十六歳になって半年経つ頃には、一週間のうちの何日かは必ずどこかしらに出掛けるのはミレリアの日常と化していた。
その夜、知人宅で催された舞踏会に出席したミレリアは、そこで従姉妹たちと遭遇した。運の悪いことに、今夜は気安い会ということでいつも付添人をしてくれている母も知人もいなかったから、二人を躱すこともできなかった。
「あら、ミレリア。あなたも来ていたのね」
そう言うなり姉はじろじろとミレリアを眺め回し、ふんと顔を背けた。
すでに十九歳の彼女には婚約者がいる。かつて語っていた十六歳で花嫁になるという夢は微妙に叶わなかったのだが、伯母の尽力で裕福な男爵家に嫁ぐことが決まったので、きっと妥協したのだろう。
「ミレリア、あなた最近評判になっているそうじゃない」
「でも新顔で物珍しいってだけだから、あまり調子に乗らない方がいいわよ」
妹の方は十七歳。半年ほど前にデビュタントを済ませて、いまは結婚相手を吟味中だ。絶対に姉よりも早く結婚する! とどこの会でもぎらぎらと目を光らせているそうだが、常に姉と比べられてきた彼女はだいぶと性格が歪んでしまったように思える。わざわざ釘を刺さずとも、珍しがられていることはミレリアもわかっている。
(でも、ふーん、そう。評判になってるのね。積極的にいろんなところに顔を出した甲斐があったわ)
悪い評判だったら彼女たちは嘲笑いに来たはずなので、きっといい噂が広まっているのだろう。どうりで最近男女問わずちらちらと見られると思った。顔を売りまくった成果が出ているようで何よりだ。
「わざわざ教えてくれてありがとう。あなたたちの邪魔をしないようにするから、安心して」
にっこり笑って言ってやると、従妹は鼻白んだ様子で顔を背け、姉を引っ張って去って行った。邪魔者がいなくなって一安心だ。
さてここで免疫反応が出る人と巡り会えるだろうか、と思いながら部屋を移動していると、こちらに向かってくる若者二人組と目が合った。こちらに用があるようだ。
「失礼。突然で申し訳ないんですが、もしかしてミレリア・シンズ嬢ですか?」
突然名前を呼ばれるとは思わず、目を瞬かせる。
「ええ、そうですが、あなた方は?」
「おい、やったぞ! ようやく会えた!」
「実在したな! しかも美人だ」
だが二人はミレリアの問いに答えず、興奮した様子で互いの肩を叩き始めた。何事かわからないミレリアは戸惑った顔をしつつも「なによこの人たち」と警戒心を高めていく。
そんなミレリアを瞬時に察して、二人ははっと背筋を正すと礼儀正しく胸を手に当てた。
「申し訳ない、説明もなく。僕たちはウィンストン校の生徒です」
「ウィンストン?」
それはアルフォンスが通っている紳士養成学校と名高い名門校だ。
「そうです。アルフォンス・イレジレットをご存知ですよね? 僕たちは彼の同級生です」
にこっと笑う二人は、いかにも小紳士といった風情でなかなか感じがいい。ミレリアも警戒心を緩めた。
「わざわざご挨拶くださってありがとうございます。私のことをご存知だったのは、アルフォンスが話していたからですか?」
「ええ。幼い頃から仲のいい幼馴染がいることをぽろっと漏らしたときがありましてね。最初は男かと思っていたんですが、どうやら女性らしいと噂になって、そこから大騒ぎですよ」
「休暇にはちゃんと家に戻るのはその子に会うためだとか、その度に土産だと言ってお菓子を買っていたのは絶対その子のためだとか、それはもう色々とね」
「いやあ、こんなに可愛い幼馴染なら、な」
「ああ。アルフォンスが機嫌を悪くするのも仕方がない」
二人は顔を見合わせてにやにやしている。
ミレリアは内心で苦笑した。確かに、アルフォンスが休暇に戻ってきたときに伯爵邸に行くと初めて見るお菓子が出された。けれどそれはミレリアのためだというより来客が予想されるから準備していただけだろう。気遣いを同級生に妙に勘違いされて、アルフォンスはさぞ鬱陶しかったに違いない。機嫌も悪くなろうものだ。
「あまりからかわないであげてください。ただの幼馴染をそのように無理矢理恋愛に絡めて揶揄されると、いくら温厚で通っている彼も機嫌を悪くしますわ」
「ただの幼馴染って感じじゃなかったですよ?」
「ええ、幼馴染って単語を出そうものなら『絶対に喋らない』と貝のごとく口を閉ざして、何人かの物見高い連中が実際に見に行こうと言い始めたら『ミレリアに近付くな!』とすごい剣幕でした」
これにはミレリアも眉を上げた。
(ちょっと独占欲強すぎない?)
