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 理想の女性になる、という宣言は、存外果てしなく難しい道のりだった。
 娘がまた変わったことを言い始めたと父母は最初取り合わなかったが、これまで適当だった礼儀作法をしっかりと見せつけるようにして日々を過ごすようになると、さすがに何かが変わったと感じたらしい。だが当初は頭を打ったのか病気なのかと言われて医師を呼ばれたことはちょっと恨んでいる。
 何事もないとわかると、ミレリアがやる気を出しているうちにと、早々に礼儀作法やダンス、音楽、裁縫、詩作などを教える女性たちが呼ばれた。ミレリアが習練度に応じて教師の顔ぶれは変わったが、それだけミレリアが本気なのだということを両親が理解してくれたということだった。
「ああ、こんな日が来るなんて! 庭に出れば木に登り、本を与えれば枕にしていた、あのミレリアが!」
 言い分は気になったが母の気分がよくなったのなら、まあ目を瞑ろう。
 教師となった自分より年上の男女との交流は、ミレリアの知識を増やした。
 そつのない会話のやり方、気のある素振りを見せないようにして自分を守ること、謙虚さと卑下は異なるということ。教本にないことは彼や彼女たちが日々で身につけた生きるための知恵だったと思う。
 知識が増えると知りたいことも増えた。ミレリアは、ほとんど飾りであるはずの書斎の書物を手にとって、時間のあるときには読みふけるようになった。これについて母はいい顔をしなかったが、父には「時代だなあ」と微笑まれ、好きなものを買ってくるなり借りてくるなりするがいいと、書籍代や貸本屋で利用者証を作るためのお小遣いをもらった。
 その間にも積極的に「恋の免疫反応」が起こるかどうかの確認は怠らないでいた。歳を重ねるにつれて出掛けることのできる場所も多くなり、書店や、教会や、百貨店などであくまでそれとなく異性を探し、症状の有無を確認したが、これという男性は現れなかった。

「だから社交界デビューの直後が勝負だと思うのよ」
 焼きたてのスコーンを横に割り、その上にクリームとジャムをたっぷり載せて口に運ぶ。食べ屑が落ちないようにする食べ方は、この五年でしっかり練習してきた。ミレリアの食べ方はきっと誰もが感心する優雅さになっているはずだ。
 すっかり定着した報告会だったが、アルフォンスは聞いているのかいないのか、ソファにもたれかかって本を読んでいた。
 名門寄宿学校に通うようになってから大体こうなのでミレリアはあまり気にしていない。アルフォンスが休暇で実家に戻っている隙を狙って押しかけているのだから、彼の都合なんていまさらという感じだ。
「やっぱり年頃の男女が最も注目されるのは社交界デビューの前後でしょう。評判が本当なのかどうか、みんな必ず確かめにくるわ。そのときに立派な立ち居振る舞いを見せれば、きっと私に対して免疫反応を持つ人とめぐり合う確率が高くなる。間違いないわ」
 確信を持って微笑みながら、摘んだカップに口をつける。
「……まったく、詐欺だよね」
 アルフォンスは呟いて本を閉じて椅子に放り投げ、きょとんとしたミレリアを呆れたように眺めやる。そんな粗野な態度も、顔立ちの整っているアルフォンスがやると様になっていた。
「立派なご令嬢だっていう評判のミレリア・シンズが、実は幼い頃から虎視眈々と結婚相手を物色している、超超超変わり者のお嬢様だ、なんて」
 馬鹿馬鹿しいことこの上ないという口調に、あら、とミレリアは眉を跳ね上げる。
「意外だわ。あなたは私のことを応援してくれると思っていたのに」
「もう八歳の子どもじゃないからわかっていると思うけれど、若くして結婚するだけが女性の幸福じゃないんだよ。たくさんの教師に学んで、君にはもっと学びたいことや知りたいことが増えたはずだし、どうして性別によって社会的立場が変わるのか疑問を覚えたはずだ」
