歌が聞こえていた。人の海の中、あちらこちらから声が合わされているのは、秋の伝統歌でもある豊穣の讃歌だった。歌声は巨大ゆえに混沌とした音の波になり、そこに立っているだけで、まるで水底にその響きの聴いているように思えた。だから、二人がはっきりと聞き取ったのは、誰かが爪弾いた最初の一音だった。空のように高く、海のように深く、実りを産む大地のように豊かな、大気を震わす一音だった。
頬を上気させて被り物を解いたのは黒髪の女。
目を奪われて立ち尽くすのは剣を佩いた男。
時間は二人の周りで、踊り、歌い、舞ってはひらめいた。
その声に詩をつけるように。
「会いたかった」と女は言った。
マ ギ ア
共に神殿の入り口で目を光らせるはずの同僚兵ネイサンの顔が緩みきったのを横目で睨んだ後、アドウニスはため息をついた。
「どうしてここに来るんだ?」
「会いたいから来るのよ」
豊かな黒髪掻きあげた拍子に、手首の腕輪を歌うように鳴らして、マギアは微笑んだ。
その笑顔に目を奪われて呆然とし、次に嬉しそうににやけるネイサンにうんざりしたアドウニスは、やはり堪えきれない吐息で苦悩を表現した。それすらも嬉しそうにして、彼女は少し肩をすくめて言う。
「中に入ってもいいかしら?」
「もちろんだ、マギア!」
マギアは横から入ってきた神殿兵を見てから、アドウニスを窺った。
「……どうぞ。神殿は、誰にでも開かれている」
ありがとう、と笑顔で応え、長い髪を揺らす華奢な姿が奥へと消える。東の異民族の出だろうに、物好きな、とアドウニスは思った。
アドウニスたちが警備を命じられた神殿は、アドウニスたち金髪碧眼のサローン民族が信仰する神の家だ。太陽神や月女神を始めとしてサリュ神族に連なる方々は多いが、特にこの神殿は神々の父ハルセスナラートの住まいである。
しかし、マギアのような黒髪と黒い瞳、そして少し濃い色の肌をした人種は、東の民族の特徴だ。サローン人の王、戦神グランディスの守護を受けたという神王アレグシオスが、東へ遠征したことで、そういった金髪碧眼以外の色彩を持つ者たちもサローン人と大きなくくりで呼ばれることにはなっていたが、生粋のサローン人たちは金の髪と青い瞳を持つ者こそまことのサローン人であるという意識が強い。
だからこそ、黒髪のマギアが、自らの一族の神ではなく、サリュ神族の父神ハルセスナラートの家を訪れるというのが、アドウニスには不思議だった。サローンに取り込まれた多くの東国では、土地の神を捨てられないと聞いていたからだ。
「何を祈ってるのかなあ?」
「落ち着きがない。見苦しい」
神殿兵にあるまじき浮つき具合にアドウニスが切り捨てると、ネイサンはだってさあと唇を尖らせた。
「あーんな他民族のあーんな美人が、まーいにち神殿に来てさ。何を願うことがあるのかと思うと、不思議じゃねえ?」
「単に神殿が好きなだけじゃないか?」
「あー、まあいるわな、建築物に異様な執着を見せるやつ。知ってるか、その代表は今度は山の上に作るんだってさ、神殿。我が王ながら物好きなことだよ」
「……不敬だぞ」
低く言うと、ネイサンはぺろりと舌を出して肩をすくめた。そうしてまだ首を伸ばして奥を覗き込もうとするので、その頭を押さえつけ、いい加減にしろと言うと、彼は眉を上下させて言った。
「……で、何を祈ってるんだと思う?」
視界を遮るアドウニスの身体を透視してみせんばかりにまっすぐな目を向ける同僚に、「知らん」とアドウニスは一蹴した。
日中の神殿は多くの人々が訪れるものだ。休養日である日曜日には特に参拝者は多い。季節も影響し、春には豊作を願って種まきをする農夫たちが多く訪れるし、夏には巡礼者が、秋には実りを携えた者たちが、冬には己に厳しい戒律を課す聖職者がやってくる。
秋の収穫が終わり、ゆっくりと冷え込み始めた季節に神に拝する者は、日曜でなければそう多くはない。人気のない神殿にいるマギアは、だからよく目立っていた。
アドウニスが近付いていくと、彼女は振り返った。手首の鳴り物と同じ繊細さでふわりと微笑んだが、アドウニスはそれには反応せず、奥から出てきた神官に定時通りの礼――異常なしの連絡をすると、すぐに反転して神殿を出た。入り口にはアドウニスが立っていたところに交代した兵が立っており、後輩に当たる兵は生真面目に黙礼を、ネイサンはあからさまに手を振ってアドウニスを見送った。