いくら遊び相手を独占したいとしても彼らしくない態度だ。
そんなアルフォンスをからかうための話題はきっとウィンストン校では鉄板なのだろう。二人は楽しげに次々と披露してくれる。
「幼馴染宛に手紙を書いたのに気恥ずかしくって出せなかったって噂あったよな」
「やたら小石を拾い集めて吟味しているから何かと思ったら、一番綺麗なやつをあげたい子がいるって言ったって」
「教頭の娘に言い寄られたときは『好きな人がいる』って断ったんだっけ」
「なにそれ!?」と思わず叫びそうになって慌てて口を閉ざした。
教頭の娘? 聞いてないんだけど!
(……ううん、きっと特に何もなかったから報告する必要はないと判断しただけね。きっとそう! アルってそういうところがあるもの)
ミレリアはちょっと傷ついた表情を作った。
「そんなこと、初めて聞きました。学校のことなんて全然話してくれないんですもの。近頃はお宅に遊びに行って顔を合わせても本ばかり読んでいるし」
「もったいないなあ。あなたが遊びに来ているのに本を読んでるなんて」
「絶対に照れ隠しですよ。顔を合わせる度に幼馴染が可愛くなっていたら、誰だって動揺します。あのアルフォンスだって例外じゃありません」
「本当にそうだったらいいんですけれど、同じ部屋にいてお互いに好きなことをするのはいつものことなので、全然気にしていませんわ」
ミレリアが明るく言うと、一人はくすっと笑い、もう一人は肩をすくめた。
「なるほど。そんなこと瑣末で気にならないというくらい、長い時間を一緒に過ごしたということですか。羨ましいな」
赤ん坊の頃から知っていて、しょっちゅう顔を合わせていたら自然とそうなったのだ。特に羨ましがられるようなことではないと思う。
そうしてミレリアは二人のウィンストン校生を見比べた。
一人は鳶色の髪と目の運動が得意そうな、がっちりした体型の青年。もう一人は黒髪に青い目に賢そうな顔つきをしていて、まだまだ背が伸びそうだ。名門校に通うだけあって見た目は十分素敵だった。話し方も気さくさと丁寧さが絶妙に同居していて、会話を聞いているだけでも楽しい。清潔感もあるし将来性もある。恋をするにはうってつけの人材といえよう。
こっそり観察していたのに黒髪の彼に気付かれて、目が合った途端、微笑まれた。ミレリアも微笑を返す。
(目が合ったけれど心拍は正常ね。彼は違う、と)
さてもう一方は、と思いながら仕掛けることにした。
「私と会ったこと、アルフォンスにお話しになりますか?」
「ええもちろん。ただし、偶然に、ということを強調してね。とても素敵なお嬢さんだったと伝えておきます」
鳶色の彼は爽やかにそう言った。どうやら彼にとってミレリアは免疫反応を起こす対象外らしい。ウィンストン校の友情は厚いというが、残念だ。
「お話ししてくださってありがとうございました。私はこれで」
「こちらこそどうもありがとう」
「いい夜を!」
いい男たちは別れ際も清々しかった。症状が出ていたら必ず結婚していたものを、上手くはいかないものだった。
ふうっと息を吐いて気を取り直す。
まだまだ症状の有無を確かめるべき男性はたくさんいるのだ。
それから男爵家の次男やその友人、別の夜会で知り合った女性の夫の弟、パーティの主催に挨拶に行ったときに近くにいた子爵といった人たちと話をした。誰も彼もミレリアに興味津々で、それとなく年齢や恋人の有無、家庭の状況を探ってきた。それらに当たり障りのない範囲で答えつつもミレリアは判で押したように言った。
「恋愛は初心者ですわ。けれど両親のように素敵な家庭を作りたいと思っていますの」
これだけで結婚に意欲があることは伝わるはずだ、と思っての台詞である。
