の来年の女子カレンダーのモデルにならない? 内藤佑子さん」
「ならない。君は、槙野君? 助けてくれてありがとう。一体何がなんだか……。君はあの子たちがどういう用事だったか分かる?」
「『暁の書』に関してでしょ、『内藤』さん」
何の話だと槙野を見たら、彼は当てが外れたような顔になった。ふうんと興味が半分失われた声を漏らすと、踵を返そうとする。
「なぁんだ、『内藤』ってあの内藤じゃないんだ。分かんないなら無関心を決め込んだ方がいいよ。その名前だけでややこしいことに巻き込まれると思うから!」
「ちょっと!」
チャイムが鳴る。嵐のように最初の利用者たちは去って行き、いつの間にか森の姿もない。図書館の現状に、佑子は地団駄を踏んだ。
「本をっ、片付けていけー!」
叫び声は、むなしい。
やがて生徒たちがやってきた。図書委員も現れ、生徒たちが訪れるようになったなら、いつまでも苛立っているわけにはいかない。挨拶をして、小声でちょっと話をして笑わせてもらうと、少しずつ怒りは解けていく。
(だからってあの子たちを許すわけじゃないけど!)
「内藤さんっていくつなんですか?」
「彼氏いるんすかぁ」
「高校生どう? 年下オッケー?」
(ああ、もてはやしてくれてありがとうよ……涙が出るわ……)
短く儚いモテ期に心密かに感動しつつ交流を深める。
「他校の女子とかと交流ないの?」
「ないですよぉ。この近所だと愛芯学園って女子校くらいで、でもあそこの女子まじこえーの」
「男同士で喋ってるとすげーじろじろ見てひそひそされるんですよ。かと思ってこっちが見るときゃーって散ってくの。なにあの生き物」
「でも学校が近いから文化祭とかでお互いが手伝いするんす。でも今年もいつも通りかなあ。毎年無難なんすよねえ。理事たちがすげー厳しくて。後夜祭と王子役くらいかなあ、ちょっと面白い演し物って。あーあ、たまには変わったことしてーなー」
生徒たちは揃ってつまらなさそうにため息をついた。彼らの語るものは、それはそれで大人になったときに思い出の一つになるのだと思うのだが、やはり、何か事件が欲しいと思ってしまうらしい。
「つっまんねーよな、いつも同じって」
すぐ側のカウンターが忙しくなってきた。佑子は中座を告げて、仕事に慣れている図書委員より遅いペースで手伝い始めた。やがて繊細なアクセサリーをデザインしたような瀟洒な扉が開き。
現れた生徒に、佑子はにやっとした。
(来たね)
不機嫌な表情でこちらを見据える羽宮常磐に、佑子は挑戦的に笑ってみせた。
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