ハルセスナラートの神殿は、アヴォイの町の小高い丘の上に建てられ、巡礼者たちにはアヴォイの神殿と呼ばれていた。内陸にあるこの町は乾燥した土地柄で、夏は過ごしやすいが冬は少し寒い。丘はすっかり冬に向かって眠る支度を始め、町へ下る坂道に、緑は息をひそめていた。それだけ見ていれば、岩が転がる寂しい道だった。
すると、しゃらんしゃらんしゃらん、とすっかり耳慣れた音がした。アドウニスはやはり反応しなかった。歩む速度を緩めることもなければ、速めることもしなかった。岩が剥き出した道を淡々と下り、丘裾の町を目指した。
しゃらん、と決まりの音のようにひと際大きな音がし、アドウニスは口を開いた。
「もう礼拝はいいのか」
「うん」
短い返答でも、声は鈴を思わせる可憐さだった。
「あなたに会いにきただけだから」
そう言われた男はきっと例外なく彼女に魅了されるのだろう、とアドウニスは思った。そして、自分がその例外であることを願った。
マギアは美しい女だった。豊かな黒髪も、きらめく瞳も。少し濃い色の肌ですら、そっと触れてみたいと思わせる柔らかさと香しさを想像させた。肢体は人の目を奪わずにはいられられないだろう細身ながら艶かしく、しかし彼女はそう服装にこだわらないのか肩から足首までをしっかり隠す衣装を身にまとっていたから、男たちの想像の中では口にできない姿をしていただろう。首や、手首足首に連なった楽器のような装飾品が、マギアという女の頑さと若々しさに隠れた女性を強調するようだった。
彼女が歩くと、装飾品が澄んだ音を立てるので、しゃらりと環の歌う音が聞こえる度に、アドウニスを落ち着かなくさせた。マギアは、やはり美しかったのだ。
「ねえ、何か言って、アドウニス」
マギアは子どもが甘えるような、女が腕を絡めるような調子で言った。アドウニスの心のざわめきはため息に変わった。
言うべき言葉はきっとある。楽しませるものも、拒絶の言葉も。様々な思いとそれを表す言葉は浮かぶが、それを素直に口にすることに、何故か抵抗があった。だからこそ、アドウニスは無愛想な仕事人間と評されることもあった。ネイサンなどは、よくつきあってくれるものだと思う。
そんな胸中に巡らせた思いは、いつものように平坦を心がけるとどこかへと消えていった。口にしたのは、やはり無愛想な調子の無愛想な言葉になった。
「何を祈っていた?」
拒絶もできず、そう問うてしまう自分は、結局はそういうことなのだろう、と自覚するアドウニスだった。傷つけまいとしている。応えてやりたいと思っている。しかし何故か、直前に一歩退いてしまう。
「『何を』?」
「ネイサンが気にしていた。君のような人が、一体何をそんなに熱心に祈るのかと」
「お友達にはあいさつするでしょう?」
彼女の顔を見もせずに顔をしかめたアドウニスの後ろで、マギアはくすりと笑い声をこぼした。
「祈ることなんてひとつだけよ、アドウニス。あなたのこと。あなたの未来。あなたの幸せ……」
「私は十分幸せだ」
「神殿兵としてアヴォイの神殿を警備して、戦争が始まれば兵士として駆り出されて戦場へ行くことを、あなたが本当に幸せだと思うのなら、私はさっきそれを祈っていたのよ」
哀れみもなく、ただ微笑みだけを浮かべてマギアは言ったようだった。
下の道から、礼拝に向かうのだろう者とすれ違った。吟遊詩人なのだろう、楽器を抱いていた。みすぼらしい格好をしていたが、竪琴だけは使い込まれたように見えても磨かれ、きらめいていた。
「明確な望みを持った祈りは祈りではなく願い事なのよ。祈りというのは漠然と救われることを望むことを言うの」
「君は詩人に向いているな」
少しの感嘆と、わずかな冷たい気持ちでそう言った。
俺は兵士だ。神に仕え、ひいては神の加護を持つ王アレグシオスに仕える身。剣を握り、戦神をたたえる者。その道を選んだことを批難される筋合いなどない。ただ、感じ取れる寂しげな空気に、アドウニスの心が揺れた。
「俺の何を救いたいんだ」
「分からない。分からないから祈ったのよ」
間を置いて、でも、そうね、と呟くように言った。
「言葉にするなら、見つけてほしいと思う。『あなた』を見つけてあげて。アドウニス」
気配が唐突に消えた。アドウニスが初めて振り返ると、そこにマギアの姿はなく、彼女が遠ざかっていく証の腕輪の音が、足音代わりに遠くへと去っていくのが聞こえていた。
翌日、アドウニスが仕事を入れ替わるはずのネイサンが、こちらの姿を見つけたとたん慌てて手を招くから、何か変事があったのかとアドウニスは顔色を変えた。それは大丈夫なんだけど、とネイサンはアドウニスを一度落ち着かせてから、声を潜めて言った。