それを聞いた人たちは微笑ましそうな顔をしつつも、若い人たちは特にミレリアを結婚に値する女性が見定めようと瞳に鋭い光を宿していた。お互い様だとは思うが、やはり気分はよくない。しかしこれに耐えなければ不公平だろう。選別されているのは男性も同じなのだ。
(でもやっぱり疲れたわ……)
少し休もうと、壁際に寄る。
飲み物を手に一息ついたところで、自分の中にただただ疲労感ばかりが蓄積していることを自覚する。一般的にときめきと呼ばれる、体温上昇や赤面、動悸などはまったく感じられない。それだけで薄物のドレスも、控えめで上品なアクセサリーも、レースの手袋も、すべてつまらないもののように思えた。
いつからこんな風になってしまったのだろう。大人たちが集う夜の会の噂を従姉妹たちから聞いたときには、そんなお伽話のような世界で遊んでみたいと思っていたのに、実際に堂々とその場に立てる年齢になると、想像していたよりもずっと退屈だということがわかってしまった。
幼い頃に想像を巡らしていたときの方が楽しくて素晴らしかった。
泡の弾ける黄金色のお酒も、異性と話すことも、恋愛と結婚を夢見ることも、庭の木の登るわくわく感や虫を追いかけて息が切れるまで走ること、美味しいお菓子を作法なんて無視して頬張る喜びには変えられないことに気付いてしまうのだ。
(もしあの頃に戻れるなら、アルと二人でこの部屋を走り抜けるわ。大人の真似をしながら拙いダンスを踊って、飽きたら料理を食べて感想を言い合うの。私が女性たちのドレスを批評するのを、アルは笑って嗜めるんでしょうね)
くすっと笑ったとき、視界の端に近付く人影を見た。そちらに顔を向けると、顔を真っ赤にした従姉妹たちである。
「なに、いったいどうしたの」
「それはこちらの台詞よ! どうして教えてくれなかったの!?」
「何のこと?」
姉妹は広間の向こうへ扇の先を向けて、振り回す。
「アルフォンス・イレジレットよ! いつの間にあんなにいい男になっていたの!?」
ミレリアはぽかんとした。
「アルが……?」
「昔から綺麗な顔をしていたけれど、あんな美形に育ってるなんて思わなかったわ! 年下と思って除外していたけれど、あの見た目で将来伯爵になる身分なら、結婚相手として十分じゃないっ!」
「ミレリア、あなたわざと私たちに教えなかったのね。彼を狙っているから」
戸惑いながらミレリアは慌てて宥めにかかる。
「ちょ、ちょっと待って。何を勘違いしているのか知らないけれど、あなたたちのそれはただの思い込みよ。そもそも、アルがここに来ているのを知らなかったんだけど」
「しらばっくれないでよ。友人と一緒に来ているんでしょう?」
さっきそこで話してたわよと言われ、先ほどの二人がアルフォンスを見つけて声をかけたのだろうと推測できた。アルフォンスがいることを教えてくれない理由が想像できないので、恐らく彼らもアルフォンスが来ていることを知らず、偶然会ったのだろう。
(いったい何をしに来たの? もしかして……結婚相手を探しに?)
伯爵夫妻に言われて来たのかもしれない。不思議とこういった会に参加しているともいないともまったく話さないアルフォンスだったので、てっきり嫌いで避けているのだと思っていた。だがよく考えなくても彼もまた結婚適齢期なのだし、相手を探してしかるべきだ。
「ねえ、紹介してよ! 幼馴染でしょう。昔会ったはずだけど、私のこと覚えてるかしら?」
従妹はそわそわと髪を直したり首元を払ったりしている。彼女がアルフォンスにまとわりつくところを想像したミレリアは、言いようのない怖気を感じて身を震わせた。
(……ん?)