「それはもちろん、あなたの言う通りよ」
「だったら別の道を選んでもいいんじゃない? 十六なんてあっという間だよ。君は君自身の無限の可能性を潰すというの?」
「そう思うのはきっとあなたが男性だからよ、アルフォンス・イレジレット」
 言葉を飲み、気まずそうに目をそらすアルフォンスにミレリアは微笑む。
「それに私、結婚が行き止まりだなんて思っていないわ。やりたいことがあれば結婚後にすればいいのよ。それを許してくれる相手にはきっと免疫反応が現れるはずよ!」
「……君って人は」
 呆れたような呟きは、ミレリアが必ず自分の言う通りに事を運ぶだろうとわかっているからだろう。幼馴染の行動力を身に沁みて知っているはずだった。
「それよりもアル、おばさまが、休暇前に同級生と喧嘩をしたらしいって学校から通知文がきたことを嘆いていらっしゃったけれど。珍しいわね? あなたみたいな温厚な人が喧嘩だなんて、何があったの?」
 アルフォンスは忌々しそうに顔をしかめた。
「……君には関係ない」
「ええそうね。でも心配くらいはさせてくれていいんじゃなくって?」
 驚いてこちらを見るアルフォンスににっこりする。
「だってあなたは私の大事な幼馴染で恋の相談役なんだもの。あなたから受けた恩は忘れていないわよ、私」
 途端にアルフォンスは顔を歪め、呟いた。
「……ああそう。君にとってはそうだろうね」
 ずいぶん可愛くない言い方をするのでミレリアは眉を上げた。どうやら今日はかなり機嫌が悪そうだ。
 アルフォンスにしては珍しすぎる態度だった。この幼馴染はいつも物柔らかな物言いをする、賢く、物知りな少年で、両親を悩ませていたミレリアとは正反対の優等生だったのだから。
(学校で何かあったのかしら。でも言いたくないのなら無理に聞き出さない方がよさそうね。もし逆の立場だったら、アルフォンスは私にそうするもの)
 ミレリアは矛先を向けることなく「それじゃあ帰るわ」と辞去を述べた。最後に「勉強頑張って」と告げて部屋を出たのは少々嫌味に感じられたかもしれないけれど。
 そうしてその日がやってきた。ミレリアは十六歳になったのである。

 陛下にお目通りするデビュタントは十七歳が目安だが、その事前準備として十六歳になると晩餐会などに顔を出すようになるのが一般的だ。
 ミレリアの初めての晩餐会は、イレジレット伯爵家でのものだった。お隣の小さな娘が十六になったのでお祝いをしようと言ってくれたのだ。
 招待客は伯爵夫妻の友人知人というこじんまりとしたもので、ミレリアもさほど緊張せずに済んだ。『お隣の大好きなおじさま』であるイレジレット伯爵に先導されたときには、これから足を踏み入れる大人の世界を感じて高揚と眩暈を覚えた。私はいま大人扱いされているということを実感した。
 ただ『学校が忙しいから帰らない』と連絡してきたアルフォンスのことは気になったけれど。
 しかしそこでのミレリアの振る舞いは出席者にとって合格点を与えるにふさわしいものだったようだ。次の日から音楽鑑賞会やお茶会のお誘いが舞い込んできたのである。
 そうして参加した晩餐会もその一つだった。母を付き添いにして過ごしていると、顔見知りになった某夫人たちが近付いてきた。
「ご機嫌よう、シンズ男爵夫人。ミレリア嬢」
「まあ、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。素敵な会ですね」
 軽く挨拶をして雑談を交わした後、母の目は傍らでにこやかにしている男性に向けられた。
「ところで、そちらの方は……?」
「あら、ごめんなさい。つい話し込んでしまって。従兄の……ですわ。退屈しているというので連れてきましたの」
 努めてそちらを見ないようにしていたミレリアは、そのとき初めて彼に目を向けた。目が合った途端、彼は輝くような笑顔を見せた。