「昨日の昼間から詩人が来てずっと竪琴を弾いてる。で、まだ出てこようとしない。触ろうとすると暴れるから、参拝者に注意するのと、詩人のこと、見守ってやってくれ」
「詩人?」
そういえば昨日竪琴弾きの詩人とすれ違ったのを思い出した。衣服は汚れていて、顔色も悪いあの詩人が、もし昨日から何も口にしていないのだとすれば、危ないのではないだろうか。
アドウニスが踏み込もうとしたのを、ネイサンが引き止めた。
「止めろ。邪魔しちゃだめだ」
「しかし、このままでは命に関わる」
「本望だろうよ。あの詩人は、今、ハルセスナラートに人生で最高の詩を披露してるところなんだ。詩人がここから出るかどうかは、ハルセスナラートの意思によるんだよ」
呼吸するのも苦しいようなかすかさで、音がここまで届いてくる。それでも途切れることがない。
信仰と命、どちらが大切かと言われれば、アドウニスは命を取る。それが戦場で戦ったことのある兵士としての自分の信念だ。
ゆえに、詩人が詩人としての信念で、神の前で弦を詩を奏でているのだとしたら、アドウニスが止めることなどできはしない。
しかし人として見過ごせない焦燥に動くこともできずにいた時、すぐそばを小さな風が吹き抜けた。
その風は、しゃらり、と澄んだ音色を伴っていた。
音だけを響かせたマギアは、あっという間に神殿の最奥へと消えていった。神殿兵たちは呆然と見送っていたが、はっとしたアドウニスはそれを追いかけた。同僚たちの驚きと制止の声が短く上がった。
その場へ駆けつけようとして、アドウニスはすぐに意識して足音を殺した。曲はまだ終わってはおらず、もし足音高くアドウニスが神像の前に進み出て詩人の邪魔するようなら、それは御前を汚す無粋者ということになるからだ。
奥へ進むごとに松明の朱色が眩しい神殿の床には、影が濃く長く伸びていた。月桂樹の冠をかぶった男神の像が深い眼差しで見下ろしているのは、座り込んで竪琴を鳴らす詩人だ。その背中は今にも前へと押しつぶされそうであり、見るからに肩や腕が震え、息も絶え絶えというのが見て取れる。
それでも果てない道程を確かに辿るその曲は、暗くも思える強い熱を持ち、血を吐くように痛む、力を持ったものだった。アドウニスの脳裏には自らの絶叫がよみがえった。戦場の紅、甲冑の敵の影、叫び声をあげる喉と肺の激痛、激しく震える鼓動の重さ……目眩がするような戦いの傷が呼び覚まされたかと思うと、ゆっくりとそれが遠ざかり、穏やかな野原を吹き渡る風に変わった。草のにおいがする。懐かしい空気に胸が迫る。春の花の色、金色の夕暮れに染まる草原、収穫の祭りの炎の赤、冬の暖炉と母の膝のぬくもり……広げられた本を読めもしないのに覗き込んだ幼いアドウニスの前で、そのページがぱたりと閉じられた。
我に返ったアドウニスの視線の先で、詩人が力つきていた。
それを抱き起こしたのは、華奢な腕。黒髪のマギアだった。
見定めるようにわずかに目を伏せて詩人を見下ろし、炎に照らされて黄金色に輝くその手で、詩人の汗を拭い、乱れた髪と汚れた顔を拭ってやる。
「……、神……よ……」
何かを言った詩人にマギアは頷いた。
「詩を持って参じた歌い手にねぎらいを。よくこの道程を来ました。さあ、もう、おやすみなさい」
糸が途切れるような唐突さで、静けさがやってきた。マギアはもう一度詩人の顔を撫で、ゆっくりと身を乗り出してその額に唇を寄せた。
その行いで、何かが満たされた。
詩人の魂か、それとも神の心か。
しかしもしかしたら、アドウニスの心であったのかもしれない。
炎の光を受け輪郭をきらめかせる黒髪のマギアが、最後の詩を、彼自身の最高のうたを爪弾き終えた詩人に口づけるという光景は、サリュ神の神殿で異端でありながらも、サローン人のアドウニスにも深い何かを感じさせる魔力的な美しさがあった。
マギアが顔を上げると、彼女の顔は淡く影になり、瞳は黒とも銀ともつかない光で輝いていた。彼女は音もなく立ち上がると、アドウニスの前に降り立つようにやってきて、立ち尽くす手に何かを押し付けた。
「……竪琴……」
「死した詩人の楽器は、墓標にして風にするものだけれど、その死を知った者が最後の曲を奏でてやるものなの。あなたも知っているでしょう?」
「しかしそれは……」