何故こんなに不愉快な気持ちになっているのか。
たとえるならバケツいっぱいの毛虫を見たときのような、皿の上で魚料理をぐっちゃぐちゃにして食べている人を目の当たりにしたときのような、心底「気持ち悪い」とか「行儀が悪い」「汚い」などと感じるような何かがミレリアの胸の中に渦巻いている。
だがその理由を明らかにする前に、とにかく彼女たちをアルフォンスに近付けるわけにはいかないと判断した。
「わかったわ。アルを探すからここで待っていて。見失うと困るから動かないでちょうだい」
「ええ、もちろんよ。気がきくわね」
「早くしなさいよ」
姉の方には「婚約してるくせに図々しい」ともやもやした気持ちになりながら、その場を離れた。早くアルフォンスを見つけて連れ出さなければ、彼を従姉妹たちに引き合わせることになってしまう。
(机の下……に隠れているわけないし、誰かと一緒? さっきの二人は……)
素早く、けれど淑やかに歩きながら黒髪の人間を探す。学校の友人二人組は見つかったが、アルフォンスは近くにいない。首を巡らせるミレリアの頭の中ではぐるぐると従姉妹たちの言葉が回っている。
(アルが美形なのは認めるけれど、あんなに騒ぎ立てるもの? ええと、アルって確か……)
黒髪。大きな目。すらりとした手足。王子様。
ミレリアは驚いて足を止める。
(どうして断片的なものしか浮かんでこないんだろう)
ミレリア、と呼ぶ声は思い浮かべられるのにその顔が思い出せない。
大切な幼馴染を私はどんな風に見ていたのだったっけ……?
ひそやかな声が交わされるその場所で、ミレリアは一人ぼっちになった気持ちで立ち尽くした。
「――ミレリア?」
それを引き戻したのは、耳の奥で何度も蘇らせていた彼の声だった。
はっとして振り返り、そこに立つ青年の姿を見て息を飲んだ。
額を出すようにして綺麗に撫で付けた黒髪。透き通るような肌、通った鼻筋とすっきりとした顎と首。つり目気味の大きな目は高い位置にあってミレリアを見下ろしている。
(アルって、こんなに背が高かったかしら……?)
何故かずっと同じ位置に視線があると思い込んでいたのに、いつの間にかアルフォンスの方がずっと大きい。広い肩幅、大きな背中。すっきりと伸びた背筋には凛とした気配。どこからどう見ても、これから大人になろうとしている「男の人」だ。
(アルって、こんなに……)
「そんなに人の顔を見て、どうしたの?」
ちょっと低い声に直接耳をなぞられたように思って、ミレリアは小さく跳ねた。
(な、なに!?)
どっどっ、と小さく胸が打つ理由がわからず、ミレリアは顎を引いた。混乱しているが、とりあえずこのわけのわからない動揺を鎮めなければならない。
「ど、どうしてここにいるの」
問いを絞り出すと、アルフォンスは目を細めた。
「……たまたま気が向いただけだよ」
「そう……」
それきり言葉が途切れてしまう。
アルフォンスもミレリアから二、三度視線を外したままじっと立っているだけだった。何か言えばいいのに。ドレス姿を褒めるとか、いつもと違って綺麗だとか、そういうことを。
ミレリアは落ち着かない指をそわそわと重ね合わせ、無意味に首飾りをいじって必要もないのに位置を直す。そうしているうちにひどく頬が熱くなっていることに気付く。さっきから自分はなんだかおかしい。
(私、緊張している? そんなまさか。相手はお隣さんの幼馴染で恩人。赤ん坊の頃からずっと一緒だった、あのアルなのよ)
そのアルフォンスがようやく口を開いた。
「『免疫反応』が出る相手は見つかった?」
どきんと打った心臓に導かれるようにしてミレリアはアルフォンスを見た。
(あ)
銀の星を塗したような黒髪と瞳を見た途端、思考がぱちんと弾けた。
胸の奥から湧き上がる謎の熱が一気に顔に昇る。まるで風邪を引いたかのよう。
(……れ?)
逸る鼓動。体温の上昇。意識が酩酊したようになり、思考が鈍くなっている。呼吸が浅く、目が潤む。そしてアルフォンスから目を離せない。
(あれ……あれ、あれあれあれ?)