「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
 にこやかに膝を屈めて挨拶をした後、そのまま四人で世間話に興じる。面白い話を要求されて仕事の話を披露したり、同意を求められたりして相槌を打つ彼の様子を、ミレリアは微笑みながら横目で観察していた。
「……というわけで、どうしようかと思っているんです。私はあまり詳しくないし……」
「だから言ってるじゃないですか。それは……で、……すればいいだけなんですよ。簡単でしょ? どこがわからないんですか?」
「まあ、お詳しいのねえ」
 語気が荒くなりそうな彼を抑えるようにして、母は穏やかな口調で彼を持ち上げる。
(年齢は二十六。法学の勉強をしているそうだけれど、喋り方や言い回しが頭のいい人特有の偉そうな感じ。そういう態度の大きい人、あまり好きじゃないわね)
 恋の免疫反応の症状も覚えない。どうやら彼は該当しないようだ。
「私、飲み物を取ってきます」
「あ、僕が取ってきますよ。ここで待っていてください」
「何が置いてあるか自分で見に行きたいんです。どうぞお構いなく。すぐ戻りますわ」
 早々に見切りをつけたミレリアはその場を離れようとしたが、やはり声をかけられた。微笑みながら強めに言い切ると、彼は曖昧に笑ってその場に留まった。
 やれやれ。ミレリアはため息をつき、広間の様子を見ながら歩き出した。
 いくつかの招待を経て、どのように過ごせばいいかだいぶと慣れてきていたため、好奇心の赴くままに広間をちょろちょろと動き回った。人影が見えたので覗き込んだら、柱の物陰でいちゃついていた男女の邪魔をすることになったのはご愛嬌だ。
 それから数人の知り合いを通じて男性と会話したが、残念ながら症状は表れなかった。まあこんなものだろうと思っていたからがっかりはしなかった。必要なのは出会いの母数を増やすこと。知り合いを通じて結婚適齢期の男性を紹介してもらえるように愛想を振りまいておくことだ。
 こんな姿をミレリアの歴代の教師たちが見たら、困った顔でため息をつき、頭を振ることだろう。仕方のないことだといえ、女性であることと年齢を商品と見立て、媚を売るような真似だからだ。
「……お姫様になるって、本当に難しいわね」
 自宅に戻り、寝巻きに着替えてベッドに横なってから、ミレリアは誰ともなしに呟いた。

 その夜、夢を見た。
 うんと幼い頃の愛らしいアルフォンスが隣にいて、小さな王冠を被っていた。それを見たミレリアは飛び上がった。
 そうだった、アルは王子様だったわ!
 慌てて距離をとってスカートの裾を摘んで淑女の礼をする。
 そんなミレリアはあまり可愛らしいとはいえないドレスを着ている。この色と形には覚えがある。従姉妹たちのお下がりだ。着ているところを見た従姉妹たちが「一番のお気に入りだった」と必ず言ってくるものだから、持っているのがすごく嫌だった。
 あーあ。アルは王子様なのに、私はお下がりを着るしかない。お姫様にはなれない女の子なのね。
 がっかりと肩を落としながら、アルフォンスの返事がないことに気付き、ちらりと目を上げて彼の様子を伺う。
 アルフォンスはつまらなさそうな顔をしていた。そうしてかしこまっているミレリアに困惑したような調子で言うのだ。
『何してるの、ミレリア? 遊びに来たんじゃないの?』
 その言い方がいつものアルフォンスで、ミレリアはほっとして笑った。
 見た目や性格のせいでみんなから王子様だと言われているけれど、アルフォンスはミレリアにとって一番の友達であり、彼にとってもそうなのだと思えたからだ。
『もちろんそのつもりよ! さあ、今日は何をして遊びましょうか?』
 アルフォンスは嬉しそうな顔をした。
 そうしてミレリアは、そういえば最近アルのそんな顔を見ていないわ、と思って、目が覚めた。


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