それは、サローン人の風習ではない。サローン人の詩人も存在するが、多くは王宮が抱える宮廷詩人や楽人であり、彼らは敬意を持って遇される。墓に楽器を置いておくなどという扱いはされない。それは東の異民族を始めとした流浪の民たちの弔いだ。しかしアドウニスが言い淀んだのは、マギアの言うことは正しいという直感のせいだった。
足を動かせないアドウニスの手を、マギアが取った。
連れられて神殿を出て、目を丸くするネイサンたちを振り返ることもできずにいたアドウニスは、坂を下り、アヴォイの町が見えるようになって初めて抵抗した。マギアの手は呆気なく解けた。
「ま、待て! 俺は歌えない。俺は神殿兵で、剣しか握ったことがない」
故郷の家は兄が継ぐことが決まっており、次男だった自分にできることを考えた時、都に出て神王陛下と神々に貢献することが最も両親が喜ぶだろうと、十代の頃思ったことをアドウニスは不意に思い出していた。狼狽え、神殿兵のアドウニスにしては考えられないほど脆弱に慌てる姿を、マギアは静かな眼差しで見返した。
「でも、歌おうとしたことはあるでしょう、アドウニス」
――心臓が止まるかと思った。
「なぜ」
声にならない声で訊いていた。
君がそれを知っている。
剣か、音楽か。分かれ道の前に立ったことを知っている。
剣を持つのは嫌いではなかった。だから神殿兵を選んだだけだ。幼い頃は歌うことが好きだったし、吟遊詩人が現れると、他の子どもと同じようにまとわりついて詩をせがんだものだが、アドウニスには彼や、最期の炎を音に変えるような詩人になれるとは思わなかった。年を重ねると楽器を弾くことからも遠ざかった。
しかしもし、剣か楽かを考えた時、そばに父の剣ではなく祖父の楽器があって、それを鳴らしさえすれば、アドウニスは詩人になることを選んでいたかもしれない。その可能性に、初めて思い当たった。
「アドウニス」
マギアの手が熱い。
「歌うのよ、アドウニス」
同じ温度で、心臓が熱い。
「アドウニス、」
あなたの詩を、どうか――。
「アドウニス!!」
割れ鐘のような怒声が響き、アドウニスはマギアの手を振り払っていた。
その時、今までどんな反応にも笑みを消さなかった彼女が、傷つき、絶望の表情を浮かべるのを見た。きりきりと、張りつめた弦が軋むような音をアドウニスは聞く。
アドウニスを呼んだのは、道を馬で駆け上がってきた人物だった。それが上官の部隊長であることにすでに気付いていたアドウニスは、マギアと彼の間に入った。アドウニスの前で、煽るように目の前で止まった馬が、荒々しい息づかいで頭を振り、地面を荒々しく掻いている。
「隊長殿」
「アドウニス、聞け、戦争だ!」
部隊長は興奮した怒鳴り声で言った。
「神王陛下が再び東へ遠征なされる! 我らにもお声掛かりがあった。行くぞ、東へ!」
興奮で震える声を迸らせた彼は、アドウニスの背後を見てにやりとした。
「陛下の覇道がこの目で見られる。この世にあらさるのはサリュの神々のみ! この世の王は神王アレグシオス陛下のみ! キュゼイオスのように、以東の国も神も我らのものにしてくれる!」
マギアが息を詰まらせるのを初めて聞いた。その反応に満足したのか、他の者にも伝えよと言って、部隊長は馬を翻した。
彼の向かった町は、神王遠征の話ですでに持ち切りなのだろう。
サローンの国より更に東など、アドウニスには想像もできなかった。どれだけ長く、どれだけ遠く、どれだけの道程を行かねばならぬのだろう。その果てに待ち受けるのが戦いだというのは勝利があればこそ歓喜すべきことだったが、何故か重苦しいものが胸の中でしこりになっていた。
それでも、アドウニスの剣には神殿が与える御印が刻まれているのだ。
無意識に剣柄に伸びた手に、マギアが手を伸ばしてきた。冷たい手だった。目はすがるようだった。
「行ってはいけない。アドウニス、行ってはだめ」
「止めてくれないか」
マギアは瞳を揺らした。
「俺を呼ぶのは」
「アドウニス」
悲痛な声を上げたマギアの強ばった手を意識する。
もう終わりだ。
戦いが始まる。今度の遠征は、きっと長くなるだろう。命の保証もない。
だからマギア。
「異民族の魔女め」とアドウニスは吐き捨てた。
「君の声は俺を惑わせる。不快だ」
「嘘。そんなこと、思ってもないくせに」
アドウニスはマギアを振り払った。
「アドウニス!」
そして二度と振り返らなかった。
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