この症状は、まさか。
「ミレリア?」
――恋の、免疫反応。
静かに名前を呼ばれた途端、ミレリアはひっくり返った。
「ミレリアっ!?」というアルフォンスの驚愕の声を聞きながら、身体に衝撃がなかったのはとっさに彼が抱きとめてくれたのだろうと冷静に考えつつ、意識を手放した。
眠っていたのは数分の間だったようだ。
目覚めたミレリアは自分が長椅子に寝かされていること、傍らでアルフォンスが扇子で風を送ってくれていることを把握した。
「……ミレリア、目が覚めた?」
「ええ……」
起き上がるミレリアにアルフォンスが手を貸してくれる。
「どこか悪いようなら医者を呼んでくれると言っていたけれど」
「なんともないわ、大丈夫。ちょっと……暑かっただけ」
小声で言うと「ならよかった」とアルフォンスが言った。世界の片隅のような場所で二人きり、大きな声を出す必要もないから囁き合うような、そんな声だった。
「……ごめん」
「え?」
「僕がいたから驚いたよね。真剣に結婚相手を探しているところに知り合いが現れたら、思うように振る舞えなくなるのはわかる。ミレリアの邪魔をすることになったのは悪かったと思う」
そう言われて、ミレリアの胸はずきんと痛んだ。何が心を痛めつけるのだろうと考えて、すぐに、アルフォンスが申し訳なく思っている様子が悲しいのだと思った。
「アル、私……」
「でも謝らないから」
強い口調で言われたそれを、ミレリアは最初理解できなかった。
顔を上げたアルフォンスはきっぱりと言う。
「絶対に謝らない。僕はミレリアの邪魔をする。たとえ絶交することになっても」
ミレリアはアルフォンスを見つめ、何度か目を瞬かせた。邪魔をする、その理由はともかくそれを宣言する意味がわからなかったからだ。
いつもならここで「私の邪魔をする気!?」と立ち上がって憤激していただろうが、ミレリアがいつもの調子でないのを察知して、アルフォンスはわずかに肩から力を抜き、顔を背けた。
「……それだけ言いたかった。馬車を回してくれるように伝えておくから早く帰りなよ。じゃあ僕はこれで」
「待って」
アルフォンスの腕を掴む。振り払われなかったけれど、それでもミレリアの心臓はこれから起こりうるあらゆる出来事の結末を想像して早鐘を打っている。
「わざわざ喧嘩を売るなんて、アルらしくない」
「引き止めて言う台詞がそれなの?」
「謎を撒くだけ撒いて逃げようとしているあなたよりましだと思うわ」
その通りだと思ったらしく、アルフォンスは渋い顔になった。
「ねえアル。あなた、私に隠していることがあるでしょう」
「そうかもね」
「教えて」
「嫌だ」
ミレリアはむっとした。そこまではっきり言わなくてもいいではないか。
「教えてよ。どうして私の邪魔をしようとしているの?」
「絶対に、言わない」
「そんなこと言ってると私も教えないわよ。『免疫反応』が出た人のこと」
アルフォンスはぎょっとした。
「出たの!? 誰に!」
「だから教えないって言ってるでしょ!」
叫んだ瞬間、調子が戻ってきた。
ミレリアは両手に腰を当ててアルフォンスを睨む。
「教えてほしいなら話しなさい。じゃないと私も言わないんだから」
「それ、僕が言わないと絶対に口を割らない流れじゃないか」
「よくわかってるじゃない」
褒めるみたいにして言うと、アルフォンスが呆れたように黙り込んだのでつい笑ってしまった。笑ってしまったついでに、すとんと覚悟が落ちてきた。覚悟というより自覚というべきか。
(そうか、私はずっとアルのことを――)
「……どうして邪魔をするかなんて、決まっているよ」
アルフォンスは苦しそうに絞り出した。
「ミレリアに『免疫反応』が出る人に巡り合ってほしくないからだ。ミレリアが不幸になってほしいわけじゃなくて、幸せになるのを邪魔したいわけじゃないけれど……僕は……」
言葉が途切れた。
ミレリアが彼の頬にそっと手を伸ばして触れたからだ。
途端に指先が痺れが走った。痛みのような、甘い疼きだ。身体を震わせるそれに唇を結んだとき、アルフォンスが言う。
「……ミレリア? どうしてそんな顔になるの。そんな、泣きそうな顔」
「だって、アル」
ミレリアは笑み崩れた。
「『胸が痛』くて、『苦し』くて。『切な』くて『涙が出』そうなの。なのにあなたと会えたことが嬉しくて『天にも昇る』ような気持ちになって、『この瞬間が永遠に続けばいいのに』って思うのよ」
あまりにも唐突な台詞は彼を困惑させたようだが、すぐにそれがどこで話したことだったか思い当たったらしい。大きな目を丸く見開いて言葉を失くした。さすがの記憶力だ。
「……本気で言ってる?」
「ここで嘘を言うほど愚かではないつもりだけれど」
