第三章 どうか嘘だと言って
「それで」
傍ら、上の方から聞こえてくるのは、不愉快極まりないという声だった。
「あなたが無理矢理押し付けてきたメールアドレスから送られてきたメールに指示があったから、仕方なく図書館に行きましたけど、こんなに待たせるなんてどういうことですか」
顔合わせの日に携帯電話を奪い取り、赤外線通信してアドレスは交換済みだ。佑子はにやにやする。
「でもアドレス消さなかったんだから、真面目だよねえ」
「それはっ……忘れてただけです!」
そういうことにしてあげよう。にっこり笑っただけの顔から、常磐は正確に読み取って、むっとした顔を逸らした。
始業式のこの日は閉館時間が早く、細々とした仕事を終えてから学校を出ても、九月の初めということもあって、空はまだ明るい。やってくる夜を告げるようにどこかでジーと鳴き出した虫が、どんどんと声を重ねていく。こんな時間に家に帰ることができるのはいつぶりだろう。開いている店が飲み屋とコンビニ以外にもあることが嬉しい。
「でも本当に待たせてごめんね。これからどうしようかって相談しようと思ったら、仕事が終わるまで待つしかなくて」
「校内で親しげに話しかけられるのは困ります。今婚約が宙に浮いていても、職員と生徒ですよ? 大問題だ」
常磐はきっぱり言い放ち、それは当然と佑子は受け止める。
「そうだよね。常磐君が好きになる子に勘違いされたら困るもんね」
常磐は眉をひそめた。
「そういう意味だったんですか、あれ」
「ん?」
「僕はてっきり……」と常磐は足を止め、素っ気ない呆れた表情で佑子を見下ろした。
「『私に恋をしろ』と。そういう意味だと思ってました」
何を言っているのか分からなかった。
次の瞬間、首から熱が押し寄せて、どっと汗が噴き出した。
「なっ……何言ってるの!?」
「相当自信があるようだったからどんなものかと思ってたんですが。僕と誰かをくっつけるっていうことだったんですね」
「当たり前でしょ!? 私の歳だったら犯罪じゃない!」
佑子は二十五。常磐は十七。
……どう考えても無理がある。
「ぜったい、絶対ない!」
言い切ると、常磐は目をすがめ、わずかに目をそらしてすごくつまらなさそうな顔をした。
妙に子どもっぽい表情で、それはすごく。
「……ふうん、……そう、ですか」
どきゅん!
頭の中で撃ち鳴らされたピストルの勢いで、佑子は急いで常磐の顔を両手で挟み込む。
「常磐君!」
「っ!?」
「その表情、すごくいい!」
うっと呻いて目を白黒させる少年に、輝かんばかりの嬉しさで、言った。
常磐はじっくり佑子の顔を見て「……はあ?」と顔をしかめた。
「それじゃない! さっきの! もう一回!」
眉を上げて歪めた表情が、今度は困惑そのものになる。自分の表情に気付いていなかったということだろう。
「うーん、無理か……」
「一体なんなんです! 近付かないでください!」
気付けば身体がすごく近い。常磐が後ろに退かなかったわけではなく、佑子がそれでもなお迫ったせいで近くなっているのだ。顔を覗き込むようにしてぺたぺたと遠慮なく触っていた佑子の手を、常磐は思いっきり振り払う。
「常磐君、もうちょっと子どもっぽい顔の方がいいよ。もうちょっとオーラ弱めるとか、できない?」
「オーラなんて操ったことありません」
むすっとして答えた常磐は触られた頬をごしごしとこすった。幼児みたいな手つきだ。そういうのがいいと思う佑子だが、言えば更に機嫌を悪くしそうだったのでセーブする。代わりにわくわくした顔でひとつ頷いた。
「笑うと、すごくいいと思うんだよね」
「あなたに対して笑った覚えはないですけど。誰かに好かれようとして笑うなんて、馬鹿げてる。表情はそういうものじゃないでしょう」
「確かに、表情っていうのは自分のものだけど。でも、顔を見て嬉しいとか悲しいとか思うのは、その人のことを好きだからでしょう。怒っていたり悲しんでいると辛いし、笑ってくれると安心するし嬉しい……そんなことない?」
常磐は少し黙り、言った。
「誰かを好きになったことなんてない」
子どもが意地を張る姿に似ている、と思った。
きっと彼の中では、好意は当然で、重荷だったのだろう。彼の、祖父に対する従順な声を思い出すと、家の名前の存在はあまり嬉しいものではないように、佑子は思う。だからこの声はとても彼の本音を表していて、それだけでなんだか安心した。
この子の心は、まだちゃんといきてる。
「でも君を好きな人は絶対にいるよ」
「僕を? 冗談じゃない。羽宮家が好きな人はいるでしょうけれど。僕個人は好かれるようなことをした覚えはない」
「でも、人生は長いんだよ」
顔を背けていた常磐が、こちらを見る。
「世界は広くて、人って意外なことで繋がっていく。君の人生も例外じゃなくて、たくさんの人とすれ違ったり、出会ったりしてるんだよ。君が気付かないだけ。私とだって縁が出来たじゃない」
それまで佑子を苛立ちや嫌悪を込めて見ていた目が、何とも言えない感情を浮かべては消し、消しては浮かべる。真実と嘘を見極めようとし、目の前のそれが何なのか分からずに混乱しているのだ。
何かを言わなければならないと、彼は口をわずかに開き。
「じゃああなたは」
空は青紫色に移り変わっている。太陽の代わりに、ぱっと、角の電信柱の明かりが灯った。淡かった影は、濃く、長く、アスファルトに映し出された。常磐の頭上で、明かりを灯すように、一番、二番と星が光り始めて。
「僕が笑うと嬉しいですか」
それは彼が沈めてきた、心からの問いかけだったろう。
佑子は答えた。
「うん。せっかく会えたんだし。君に、楽しい日々を送ってほしいって願ってる」
言葉の重みで真摯な気持ちだっただけに、晴れやかに笑うことはできず、微笑むしかできなかった。
常磐は胸を詰まらせたように膨らませ、やがてゆっくりと息を吐き出していった。
「……初めて、そんなこと、言われました」
「そうなの? それじゃあ」
今度は優しく、肩を引き寄せる。
頬に口づけるくらいの距離で、悪い顔をして囁いた。
「――私に、恋してみる?」
一瞬黙り込んだ秋の虫たちは、これからやってくる季節に歓声を上げるような騒がしさで、声を揃えたようにして一斉に歌い始めた。
目が眩んだように、常磐は二度、瞬きをした。息をすることを忘れたように佑子を瞳に映し、一度も、目を逸らさない。
その目を猫みたいに見つめた佑子はふっと息を吐き。
「――なーんちゃって! なーんちゃって!」
我ながら馬鹿みたいだと甲高く笑い、歯を見せて言った。
「私以外に君のことを思ってくれる相手を見つけるべく、明日から頑張ろうね! とりあえず、明日も図書館に来てくれる? 用事がなかったら、遅くなるかもしれないけど一緒に帰ろう。……って、常磐君、お家、どこ?」
夢から覚めたように瞬きした彼は「別に……別に……」と何かを一人ごちるように呟き、ここで、と言った。
「それじゃ、また明日!」
本当はもっと別の女の子が言うべき台詞だと思ったが、手を振って別れた。
前頁 目次 次頁
INDEX