「もし冗談でも本気にするから」
アルフォンスは素早く囁いて驚くミレリアの手を掴んだ。
「このまま両親のところに引きずっていって婚約したって言う。嫌だって言ってもふざけただけだって言っても絶対に逃がさない。明日の新聞に婚約したって記事が出るようにしてやる」
「ちょ、ちょっとアル! 発言が怖いんだけれど!?」
「当たり前だよ。どれだけ僕が堪えてきたと思っているの」
そう言ってアルフォンスは抱き寄せたミレリアの肩に額を寄せる。突然の接触にミレリアの心臓は爆音を響かせ始めたが、彼に聞かれるわけにはいかないとわずかに距離を取りつつ大きめの声で抗議した。
「ちょっと待って。さっきのあなたの発言だけど、つまりはそういうことなの? でもあなた、子どもの頃からそれらしい反応を一度も見せなかったじゃない!」
「見せられるもんか。僕のことなんて眼中になかったくせに」
離れた距離を詰めながらアルフォンスが低く言う。
「僕はずっと君のことが好きだったのに、『免疫反応』なんてわけのわからないことを言い始めるし、突然人が変わったようになって『お姫様』みたいになっていくし……それでもミレリアのことは好きだったけれど、競争相手がすごく増えたのは正直腹が立ったよ」
余程鬱憤が溜まっていたらしく、アルフォンスがぶつぶつ話してくれたところによると、学校でからかわれていたのは本当で、お土産の類はミレリアのために用意していたらしい。いつかの喧嘩の原因はミレリアに会わせろとしつこく言っていた生徒とやりあったからで、それ以来同級生たちがミレリアの興味を持たないように防衛線を張っていたそうだ。なので今回はミレリアと同級生たちが遭遇する可能性が高いことを察知して慌てて駆けつけてきたということだった。
さすがに、なんというか。
「お、お疲れ様……?」
まるで縋るようにして抱きつきながら丸まっていく背中をぼすぼすと撫でて言うと「本当にね」とアルフォンスが疲れた声を発した。
「でも、もういいんだ。……いいんだよね?」
多分その言葉には二つの意味が含まれている。
――もう思い悩まなくていいんだよね?
――ミレリアは僕でいいと思っているんだよね?
悪いことをしてきたなあとなんとも言えない感慨があって、ミレリアは眉尻を下げた。開けっぴろげに恋愛について語っていた自分とは違って、アルフォンスはずっと黙らざるを得ない状況だったのだ。
だから言った。
「ええ。私、あなたがいいの。気付くのが遅くて本当にごめんなさい」
お互い目を見交わして、肩を竦めて小さく噴き出した。
ミレリアは長らく遠回りして、アルフォンスはじっとその場に立ち尽くしていたようなものだけれど、いまここにきてようやく、互いに手を取る瞬間がやってきたのだ。
しかし夜も更けてきた。倒れたミレリアの体調を心配した夜会の主催者夫妻には、もう問題ないこと、十分休ませてもらった感謝と後日お礼に伺いたいことを伝えて、誰にも見咎められないうちに二人で帰宅の途についた。
隣り合う自宅にそれぞれに入る手前で、アルフォンスと別れの言葉を交わすために馬車を停めてもらう。
立派なイレジレット伯爵邸と質素だが愛おしいシンズ男爵邸を外に立って眺めながらミレリアはふと、幼い頃のことを思い出していた。
(お姫様に……)
「ミレリア」
馬車が停まったのを見たらしくアルフォンスも降りてやってきた。その顔に浮かぶ穏やかな表情を見て、ミレリアも頬を緩める。
「どうしたの?」
私、お姫様になりたかったの。
みんなに愛されて、喜ばれるお姫様に。
けれどそれを告げる必要はない。ミレリアはもう愛されることを求めて願うだけの幼子ではないから。
「なんでもないの。おやすみなさい、アルフォンス。また明日」
そうしてミレリアは笑って、お隣の王子様――もとい、ミレリアだけの王子様の頬にキスを贈った。
そうしてやがて十七歳のデビュタントを無事に迎えたミレリアは、さらに一年後、アルフォンスの卒業を待ってから無事に結婚した。
でもたとえミレリアの人生に結婚が存在しなかったとしても、それなりに幸せな人生を送れただろうと思う。教養も礼儀も芸術表現も、結婚するために身につけなければならないものと考えられているが、それよりも以前に、人がよりよく生きるための術なのだから。
親が決めたという相手か、父母が言うように「いまはそんな時代じゃないから好きな人と」なのか、といつか結婚することをそう言われてきたミレリアは思いを馳せる。
子どもたちに結婚を説くすぐ近くにあるその瞬間と、そのとき変わっているだろう時代について。
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